ドイツ (北部)
ドイツには約5年間住んだ。主要な町はほとんど訪問済み。もっとも、まだソ連・東欧の共産圏が健在だったころだから、ドイツと言っても西ドイツのことで、東ドイツの町はドレスデン以外行けなかった。ドイツ編では、夏休みなどの休暇を利用した旅行の記録を中心に、いくつか記憶に残っている町々の印象を記したが、訪問先が多いので、南部、中部、北部の3部に分けた(分類は恣意的)。この部では北部ドイツの町々を取り上げている。地図には、訪れた町々、旅行をしたルートと訪問時期を書き込んだ。
北ドイツの旅
アウトバーンA2号線に沿って
ルール工業地域からベルリンまで、北部を東西に横切るアウトバーン(自動車専用道路)A2号線はドイツの主要幹線道路である。この沿線にはハノーバー、ブラウンシュバイク等色々な町が散在する。当時は東ドイツ領を家族連れで走る気は全く無かったので、ハノーバーからベルリンまで飛行機を利用した。
ベルリン
仕事で、かなり頻繁にベルリンへ行っているが、町を見て回った機会はあまり多くなく、観光としては1967年、1975年そして2008年の3回しかない。1967年の際の印象は欧州駆け足日誌に載せた。ここでは1975年と2008年の小旅行の記録を載せる。共産主義と資本主義がぶつかっていた最前線であったので、ドイツ統一後の変貌には驚嘆させられた。
1975.3.28
午前11:15に家を出る。雪と渋滞のため、ハノーバー迄6時間かかった(通常ならば3時間強。約300km)。18:30発パンアメリカン機でベルリンのテンペルホーフ空港へ飛ぶ。ベルリンは風が強かったが雪なし。
ハノーバーまでのアウトバーンは平坦で、あまり変化がない、そのせいで長々と走っている感じがいつもする。ベルリンに一番近いハノーバー空港だが、寂しいローカル空港というイメージしか残らない。西ベルリンのテンペルホーフ空港に着陸する際は、建物の真上をすれすれに飛行機が降りていく。テンペルホーフ空港は空港というより、貨物の集配場と云った方が相応しい。
1975.3.29 サボイホテル ベルリン
午前中クーダムを散歩。たいした買い物をせず、万々歳。午後観光バスで東ベルリンへ入る。降りたのは、ソ連兵の記念碑とペルガモン博物館のみ。
ベルリンの目抜き大通りであるクアフュルステンダム(愛称クーダム)を、端のカイザーウイルヘルム教会まで歩く。歩道にガラスのショウウインドウボックスが立ち並び、華やかさを演出しているが、購買欲をそそられるほどではない。爆撃で破壊されたカイザーウイルヘルム教会はそのまま残っていて、隣に現代風の礼拝堂が建てられている。
昼から、いよいよ東ベルリンへ行く。観光バスのルートは1967年の時と全く同じ。まず、チャーリーチェックポイントで止められ、バスの下を鏡で調べられる。パスポートと顔と見比べながら、一人一人チェックしていく。かなり異様である。前回同様に嫌な緊張感が走った。バスはほとんど止まらない。これも前回と同じように、対独ソ連戦没戦士記念像と博物館の2個所でのみバスから降りることが許された。それにしても、ベルリンを解放するために死んだソ連兵士の記念碑を相手国の首都に建てるというやり方はいかにもソ連らしい(最近になって、記念像の所在地は市の東南のトレプトウ公園であると知った)。
1975.3.30
ホテルからタクシーを頼んで、壁を廻る。改めて壁の存在の怖さが体に染みこんでくる。その後水族館に行く。時間を潰しすぎて、シャルロッテンブルグ宮殿を見損なう。17:30発パンアメリカン航空でハノーバーへ戻り、ツェレの町外れのホテルに泊まった。ホテルというより屋敷だった。
