チェコスロバキア(チェコとスロバキア)

1969年の旅はスペインからスタートしたが、東欧としてはチェコスロバキアが最初の国であったので、この国の記録から始めることにする。当時はまだチェコスロバキアは一つの国だった。

                 

プラハ

プラハは首都である。プラハは幻影の町であった。長い歴史にも拘わらず、破壊の跡も目立たず、しかも薄汚れた建物に囲まれ、おぼろげな街灯の下にかすかに光る石畳の街路は現実のものとは思えず、ミッドナイトブルーの夜空に教会の影だけ残る広場はまさしく中世そのものだった。吟遊詩人にでもなったような気分が味わえた。今は観光の町と化して、若い観光客が溢れかえっているが、それでも依然として独特の佇まいを味わうことができる町である。

1969.4.6 プラハ

それにしても、旅の始めからして、厳しい日程。330日に西独のジュッセルドルフに着いて一泊、つぎの日の飛行機の乗り継ぎに失敗して、途中のスイスのジュネーブで一泊せざるを得なくなり、目的地のスペインのバレンシアでは2泊、やっと43日にプラハにたどり着いた。プラハはやはり共産圏だけあって、夜は寂しい。しかし、プラハは中世の面影を残し、元々共産主義には向かないような気がする。昨年8月に騒ぎがあったとは考えられないほど、静かで穏やかな町である。

前の年の19688月、この町はソ連軍に占領された。自由化を求めて立ち上がった「プラハの春」と呼ぶ運動が、ソ連に押し潰された春であった。ヴァツラフ大通り(公園通りとも呼ぶ)の突き当たりにある大きな図書館の正面に弾痕の跡が残っていた。気に入った町にも拘わらず、写真は、そのヴァツラフ大通りを写した一枚しかない。絵葉書も1枚のみである。



日本熱は高いようで、片言の日本語を話しかけてくる人が多い。プラハにはバーもキャバレーもある。行ったわけではないが、共産圏らしくない。チェコでガラス玉の首飾りを買った。印象が強かったといえば、プラハのフラチャニ城、以前から昔の中世の面影を残していると思っていたけれども、丘に立っているシルエットは美しい。もっとも城の中はつまらない。

当時は時間がなく、写真も撮れなかったので、30年後に訪ねたときの写真を流用することにする。歩き回った場所はプラハ城(フラチャニ城と記憶していた)、カレル橋、旧市街、新市街である。

城の遠景は素晴らしい。楕円形に配置された建物群の中庭に大聖堂が建っている形式の城は他にはない。建物群がそのまま城壁になっている。丹念に見ていくとミュシャ(フランスでのアール・ヌーヴォーと言えばこの人、でもチェコ人)が作ったステンドグラスとか、カフカの仕事小屋とかが目に入る。夕暮れのプラハ城も忘れられない。

 


カレル橋はモルダウ川に掛かる最古の石橋、と言うより今は盛り場になってしまって、昔、一人でぽつんと歩いていたのが懐かしい。


旧市街の中心は旧市街広場であり、旧市庁舎やティーン教会等が周りを取り囲んでいる。今では、バック・パッカー達がヤン・フス(宗教改革のリーダー、火刑に処せられた)の銅像辺りにたむろしていて騒々しいだけになってしまった。


新市街はやはりヴァツラフ大通りである。通りと云うより細長い公園の形をしている。今でも45年前の「プラハの春」の気配が何となく残っている。暗い夜中にのそのそと歩いていた記憶がある。絵葉書のヴァツラフ大通りの正面は図書館(博物館でもある)。

           

プラハの役所で面白いエレベータを発見した。パーテルノステル式エレベータ(名前は数珠式昇降機という意味)で、空箱が常時循環していて、飛び降り、飛び乗りすることで利用する。タイミングをつかむのが少々難しい。慣れるのに時間が掛かった。今では使われていないと思う。

