トビリシ(現ジョージア共和国、グルジア国とも云う)

トビリシは、ソ連邦の南の端にあるグルジア・ソビエト社会主義共和国にある。グルジアは豊かな国と云われていた。モスクワまで飛行機で農産物を売りに来ているそうで、値段は高いが、物はよいと、フリーマーケットでよく売れ、いい稼ぎになっているらしかった。当時、農民が飛行機で行商に来るとは、場所が変われば話も変わるものだと思った。

トビリシに行く機会があるとは思ってもいなかった。行ってほしいとの依頼が来たとき、周りに羨ましがられたので、ひょっとしたらと思っていたが、あまり深く考えていなかった。行ってみたら、度はずれた歓待に吃驚し、そして美味しい食べ物を満喫できた。もっとも、監視されている不気味さがどこからともなく漂ってくる。19世紀初頭からロシアの属国であり、スターリンの出身地でもあることから、かえって締め付けは強かったらしい。駅のホームでカメラを取り出すと、即座に止められた。ソ連ではどこでも鉄道関連の撮影は禁止だが、ここは反応が早く、厳しかった。

196783日 ホテル「トビリシ」にて

トビリシに来て、6日目になる。ここはモスクワより大体2,000kmは離れている。ジェット機で2時間半、トルコ、イランなどへは200300km位しか離れていない。すでにヨーロッパではなく、中央アジアの一部である。黒海とカスピ海の間にある、人口100万足らずの町である。夏は40℃の温度になると聞いてきたが、天候が悪く、それほどではないが暑い。この国の人の親切にはあきれる。

今のトビリシはグルジア共和国の首都である。黒海とカスピ海の間のザカフカースと呼ばれる地域の国で東隣はアゼルバイジャン、南はアルメニア、西はトルコと接している。アジアではなく中近東といったほうが正しいかも知れない。

729日(土)

午後3時にトビリシの飛行場に着いた。(モスクワより1時間時差がある。従って、東京より5時間遅れる。今夕方の6時だから、東京では午後11時である。)迎えの車でホテル「トビリシ」に入った。

 

夕方、グラムという人が来て、ダーチャ(夏の別荘)に連れて行かれ、10人位の人に取り囲まれ、自家製の葡萄酒、訳の分からぬ食べ物(旨いけど、なんだか解らない)を食べ、グルジャの歌を歌い、ピンポンをした。

730日(日)

車でグルジア最古の町ムツヘタに行く。西暦1年からある町である。今はただの町でしかない。途中に、西暦400年に造られた教会の廃墟が山の上にある。このような遺跡に出会うと、なにか歴史の重みを感じる。

ムツヘタは昔の首都、今は世界遺産になっている。

グルジアはキリスト教の国としては最古の国の一つというのが彼らの自慢。

グラムさんによれば、グルジアは、紀元前3世紀から紀元後5世紀にかけのパルナバツィオニ朝、12世紀のバグラティオニ朝、特にタマラ女王の時代が独立王国としての最盛期、そしてギリシャ人、ローマ人、アラブ人、トルコ人達が通り過ぎていった東西の交通の要所として、想像を絶する歴史を持つ地域であるとのこと。

 

 

その日の夕方、ダビデの丘と言うところからトビリシの夜景を見ながら、その場で作ってくれたカクテル(名前は覚えていない)を飲んだ。実に旨かった。白葡萄酒1,レモナード0.5、コニャック0.1、水蜜2個を混ぜたもの。悪酔いは絶対にしない。ただ日本ではこれだけの旨い葡萄酒やレモナードがないから、作れないかも知れない。

 

731日(月))

夜、映画に行く。フランス映画「ファントマ」である。全部ロシア語になっている。屋外映画館である。この夜寝冷えしたらしく、腹を壊した。途端に医者が来るやら、人が来るやらで、騒ぎになった。医者と皆が決めた処方箋がすごい。まず、ブラックコーヒーを飲み、コニャック100grを飲み、かりかりに焼いたパンを食べろと言うのだ。絶対に治ると云うのだ。また本当に治ってしまった。日本では考えられない処方箋である。


「腹を壊したときのトビリシ風処方箋」

最初にトルコ風のブラックコーヒーを1杯または2杯飲む。あまり甘くしないこと。次にコニャック(ブランディ)を100grグッと飲む。そして、歯が立たないほど固く焼いた真っ黒焦げのパンを必死に囓ること。これで、翌朝けろりと治る。

   

81日(火)

