ポーランド
ポーランドの国は歪んだ四角形をしていて、その国のなかに、訪れた町、ワルシャワ、ポズナン、クラカウが三角形の形で散ばっている。クラカウを含むポーランドの南側はチェコに近く、何度か出入りしたが、何となく印象が薄い。西側にあるポズナンの町には2週間近く滞在したが、ここもあまり記憶に残っていない。第二次大戦時の被害で古いものがほとんど残っていない。修復もあまり進んでいないらしい。愛国心は人一倍強いと聞いている。
ワルシャワ
ワルシャワはポーランドの首都だが、何度も中継点として通過しただけ。
1969年6月7日 ワルシャワ中央駅
ポーランドに着いた。朝8時にモスクワを立って、朝8時5分にワルシャワに着いた。変な話だが、時差の関係で、実際には2時間飛行機に乗っていた。つまり時差は2時間というわけだ。ワシャワからポズナンに行こうとしたら、予定の便がないとあっさり通告された。夕方にある一便は、何でも休日(キリスト教関係の休日、この国は共産圏のなかで、カソリックの勢力の強いただ一つの国)なので、満員と云うことで断られた。さあ、困った。蒼くなったが、汽車で行くことにした。ポズナンの関係者には何とか電話連絡がついた。というわけで、7時間待って、15時15分発ポズナン行きの汽車に乗り、17時5分にポズナンに着き、商事会社の人に迎えて貰った。
ワルシャワの待ち時間中、町を歩いたが建物は安っぽいか、あるいは戦争でやられたのか、とにかくひどい街並みである。それにもかかわらず、歩いている人の服装は派手で、ちょっと変わっている。意外と美人が多い。それにミニスカート、従って眺めは良い。北欧のような取り澄ました感じがないところがよい。
ワルシャワ空港に降りて、トランジット受付へ行き、国内線に乗り換える手続きをしようとしたら、予約しておいた便はないという。彼方此方で押し問答をしている内に、気がついたら、ポーランド国内へ押し込まれてしまい、国際線に戻れなくなっていた。しかも、言葉が通じない。真っ青になって、考え込んだ末、鉄道を利用することを思いつき、タクシーに乗り込んだ。しかし、言葉が通ぜず、行き先が伝えられない。運転手は一人合点して、国内線ターミナルへ向かう。慌てて身振りで違うと伝える、それでも、どこをどうしたのか覚えていないが、とにかくワルシャワ中央駅についた。何もない駅であった。時刻表は読めたので、ポズナンへ向かう列車を拾い出した。
列車番号 1801 食堂車付き
ワルシャワ中央駅発 15:15
クツノ、コニン経由
ポズナン中央駅着 19:03 距離(304km)
ファーストクラス 129.6 ズローチ(2,100円位)
特急券 36ズローチ(約600円)
真似で切符を買い、ほっとしたところで、列車が出るまでの時間潰しにぶらぶら歩きを始めた。カランとした空気の中で、広い通りを綿毛が転がっていく。あまり人もいない。さわやかな日差し、少し贅沢な気分になれた。しかし25年前には完全な廃墟だった町である。遠くにスターリン様式の巨大な尖塔建物が見える。
ポズナン
1969.6.7 c/o Mr. Stawicki, Danbrowskiego 156, Poznan
目的地のポズナンのホテルは満員、当然民宿となる。普通の家族が身を縮めて作ったスペースに泊めてもらう。狭かったが、スープは美味しかった。コンソメスープに葉っぱが散らしてある。何の葉か分からないが、気にするほどでもない。別の機会にホテルでも食事をしたが、雲泥の差である。家庭料理はどの国でも美味しい。
宿はやはり民宿。商事会社の人と相部屋。安いのは良いが(ざっと750円位)、風呂は共通で、悪いことにお湯が出ない。これには閉口する。大体50万人しか住んでいないポズナンの町で国際見本市をやって、ホテルが一つしかないのだから、しょうがない。もともとこの町は市場だったとか云う話で、ポズナン(ここではポズナニと聞こえる)の意味は握手をするということだそうだ。見本市の準備も簡単で、装置も異常なく動いた。準備に一日もかからなかった。他の人の仕事を手伝うほどだった。
この国は変わっていて、ドルを交換するのに、2つの方法がある。一つはドルをそのままズローチ(この国のお金の単位)に替える方法と、他は特別なクーポンに変える方法がある。このクーポンの場合には1ドルが40ズローチになり、すごく儲かるがドルには戻らない。どっちにするか、計算が複雑でかなわない。そうそう、お湯が出た。
1969.6.17 ポズナン
暑くなった。ポズナンについてから、良い天気が続き、連日30℃近くになる。背広を着ているのが、ちょっと大変。