ブルノ

 8月にチェコのブルノという町へやって来た。ブルノ市と云ってもあまり知っている人はいないと思う。チェコで二番目に大きい都市である。チェコスロバキヤ時代では3番目の町だった。プラハよりオーストリアのウイーンに近い。ウイーンからよく車で行った。2時間位で行けた。町自体はあまり印象に残らない、平凡な町である。見本市はかなり古くからあるらしい。

828日にストックホルムより、ドイツに戻り、翌29日 にウイーンへ飛び、そのまま車でチェコスロバキアのブルノへ向かった。商事会社の人がレンタカーで行くというので、便乗させてもらったものの、車で自由圏から共産圏へはいるのは始めてなので、少し期待していたが、別にどうということもなかった。国境には、金網がズーッと張られているだけで、二つの国が分けら れている。日本では考えつかない。国境からそれぞれ500m位離れて検問所がある。その間は中立地帯ということらしい。

 

実際の国境を上手く表現することは難しい。なだらかな丘陵地帯を、緩衝帯を挟んで、二列の有刺鉄線が平行に横切っている。地続きで、景色に何の変化もないので、ちょっと向こう側に国境を押し込んでみようかという気になっても不思議ではない。

 ブルノは穏やかな町で、ホテルも食事も簡単に取れる。他の共産圏と大分違う。チェコ動乱もあったばかりで、期待していたが、表面上は暴動があったようには見えない。拍子抜けした。デモぐらいあるかと思ったが、穏やかすぎる。少なくとも新聞の騒ぎすぎだ。明日91日民宿に移る。

 

1969.9.2  ブルノ Ruzena Koberova夫人邸

92日、ブルノへ着いて五日目、穏やかな天気が続き、ドイツとは正反対な天気。今の気温は16(夜11時現在)。チェコはまったく平穏。昨年8月の動乱の一周年記念の時には、死者4名でたそうだが、今の様子を見ているとそんなことは信じられない。この民宿の家の人の話によると、昨年の8月は「占領された」のだそうだ。夜中に飛行機で戦車を運び、朝6時には市内を完全占領したとのこと。そのときに居なかったのが、残念(不謹慎か)。今は何もなし。一軒の本屋の看板に各国語で「本」と書いてあったが、そのうち、ロシア語とポーランド語とハンガリー語の単語を白いチョークで×印してあったのが目立つ程度。

チェコ事件

1968年にチェコスロバキアで「プラハの春」と呼ばれる自由化の動きが起こり、それを抑えるために、ソ連が率いるワルシャワ条約軍がチェコスロバキアに侵攻し、自由化を食い止めた。その翌年、チェコスロバキアに滞在したので、野次馬根性から、その痕跡を見つけようとしたが、見た目には何も見つからなかった。

見本市の通訳が、1年目前に起きた「プラハの春」の話を語ってくれた。ある朝起きたら町はロシアの戦車で囲まれていたという。若者の間で戦うべきだと激論になったが、結局何もしなかった。子孫に合わせる顔がないと哀しげに話してくれた。そのくせ、この若い通訳はエジプトの女性は割礼を受けているので味気ないなどと平気で言う。一昔前の「存在の耐えられない軽さ」という映画そのものである。でもすぐ頭を下げることで、国を守ったとも言える。プラハは中世の面影をそのまま残していて、好きな町だ。全く戦災に会っていない。血気に逸り、ドイツ、ロシアに抵抗して、廃墟しか残らなかったポーランドと対照的である。

            

さて、展示会の準備に掛かっているが、能率が悪い。やはり共産圏であることは間違いない。通訳が初老のおばちゃん、民宿の家は老夫婦だけ、今回はまったく若い人と縁がない。すごくがっかりする。町を見ると若い女の子が大勢いるのに、どうして? ポーランドのようには行かないらしい。ポーランドの展示会に比べて、こちらのほうがが小さいようだし、もう一つ活気がない。ブルノの町はよくも悪くもない。古い町なのに、手入れが良くない。不思議に思っている。

 