壁に沿って走るタクシーを所々で止めて、見て回る。チャーリーチェックポイント(東西ベルリン境界の検問所)やブランデンブルク門のあたりを歩く。物々しい警戒である。物見台の上から東ベルリンを覗く。ひょいと顔を上げると、壁の向こう側から銃で狙っているのが分かり、早々に退散した。壁際には、脱出に失敗し、死亡した人の記念碑があちこちに見える。タクシーから降りて、昼食に挽肉を巻き込んだ野菜の煮込み(パプリカショーテン)を食べる。おいしかった。気分転換に、ツオー駅近くの水族館に入る。子供たちがおもしろがり、時間が無くなってしまった。
(1975年のベルリン)
(2008年のベルリン)
大きな変化が無いのはクーダム大通りぐらい。
2008.6.22 日 晴れ リントナーホテル アム クーダム
列車ICEでベルリンへ向かう。日曜のせいか電車も人も少なく、静か。食堂もガラガラ。17:10にホテルに着く。マロニエの綿毛が雪のように舞っている(33年前には気がつかなかった)。
33年ぶりにベルリンに来た。すべて変わっていた。列車が市内に入っても森の中を抜けて行くようで、全く建物が見えない。さすが杜の都と言われるだけのことはあると思っていたら、中央駅で様子が一転した。ガラス張りのピカピカの駅舎に地方からの「お上りさん」が溢れかえっていた。昔、薄暗く、汚れていたベルリンが、美しく華やかだが、脳天気な「偉大な田舎町」に変貌していたのだ。
2008.6.23 月 晴れ曇り
8:00にホテルの中庭で朝食、スモークサーモンが美味しい。9:00に出発。朝からすごい青空、現在の東京ではあり得ない晴朗な天気。地下鉄でクーダムからコッホ駅に出て、チャーリーチェックポイント(検問所跡)、ペルガモン博物館、旧博物館(ネフェルティティの胸像を見る)、ブランデンブルク門と廻り、アドロンホテルで昼食(ケーキとお茶)を取り、ポツダム広場までぶらぶらと歩き、100番のバスでホテルへ戻った。ネフェルティティは細面で小さめ(等身大ではなさそう)。14時半頃、同じく100番のバスでホテルへ戻る。16時にデーカーヴェー(百貨店)で買い物。夕食はザワーブラーテン(甘酢漬け牛肉の煮込み)で済ます。
チャーリーチェックポイントは何の変哲もない観光名所に化けていた。30年前の恐怖感と緊張感は何だったのだろう。ペルガモン博物館は毎回訪れたいところで、今回も行くことにした。しかし行く度に工事中で、全館を廻ることはできなかった。それにしてもトルコのペルガモン(現ペルガマ)に存在した大神ゼウスの神殿を丸ごと移築してしまう執念には恐ろしいものがある。ネフェルティティ王妃の胸像は今回どうしても見たかった(ネフェルティティは3500年前のエジプトの王妃、古代エジプト3美人の一人)。しかし保管場所が転々と変わり、どこにあるか分からず、この日になって、やっと旧博物館とわかり、逢うことができた。だが、ガラス箱の中の女王胸像は実体感が乏しく、期待したほどの感激は得られなかった。国際的に所有権を巡り争いが続いているが、実物はいかにも頼りないものであった。ブランデンブルク門も観光名所になり、イベントの開催場所になっていた。ポッダム広場の変貌も激しく、30年前のあの広場が存在していたことが、どうしても信じられなかった。時代は、個人が想像できる境界を、あっさり超えていってしまうとつくづく思った。
ツェレ
