ユーゴスラビア(現セルビア・モンテネグロ)
1969.4.6 (日)、プラハを16:50に立ち、ザグレブ経由でベオグラードに18:50に着いた。ホテル・メトロポールに宿泊したと記憶している。その晩ワインを飲み過ぎた。翌日二日酔いのまま、午前中に、数十キロメートル離れたノビサド市を訪問し、4月7日の夜はブカレストに泊まった。記録ではそうなっている。しかし、かなり無理なスケジュールで、少し疑わしいが、ベオグラードに一泊し、仕事をしたのは事実。しかし、ベオグラードとノビサドでの仕事の記憶はほとんど残っていない。当時はユーゴスラビアという一つの国であったのが、現在何カ国に分離している。20年後戦乱に巻き込まれるとは、当時は想像も付かない陽気な街だった。
1969.4.7(月)
今ベオグラードの空港で書いている。4月6日ベオグラードに着いたとき、喉が渇いて、食事の時、1リットル近くの葡萄酒を飲んだら、二日酔いみたいになって、4月7日はあまり仕事にならなかった。回りに迷惑をかけた。すこし慎むことにする。ベオグラードの町は歩いていない。一日だけだからしょうがないが。これからブカレストに飛ぶ。
二日酔いのまま、車でベオグラード北方40kmにあるノビサドへ行ったのだが、途中車を止めて貰って、道端でゲーゲーやっていた。これはしくじったと思ったが、後で聞くと商談成立とのこと、信じられなかった。
あと記憶に残っているのは、ベオグラードの町の外れに古城があり、その下をドナウ川が流れていたこと。ちょうど天気も良く、きれいだった。覚えているのはそのぐらいだった。
ブルガリア
1967年に一度行った。それきりと思っていたら、この年も訪れていたらしい。今回はまともなホテルに泊まったらしい。
1969.11.6 (木) ホテルリガ ソフィア
11月5日にブルガリアのソフィヤに飛んだ。11月6,7日は祝日でお休みということがわかり、6日の午前中に何とか仕事を済ませた。そのあと、博物館にでも行こうとしたが、もう閉まっていた。どうしようもなく、ホテルへ戻って、寝た。2年振りに来たソフィアは随分町が明るくなったという感じで、どんどん進歩しているという印象だった。
ソ連(ロシア)
再度ロシアにも行ったが、1967年の旅行記があるので、ダブらないように追記する。
1969年には、4月16日から6月5日まで展示会で滞在、7月18日から8月16日まで、10月18日から10月31日まで、合計3回出入りし、約3ヶ月ぐらいロシアにいたことになる。
まず1回目は、日本を出て、ドイツ、スペイン、チェコ、ユーゴスラビア、ルーマニア、スエーデンと廻った後にたどり着いたロシアだったので、多少勝手も分かっている土地ということもあり、入国して正直ほっとした。この時は展示会で一ヶ月以上滞在した。
1969.5.9 (金)ウクライナホテル モスクワ
メーデーに参加した。ソ連のメーデーはどんなものだろうと見ていたが、本当のお祭りだった。日本のメーデーのように、ぞろぞろ行列しているが、アコーデオンを弾きながら踊ったり、陽気なものだった。赤の広場に入れるとは思わなかったが、大勢の外国人と一緒にされ、広場に這入り込んだ。混んでいて廻りはよく見えなかった。ソ連はメーデーのせいで、5月1日から4日まで連休、5月9日から11日まで対独戦勝記念日で連休、土日曜と休日が多い。
モスクワの春は初めてだが、実に変化が早い。4月16日に着いた時は空港付近の川は氷が張っていた。それが、今では遊覧船が走り、灰茶色だった地面が緑色になり、枯れ木は全部葉が付いてしまった。一昨日、公園のチューリップを見つけ、昨日つぼみを発見、今日咲きかけていた。これからは良い季節になる。モスクワに着いて、すぐ夏物に替えたら風がきついので肌が荒れた。そして日が長くなりつつある。暗くなるのが9時頃になってしまった。
2回目はドイツから入り、ドイツへ戻った。途中レニングラードへ行った。
1969.8.5(火) ウクライナホテル モスクワ
この7月からソ連の外貨専門店(ベリョースカ)が二つに分かれ、外交官用と一般旅行者用に分かれた。そのせいで、旅行者用の店にはろくなものがない。だからヨーロッパで買うしかない。だんだん、ソ連は厳しくなる。なにか、一波乱、近いうちに起きそうな気もする。
1969.8.10(日) レニングラード
また特急「赤い矢」号に乗った。レニングラードに来てから3日目、今日モスクワへ帰る。レニングラードは今観光シーズンで人が一杯。一度見たことのある町なので、あまり観光気分にはならない。しかし、良い天気が続き、綺麗なことは綺麗。この写真にあるオーロラ号をはじめて見た。水中翼船にも乗った。
3回目はドイツから入り、ウイーンへ抜けた。この時もレニングラードに行っている。
1969.10.25(土) ホテル・ロシア モスクワ
10月18日にドイツからモスクワへ飛んだが、霧のため途中のワルシャワに降りられなくなって、ストックホルムへ向かった。ストックホルムからモスクワへ着いたのが、夜10時過ぎ(ドイツを出たのが、朝10時、時差、経由地の時間を考えると、約7時間ほど飛行機に乗っていた)。そのあと、クレムリンのそばにあるホテルロシアへ向かった。
1969.10.26(日)
日曜日(26日)の昼間に知人の家に遊びに行ったら、モスクワ郊外を散歩しようと連れ出され、気温+1℃ぐらいのシラカバ森の中を4時間歩いた。途中川の付近で火をたいて、羊の肉を焼いて食べた。食べている最中に雪が降っていた。川は既に氷っている。氷を石で割って水を汲んだ。火は小便で消した。20kmぐらい歩いただろうか。急に歩いたので、フラフラになった。このあとドクターの家に戻り、晩餐となった。ドクターは日本で知り合った人だが、この日は息子のアンドレイ(13才)と一緒。この日からモスクワは雪。夜までに5cm積もった。
1969.10.28 (火)ホテル アストリア、レニングラード
10月26日夜、また特急列車「赤い矢」号に乗って、レニングラードへ来た。レニングラードは雪もなく、良く晴れていた。
1969.10.29(水)プーシキン(レニングラードから南へ25km)
モスクワに帰る途中、プーシキン市に寄り、エカテリーナ宮殿に行った。壁を絵で覆い尽くした部屋などがあり、豪勢な建物である。
江戸時代、大黒屋光大夫が女帝に謁見した宮殿である。なお今は、市の名前がプーシキンからツアールスコエ・セロに戻っている。