民宿のおばさんは仏語しか話さない。閉口する。静かなとところで、家に物音一つしない。まだ、夕方11時なのに、夜中の2時、3時の感じがする。

1996年 にブルノを再訪した。30年ほど前、見本市で3週間滞在した町にもかかわらず、見覚えがなかった。ボヘミアングラスを買ったのはあそこの店だったか、ここだったか。旧市役所にワニ(ドラゴンと呼ばれている)が飾ってるのを見て、以前はなかったと思ったが、古い絵葉書には写っていた。つまり前回も見ていた筈である。記憶とは不確かなものである。今に記憶が何もかも消えてしまうのだろうか。頭の隅に僅かな記憶ぐらい残ってほしいと思った。

 

1969.9.20 ブルノ

こちらは秋の色が深くなり、夕方はもう上着を付けていても肌寒い感じがする。ブルノの見本市も無事完了(もっとも、売れなかった)、これからポーランドのカトビッツ市へ車で行く。

滞在中、チェコではとうとう騒ぎは起きなかったが(不謹慎だが)、話を聞くと、皆色々の悩みを持っている。占領されたため、勤労意欲がなくなり、飲酒量が増えたということで、強国に挟まれた小国は気の毒なものだ。


民宿では、毎晩豪華な夕食をとっている。料理には自信がないので、作り方は覚えられないが、トマトの切ったものに、卵をゆでたものをほぐして入れ、酢と砂糖(ドレッシング)で味を付けたサラダは美味かった。その他、皮の薄いピーマンに、挽肉と米を入れた、焼いたものらしいものに、ソース(よくわからないが、ホワハイトソースを緩くして、ケチャップを入れたみたいなもの)をたっぷりかけたものなど、いける。毎日食べ過ぎて、苦しい。太るのではないかと気を揉みながらパクパク食べている。明日は6時に出発する。

 

ブルノから飛行機を利用した覚えはないが、なぜか空港の写真がある。

オストラバ

チェコとポーランドの国境に近い町だが、通り抜けただけ。実際に出入国した場所はチェシンという小さな町。

 1969.9.21オストラバ (チェコからポーランドへ)

921日朝、7時半にブルノを出発、午前11時にチェコの国境の町オストラバに着いた。これからポーランドに入る。ブルノは良い天気だったが、オストラバに入る頃には曇りとなり、雨になるかも知れない。


これから行くBytom(ビトム)という町には100km、2時間で行けるだろう。地図を見ても出ていない筈。ポーランドのKatowice(カトビッツ)のすぐ近くにある。ポーランドの仕事が早く終われば、帰りにアウシュビッツに寄ってみようかとも思っている。ナチスの強制収容所として悪名高いところ。

 オストラバを抜けて、国境のチェシンと云う町を通り過ぎた。チェシンの町の中心に川が流れているが、この川の北側はポーランド領、南側はチェコスロバキア領である。川に掛かる橋の両端に管理事務所があり、入出国手続きをする。橋を渡ると本当に言葉と通貨が変わる。ポーランド側の 町をチェシンと呼び、チェコスロバキア側はチェスキー・チェシンと呼ばれる。


第二次大戦後の国境の線引きでこうなったらしい。これが国際政治というものらしい。

ブラチスラバ

ブラチスラバは現在スロバキア共和国の首都である。しかし、当時はチェコスロバキアの地方都市の一つだった。この町には、牧歌的なイメージしか浮かんでこない。街角で買った焼きトウモロコシが美味しかった。30年後に訪れたときにも、そのイメージは変わらず、ひっそりとして、そしてのんびりとした農業国だった。

 

1969.9.19 ブラチスラバ

今日はポーランドのビザを取りにブルノからブラチスラバまでドライブする。距離は140km2時間半。ブルノより小さい町(人口23万)で、住民も髪の毛が黒く、イタリヤ系みたいな気がする。このまえ、ブラチスラバ会談で有名になったが、この町の何処で会談があったかは、分からない。

1992年にチェコとスロバキアの二つの国に分かれた。分離後訪ねたとき、ブラチスラバで、その辺にいたおばさんに分かれた理由を聞いて みたところ、政治家連中が勝手にしたことで、何も良いことがなく、今まで隣村に自由に行き来できていたのが、面倒な手続きがいることになり、お金(通貨) も変わったので、不便この上もないとこぼされた。