北ドィツの真珠あるいは北ドイツのローテンブルクと云われる町で、第二次大戦にも無傷で残った。
1975.3.31 パークホテル フュルステンホーフ
郊外のホテルで目を覚ます。ホテルというよりお屋敷である。気分よく朝食を取る。午前中はツェレの観光。規模は小さいが、木組みの建物がきっちりと建ち並び、整然と区画されていて、300年位前の時代に迷い込んだと思わされる。ツェレの歴史、民族衣装などを展示しているボーマン博物館を見て、ハノーファーに向かった。
小さな町だが、1000年以上の歴史を持ち、観光向きの町なので、その後もゲストを案内したこともある。ツェレ公爵の娘が生んだ兄妹はそれぞれ英国国王ジョージ2世とプロシア王妃になったという歴史もある。
ハノーファー
地味な町である。名前は、ハノーファーだが、日本ではハノーバーと呼ぶことも多い。大きな町であり、産業も盛んだし、見本市も有名だが、これといった観光名所は無い。
1975.3.31
午後、ハノーファーの町に入った。町を一巡りして、ヘレンハウザーの庭に行く。帰路、自動車の調子が悪くなり、ゆっくり運転したため、また6時間もかかった。
ハノーファーの見所はやはりヘレンハウザーだろう。大庭園を中心に洞窟など幾つかの庭から構成されている巨大な庭園施設である。きれいに刈り込んだ幾何学模様の庭園は見事だが、ちょっと安っぽい印象も残す。しかし、金色像が立ち並ぶ庭園劇場の木陰から、ひょっとアルレッキーノ(イタリアン仮面コメディのキャラクター)が顔を覗かせるのではないと思わせる雰囲気はなかなか良い。そういえば、ハノーファーで話されるドイツ語が劇場用標準語とされていると聞いたことがある。もっとも当方にはドイツ方言の区別はつかないので、どう違うかは分からない。そう云えば、私のドイツ語についても色々と云われた。ある時周りの人から、君は高地ドイツ語(中部ドイツ地域)なら少しは分かるらしいねと云われたが、低地ドイツ語(北部ドイツ地域)とどう違うか解らず仕舞い。時々無意識に使っていた単語を方言だと指摘されることもあった。またバイエルン地方の上部ドイツ語は全く理解できず、慰められたこともあった。日本語の方言だってよく分からないのに、ドイツ語の奥行きが理解できるわけがない。
ブレーメン
ブレーメンの音楽隊の童話で知られるこの町はメルヘン街道の北端に位置する。北ドイツの大きな都市に共通する雄大かつ壮麗な煉瓦造りの建物群の間にヒョイと童話ゆかりの彫刻や像が顔を出す。町全体にメルヘンがしみこんでいる。
1975.5.18 土
日帰りのできる距離(300km)にあるので、皆で行くことにした。まずはマルクト広場へ行く。この広場には市庁舎、ローラント像、ブレーメンの音楽隊像、ギルドハウスなどが集まり、ここだけでブレーメンを知った気分になる。
市庁舎は重厚かつ壮麗な建築物だが、もっと価値があったのは、地下のワインケラーだった。ワインの産地でもないのに、巨大な量を貯蔵している。車で行ったので、ワインを飲まず、ブドウジュースを飲んだが、絶品だった。冷たく冷えたジュースは濃すぎず、かといって薄味でもなく、何とも形容できないが、とにかく美味しい。ここのワインを飲んだらどんなだろうと想像を逞しうした。
ローラントは昔のシャルルマーニュ大帝の武将で、直接ブレーメンと関係ないはずだが、商人たちが教会に対抗して強大な像を建てたと聞いて何となく納得する。音楽隊の像は見た通りである。
広場の裏側のベッチャー通りに行く。一商人が作った短い道で、色々趣向がある。途中の「職人の中庭」には7人の怠け者の彫刻等があって面白い。印象派の感覚で作ったそうだが、ナチスからは退廃的と排斥されたそうだ。