グラムさんの友人の誕生日パーティに誘われ、出かける。例の葡萄酒のカクテルをバケツ一杯作り、15人位でそれを空にする。とにかく美味しい食べ物なのだが、名前も解らず,作り方も解らないのが残念。夕方8時頃から12時過ぎまでパーティが続いた。

グルジアの食べ物は美味しい。まずは、シャシュリク(トルコ風に云えばケバブ)で、牛や羊の肉を串に刺して焼いたもの。羊肉の串焼きなら、ソ連のどこにでもあるが、グルジアのシャシュリクを食べないと本当の味は分からない。牛肉のシャシュリクなどは信じられないぐらい柔らかい。美味、美味。またワインが抜群に旨い。コニャック(コニャックはフランスの特定銘柄なので、本来はブランディと云うべきと思うのだが、とにかくコニャック)も有名で、ヤルタ会談の時、チャーチルが気に入ったので、そのあとスターリンが毎年送ったという話を聞いた。

これだけ歓待されると、こっちはどうして良いか解らなくなり、アメリカ製のタバコでお返しをしたつもり。

82日(水)

今日はグラムさんがあとからホテルに来るはず、映画に連れて行ってくれるとのこと。


昼食は食べに行くのはなく、毎日作ってくれた。記憶に残っているのは、茄子やトマトをくりぬいて、挽肉を詰めた焼き物、今考えると、これもトルコのドルマ料理と同じだった。

尚、グルジアはロシアではない。ソ連邦の中の一つの国であるグルジア共和国である。グルジャ語とロシア語とでは、日本語と英語ほど違うそうである。念のために云うと、トビリシはグルジャ共和国の首都である。ソ連は広いとつくづく思った。


グルジアの人は浅黒く、髭も濃い。女性も髭が濃いのが美人なのだそうだ。そうは云われても、黒い口髭と赤い唇の取り合わせには、一瞬ギョッとしてしまった。美女の基準が違うことは理解しても、やはりいただけなかった。

グラムさんの姓はチチシビリと云い、グルジアのプリンスの血統を継いでいる。姓にシビリが付いたら、名門の出である。グラムさんは1618才のとき、全ソ連ボクシングチャンピオンだったそうである。この人があらゆることにエスートしてくれる。金は全部先方持ち。グルジャ人は金のないのを名誉とするらしい。結局今晩もシャンパンを飲んで、政治論で終わった。

連れて行ってくれたレストランの壁に一面絵が描いてあった。上手とは思わなかったが、強烈な印象を与える、迫力のあるプリミティブ派の絵だった。後で分かったが、ピロスマニという著名な画家の絵だった。「百万本のバラ」の歌に登場する「貧しい絵描き」のモデルだそうだ。本名はピロスマナシビリだそうで、そうすると「シビリ」は名門の出とするのは怪しい。グラムさんにからかわれたのかも知れない。


816日 モスクワに帰ってから

トビリシから、8/8モスクワへ帰った。タシケント、サマルカンドへは行けなかった。ホテルが満員の由。

サマルカンドには、帰りに寄ろうと思ったが、そう簡単にはいかなかった。当時のソ連では実現できるはずが無いと分かっていたものの、やはり無理だった。

 トビリシは日本の青森位の緯度になるが、とにかく暑い国で,葡萄酒とフルークトイヴァダー(果実水のこと。日本にはない。果汁のエッセンスみたいもの)の甘さは忘れられない。お土産に私の横顔の浮き彫りを貰った。とにかく親切な国だった。あまり親切過ぎて、終いにはうるさくなったけれど。

極端な話、寝ている時以外は誰かが隣にいた。つまり、24時間監視付きということ。おかげで自分の流儀で町を見ることはできなかった。だからトビリシの町のイメージを作り上げることはできなかったが、町の中央を流れる、切り込んだ深い河とそれに平行している大通り(ルスタベリ通りか?)が記憶に残っている。

グルジャの切手を入手した。ショタ・ルスタベリという12世紀の詩人の800年記念切手である。大きいけど、これで1枚の切手。切手の右下の「800」の左、訳の分からない文字はグルジャ語だが、アラビヤ語みたいである。


ショタ・ルスタベリは国民的英雄の詩人らしい。「豹皮の騎士」という長編叙事詩を残したという。タマラ女王に捧げられたとのこと。

追伸:このあたりの人が喋るロシア語は標準語とはかなり違うらしい。隣の国のアルメニアのイントネーションはもっと特異的で、「アルメニア放送」と云うだけで、にやりと人が笑う。アルメニア放送と称するジョークがモスクワでは流行っていた。