ようやくポーランドの町にも慣れてきた。共産圏独特の臭いもなく、ソ連から来ると天国だと皆が云っている。買い物、食事はソ連同様に大変だが、それ以外はヨーロッパ並み。食事も下宿で夕食を出してくれるので、それ程不便ではない。下宿は共産圏では珍しく一戸建てで、昔は工場の経営者だったと云う人が住んでいて、立派な家である。調度品もすごいのがあって、とても共産圏の家とは思えない。18世紀の絵もあり、部屋も一階に6間、2階に3間、地下もあって敷地も300坪以上あると思われる。こんな家を日本で持つのは普通の社長クラスでも無理だと思われる。私の部屋は子ども達の部屋(と言っても上の女の子が19才、下の男の子が17才)らしく、ソファ兼用のベッドで、商事会社の人と相部屋になった。その他にイギリス人が二人、他の日本人が一人か二人泊まっている。一人部屋に移ったらとも云われるものの、ソファベッドが割に硬いのが気に入ったので、移らないことにした。
ここの主人の月収3,200ズローチ、闇相場で円に換算すると一万三千円位、公定で五万二千円位になる。何でも問屋のサブマネジャーだそうだ。マネジャーに昇進するためには共産党員にならないと駄目らしい。女の子も働いているが、月給1,000ズローチ。大体ポーランドは月給が高くても4〜6,000ズローチだそうだ。しかし、ポロシャツが1,000ズローチ位、背広が2,800ズローチで、かなり暮らしが大変と言いながら、着ているものも良いし、食事もまあまあで、どうも不思議なところだ。
話す言葉はもちろんポーランド語だが、案外ロシア語が通じる。もっとも、ポーランド語自体がロシア語によく似ている。戦前はドイツ領だったそうで、ドイツ語も良く通じる。この辺の人は一つの言葉しか知らないと言うことはなくて大体二つ以上の言葉を話せる。何時も大国間に挟まれている国の悲劇だろう。戦争中は ドイツに占領され、さんざんな目に遭っているくせに、あまりドイツ人を悪く云わない。それより今の政府とソ連のことを悪く言い、人によってはロシア語を知っていても絶対に話さないことがある。どちらにしても、今、英語とロシア語とときどきドイツ語の単語を使って話をしている。下宿の主人はドイツ語とロシア語ができる。商事会社の人はポーランド語ができるので、親父さんとはポーランド語、もう一人はドイツ語ができるので親父さんとはドイツ語、私はロシア語が少しできるので親父さんはロシア語で話しかけてくる。そして、4人がそろったときにはポーランド語、ドイツ語、ロシア語、日本語と入り乱れて話すので、何か面白い気がした。この間下宿の女の子と男の子に町を案内して貰った時はもっぱらロシア語だった。
結構、苦労したけれども、今日(17日)が最終日で、このあとクラカウという町へ行く。
クラクフ(クラカウ)1969.6.21 ホテル クラコビア、クラカウ
クラカウには、21日の朝に着いた。今回の目的地はクラカウではなく、カトヴィツという町の近くである。約70-80km離れている。6月21日に訪問先に行ったら、まだ据え付ける装置が到着していないと分かり、クラカウに戻り、待つことになった。翌日もう一度車で往復した。仕事そのものは2時間で終わってしまった。合間にクラカウの町を歩いたが、古い町ということで、古い城もあり、良いところだった。共産圏といっても大分違う。しかし土産は買えなかった。良いものがない。(町の名前は、ポーランド語ではクラクフだが、ドイツ読みのクラカウの方が通じやすい)
聖マリア協会の塔から、毎時ラッパの音が響くが、曲の途中で、フッと音が途絶える。13世紀のモンゴル軍の襲撃の時、物見の塔にいた見張りが、襲撃を知らせようとラッパを吹いたが、矢で射倒され、音が止まったという伝説を再現していると聞いた。
6月20日12時50分にポズナンを立って、夕方5時にクラカウに着いた。ポズナンではズーッと民宿していたため、なんとなく家族的な雰囲気ができていて、クラカウに来るときも弁当を作ってもらい、道々車窓から風景を見ながら食べていた。最も天気はあまり良くなく、クラカウに着いても一日中霧の中に居るような感じだった。話を聞くとこの季節はクラカウでは良い季節で、晴天が続くそうだが、今年はやや異常で多分今年の葡萄酒は良くないだろうということだ。汽車の旅が続いたので、時刻表を買い込み眺めていると、なかなか楽しい。ワルシャワからポズナンまで4時間、ポズナンからクラカウまで6時間かかる。ポズナンからクラカウまで大体400km。汽車はあまり正確ではなく、大体30分は遅れる。ワルシャワ−ポズナン間は約300kmである。クラカウは日本の京都に当たるところだそうで、戦災にも遭わず古い建物が残っている。今日博物館(チャルトリスキ美術館)に行って、レオナルド・ダビンチの絵「白貂を抱く貴婦人」を見てきた。モナリザよりはるかに良い絵だと思った。