ブレーメンの建物は煉瓦作りが多い。石造りとは異なる緻密な建物がきちんと並び、北部ドイツ独特の景観を作っていて、ハンザ同盟時代の威光を示している。ブレーメンが有力なメンバーだったハンザ同盟は中世ヨーロッパの商人連合団体として名高い。10世紀から19世紀まで、ドイツは神聖ローマ帝国と称していたが、実質は日本の藩のような、数多くの封建諸侯が割拠し、北部には日本の堺のような自治権を持つ商人町も多く存在した。それらの町々が作った、北方貿易のための組合が、ハンザ同盟であった。今でも残光は残っていて、例えばフラッグキャリア(航空会社)はルフトハンザであり、ブレーメンの車両ナンバープレートはハンザブレーメン(HB)である。
ハンブルク
縁の薄い町だった。たまに仕事で行っても、町をうろつくことはなかった。大きく見所は、アルスター湖と市庁舎、ザンクトパウリとレーパーバーン地区、そして港ぐらいだが、ほとんど歩いていない。盛り場であるレーパーバーンも一度位歩いたと想うが、なにも印象に残っていない。夏休みで北欧に出かけたときのアルスター湖周辺のメモが残っていた。
北欧の旅の往路で
1975.8.16 ハンブルク ホテル マイヤー
朝9時に出発。ハンブルグまで途中ずっと雨が降っている。すごく寒い。まっすぐハーゲンベック動物公園に行く。入園すると、華やかな色彩模様のインコ達が迎えてくれた。通路に沿って止まり木が並び、一羽ずつ留まっている。さすがに鎖で繋がれていたが、入園者と直に顔を突き合わせる仕掛けになっている。園内には柵や檻が見あたらず、放し飼いが主だった。この日は、ハンブルクで泊まることにして、電話をあちこちかけて、ホテルを探すが、中々適当なところがない。北欧に行く途中であり、無理に町中で探すことはやめて、外アルスター湖北岸近くのホテルに決めた。夕食はウナギのスープ。
泊まったホテルは、家族経営の小さな宿屋だったが、もう存在しない。ハーゲンベック動物公園のことは以前から知っていたので、出発するときには、ここに寄ると決めていた。今でこそハーゲンベック・スタイルの動物園は多いが、当時は、このような無柵放養形式の動物園を知らなかったので、新鮮だった。
1975.8.17
ホテルを9時半頃に出る。アルスター湖のあたりを散歩する。外アルスター湖の眺めは悪くなかった。ただし強風で寒かった。
別の機会に、内アルスター湖の周りを歩いたことがある。豪壮な市庁舎、巨大な建物の連なり、整然とした街路、いかにもハンザ都市という感じだが、実はハンザ同盟が弱体化する17世紀頃からハンブルクは隆盛を誇るようになっていった。北欧中心のバルト海の商売より、新世界アメリカをも含む、イギリスとの貿易がこの町をさらに大きくしていったとのこと。日本にとっても、第二次世界大戦前までは、ドイツでの拠点はハンブルクであり、企業の欧州事務所はハンブルクに集中していた。しかし,戦後は後背地が東ドイツとなり、取引が制限されたため、日系企業支店はルール工業地帯の事務所であるジュッセルドルフに流れていった。ハンブルクに疎遠になってしまった所以である。
フレンスブルク
デンマークとの国境の町である。今はドイツ領だが、歴史の中では、デンマーク領であった時期も長いし、支配者はたびたび変っているので、住人の意識は,想像しているのとは違うかもしれない。デンマークに行くために通っただけで、町は見ていないが,荒涼とした海岸線は忘れられない.
北欧の旅の往路で
1975.8.17
風雨がひどい。ハンブルクからアウトバーンA7号線を北上する。アウトバーンは途中のノイミュンスターから先は開通していなかったが、さらに国境のフレンスブルグに向かう。フレンスブルクの町には入らず、国境で休憩する。なにも無い、さっぱりした海を見ながらデンマーク領に入る。
フレンスブルクを知らず仕舞いになったが、結構賑わっている町らしい。現在すでに、アウトバーンA7号線もフレンスブルクから南独のフュッセンまで開通しており、ドイツ全土を南北に貫いている。第二次世界大戦末期、フレンスブルクはベルリン陥落後の首都であった。短い期間であったとのこと。
リューベック
リューベックはハンザ同盟の盟主だった。しかし、過去の残光は残るものの、大都市としての威厳はもう無い。むしろ伝説とおとぎ話の町と云った方が似合う。上空から町を見たことがあるが、大地にへばりついている亀の甲さながらの地形が浮かび上がり、むしろ可愛いという印象だった。
北欧の旅の復路で
1975.8.20
9時半過ぎデンマーク領コペンハーゲンを出発、一路南下する。子供達が車に酔ってしまう。ロランド島南端ロトビイに到着。ロトビイからフェリーに乗る。かなり大きい船。別に揺れることもなくドイツ領プッツガルテンに接岸。ここからまたアウトバーンでリューベックまで走る(雨)。リューベックのカールシュタット(デパート)で買い物。ホルステン門など町中を少し眺めてから、また、出発。午後4時頃塩街道を走る。途中小さな田舎町グロース・ザラウからラッツェンブルガー湖を見る。向こう岸は東ドイツである。景色は良いが、不穏な気配が漂う。午後7時少し過ぎ、シュヴァルツェンベックという町で車を止めてホテル探しをする。リューネブルグのホテルに電話したらどこも一杯。やむを得ず、ラウエンブルグのホテルに電話する。良い具合に空いていた。30分後に着く。意外と良いホテルで嬉しくなる。エルベ河の岸辺にある。見晴らしがとても良い。ひさしぶりにドイツ料理がおいしい。
リューベックの町には魅力がある。2,3回ぐらいしか訪問していないので、町をゆっくり見てはいないが、いつも惹きつけられる。同じハンザ同盟の町でありながら、ハンブルクやブレーメンのような威圧感を感じさせる町ではない。昔はリーダーとして、バルト海の覇権を争ってデンマークに戦いを挑み、見事生きぬいたが、商業の中心がバルト海から北海、大西洋と移っていく中で、凋落し、穏やかな小都市としてひっそり生きていると云った印象を与える。ちなみにハンブルクもブレーメンも今でも独立した州であるが、リューベックはそうではない。話は変わるが、魚料理が素晴らしい。「船員組合の家」ハウスのレストランで食べた舌平目の美味しかったこと、今でも忘れられない。
リューベックからリューネブルグまでの80kmほどの道が「古き塩の道」街道である。リューネブルクでは地下岩塩層からの塩水を汲み上げ、塩を造り、リューベックへ運び、ニシンの塩漬け用にバルト海沿岸に売りさばいたらしい。膨大な利益を生んだという。
リューネブルガー・ハイデ
リューネブルガー・ハイデ(荒れ地)はリューネブルク西南30kmのところにある自然保護公園である。車は入れない。
北欧の旅の復路で
1975.8.21
まずリューネブルグへ行く。町を見ずに、リューネブルガー・ハイデを目指して走る。観光の拠点ウンデロー村に着く。ここからテクテク歩いてハイデの中に入る。ヒースの花が咲いていて、かすかに臙脂色になっているのを見る。食事はソーセージ。牛一匹丸ごとの毛皮を買う。
ハイデは砂地で、大きな樹木は育たず、ヒースが一面に広がっている。このような自然ができた原因ははっきりしていない。氷河期の名残とも云われる。ヒースはエリカとも云う。エリカはこのあたりに多いらしく、この辺の街道をエリカ街道とも呼んでいる。
ゴスラー
北欧の旅の復路で
1975.8.21
起伏の小さい北ドイツだが、ハノーファーとベルリンの間、少し南に下がったところにハルツ山系がある。その北西端にゴスラーの町がある。金、銀、錫などの鉱山として知られ、他の町とは少し違った雰囲気を持っている。