このあと他の国をあちこち廻って、再度ポーランドに入ったのは9月になってから。
カトヴィツ(カトヴィツェ)
1969.9.23 カトビッツにて
チェコのブルノから車でポーランドのカトビッツへ入り、一仕事して、ブルノへ戻る。そのあとは、プラハへ行って、そこから飛行機でウイーンへ帰る。カトヴィツェ(ポーランド語、英語ではカトビッツ)からの帰り道にアウシュビッツに寄り、チェコに入る予定。幸い天気が良く、ドライブには絶好。下の写真は1920年にポーランドの独立運動に参加した3人のパルチザンの記念碑。カトビッツは工業都市で美しくはなかったが、活気のある町だった。新しいビルがどんどん立っている。
アウシュヴィツ(オフィシエンチム)
1969.9.23 ポーランド カトビッツ→クラカウ→アウシュビッツ→チェコ ブルノへ
チェコを経由して、ウィーンに戻る商社マンの車に同乗する。途中クラカウへ寄る。クラクフとも呼ばれる古都である。美しいお城と大学がある。優雅な町である。しかし、隣町がアウシュビッツである。走っているうちに、鉄道の線路を越えた。ふっと右手を見ると強制収容所が見える。線路は強制収容所への引き込み線だった。晴れた日で、物音一つしない。だけど太陽は見えなかった。見えない筈はないのだが、収容所がぼんやり透明な霧に包まれ、白く光っていて、見通せない。さすがに私でも、異様な気配を感じた。その後、収容所の中に入り、義足の山や、眼鏡のピラミッドを見ても、その異様な感覚はもう戻らなかったが、人が、いくらでも残酷になれることを見せてもらった。
アウシュビッツは思っていたより、かなり狭かった。しかも町の真ん中近くにある。こんなところで、よくあれだけの数の人間を殺せたと思う。当時の面影は残っていないが(建物はそのままだけれど、内は改造してある)、何となく変な臭いがする。あるいは消毒の臭いかも知れない。小学校位の敷地に三重に電気の通っている鉄条網が張り巡らしてあるのは当時のままである。ガス室らしいものも見た。死の壁と呼ばれていた銃殺場に立って、入り口の門を眺めてみた。別に何ともないが、30年前には同じ場所で最後の空を見た人たちがいた筈である。戦争は人を狂気するものだ。犠牲者の国を示す弔旗には日の丸はなかった。何となくほっとした。
さて、暗い話はこの位にして、ポーランドを短期間で出入りしたわけだが、面白いことには、ポーランドは道が良くて、車が少ない。反対にチェコは車が多くて、道が悪い。同じスラブ系の言葉でもポーランドの方がきつく響く、今のところポーランド人のほうが勤勉のようだ。カトビッツは活気があった。チェコ人はずるい所もある。どうも一方的にチェコ人を気の毒に思うこともないかも知れない。ポーランド人よりチェコ人方がずっとすれている感じ。以上、ドライブの途中の印象。
1969.9.24 (Interhotel Alcron プラハにて)
23日に、ポーランド カトビッツからブルノへ、そこで一泊、今日24日無事にプラハに着いた。
カトビッツからブルノまで230km、朝9時半に出て、アウシュビッツを見学して、ブルノに着いたのが、夜7時半、今朝8時半にブルノを出て、プラハに着いたのが、2時半(約220km)。いずれもウイーンのレンタカーで商事会社の人の運転だが、あまり日本で車に乗っていないということでかなり慎重に運転するので、時間が掛かる。助手席で道路標識を見ているのも疲れる。幸い天気に恵まれていたが、ドライブもかなり疲れる。このあと、ウイーンに帰るのがあと残ったドライブ。
ポーランドとチェコを比べると、考え込んでしまう。ポーランド人は直情型で、チェコ人は柔軟である。第2次大戦のときには、ポーランド人は徹底的に抵抗し、徹底的に痛めつけられた。勝てないことが分かっていても、戦い、打ちのめされている。戦後も、ロンドンにあるポーランド亡命政府が一切妥協をせず、結果としてロシアの制圧を許してしまった。一方、チェコ人は抵抗らしい抵抗もせず、はいはいと降参する。占領はされるが、しかし、破壊は避けられる。そのくせ、後ろめたさが滲み出ている。どちらを取るか、決められるものではないことは分かっているが、ため息がでる。