リューネブルクからアウトバーンに乗って、ハノーファー、ヒルデスハイムを通り抜け、ゴスラーに行く。市庁舎を夕方5時ぎりぎりで見物できる。5時丁度にに仕掛け時計(グロッケンシュピール)の鐘が鳴り、鉱山で働いている人の行列が動いて行くのを見る。スーパーで水を買ったり、魔女の人形を買ったりして午後6時に車に戻る。疲れたのでここに泊まることにして、案内所でホテルを探してもらう。町外れのペンションが見つかる。大きな部屋。夕食はカルトエッセン(ソーセージとチーズの食事で、暖かいスープは付かない)。疲れていてあまり食べられない。8時半には皆寝てしまう。
ゴスラーはブロッケン山など魔女伝説の山々に近いせいか、街角に怪しげな彫刻が飾られている。お尻から金貨をひり出している人形とか、鉱山の町とは云え、やや下品。
ハメルン
童話「ハメルンの笛吹き男」で知られる町である。
北欧の旅の復路で
1975.8.22(金)
ハメルンを目指して出発。また雨がパラパラしている。途中ひどい降りになる。お昼頃にハメルン着。雨小降りになる。博物館を見て、仕掛け時計(グロッケンシュピール)で「笛吹き男のお話」を見て、その後、笛吹き男が実際に姿を見せたと言われるレストランに行き、パプリカの肉詰めを食べる。おいしい。
あとスーパーで家に帰ってからの食料品を買う。白菜があったので二つも買う。あとは一目散に家まで走る。午後6時過ぎに着く。夕食はご飯と味噌汁で済ます。
ハメルンの伝説は史実であると町の人は信じている。1284年の6月26日に笛吹き男の笛の音に130人の子供が誘い出され、消えてしまった。二人帰ってきたが、一人は盲、もう一人は口がきけず、なにがあったか分からなかった。町がネズミ退治の報奨金を笛吹き男に払わなかったためである。その笛吹き男が訪れた居酒屋(現存する)に、その時の経緯を麗々しく書いた説明板が貼ってある。当時の東欧植民の話が元になっていると云われている。
その他の町
ブラウンシュヴァイク
12世紀にドイツ北部の有力領主ハインリッヒ獅子公が居城を構えたころから、この辺りで勢力のあった町らしい。
1972.3.21
町はずれの中央駅近くのホテルに泊まる。夕方に旧市街まで歩き、ブルグ広場の獅子の像の周りの建物を眺めまわして、昔の領主のことを想像しながら、引き返す。もちろんライオン像はハインリッヒ獅子公を称えたものである。
この町にはよく通ったが、特に繁華街もなく、夜散歩するぐらいしかなかった。1985年に再度訪問し、ブルク広場を散策した。ブラウンシュヴァイクもハンザ同盟には加盟していたが、毛織物産業が主であったことから、あまり同盟に積極的では無かったらしい。30年戦争のあと衰退したが、18世紀に大学ができてから再度盛んになったとのこと。
ゲッティンゲン
大学の町である。グリム兄弟や、40名を超すノーベル賞受賞者等の学者を輩出している。
1971.7.5
顧客からお土産に「ガチョウを抱えた少女像」のミニチュアをもらったが、なんでも大学で学位を取った時、この少女にキスをする習わしがあるそうで、大事に持っていろと言われた。
この町にもよく通った。この町には、大きな広場がない。旧市庁舎前の小広場にグリム童話の一つである「ガチョウ番の娘リーゼル」が立っている噴水が町のシンボルで、博士になった学生が像にキスをするという風習があるそうだ。実際にキスするシーンを見たことはない。ミニチュアの方は、転々と引っ越しをした間に姿が見えなくなっていた。
ドレスデン
当時の東ドイツの町で、唯一行った町である。
1973.8.14
見本市に参加するために来た。町中を歩いてみる。広々としているが、人も少なく、空疎な感じ。空爆の跡もまだ残っていて、建物の瓦礫が山になっている。聞くところによると、意識的に整理しないらしい。町はずれに、新市街ができていると云う。例のソ連方式の四角い無味乾燥な建物群だろう。あまり人と接触も取れず、手ぶらで帰った。
第二次大戦末期、無意味な空襲だったとされている「ドレスデン爆撃」のため、美しい街並みを完全に破壊された町は、当時はまだ復興していなかった。町を代表する建物だったツヴィンガー宮殿はある程度修復されていたものの、すごく惨めな姿を晒していた。そこから遠くない場所に共産主義のプロパガンダのための巨大な文化宮殿が建てられていた。
ここに記した以外に訪れた町・場所はかなりある。北部だけでも、キール、ミュンスター、ヴァッサーブルク、ビーレフェルト、デトモルト、ヘルマンデンクマール、ギュータロー、パダーボーン、キサンテン等、数え上げるときりがない。それぞれに物語はあるが、資料は散逸、記憶も定かではないことから割愛せざるを得なかった。