イタリア
イタリアというと、憧れを持つ日本人が多いが、実は何時、どこで、どのように騙されるか、分かったものではないと信じていた。さんざんドイツで聞かされたせいもあるが、まんざら嘘でもない。とにかく用心を怠らないことにした(後になって、騙されないための暗黙の了解があることが、なんとなく見えてきたが[つまり、イタリア人に、そちら側の人間だと、思わせること。簡単ではないが])。イタリアへは、ビジネスの機会が少ないこともあり、あまり廻っていない。ミラノとモデナに行ったのと、1973年にローマ、ナポリ、カプリ島、ポンペイを廻ったぐらい。
1972.10.26ミラノ
ミラノ空港に着いた。どうやって、市内へ行こうかと迷い、タクシーの列を覗き込んでいたら、突然一人の運ちゃんが「そこまで分かっているなら、心配するな。乗っていけ」と云われ、乗ることにした。走り出してから、先ほどの会話の意味が分からず、いろいろ聞いてみると、タクシーを覗いていたのは、メータの有無を確認して、白タクを識別していたと勘違いされたと判明した。そこまで事情が分かっていたわけでもないから、苦笑いするしかなかった。
ミラノからモデナへ向かう道筋の途中、同行してくれるサービスマンの家に寄った。マンションだったが、居室のデザインはすっきりしていて、床も大理石の造りで、優雅な住いだった(もっとも当地では大理石はありふれた材料でしかないのだが)。家具、食器類も素晴らしく、イタリアと云う国は貧乏かも知れないが、個人の暮らしは豊かであると云う噂を確認できた。彼は元小型車のレーサーで、一瞬でターンする方法とか、レースの運び方などを話してくれた。カーブでの、零点何秒かのブレーキを踏むタイミングが勝敗を決めるのだそうだ。アウトストラーダ・デル・ソル(太陽の自動車専用道路)でモデナへ向かった。
ミラノのお目当てはドゥオーモとガレリアである。ドゥオーモはつまりドームで、大聖堂のことである。同心円状の市街の中心にある。中に入るひまはなかったが、建物のギザギザのイメージに特徴がある。よく見れば尖塔の集まりに過ぎないが、あまり他では見られない。ガレリアはガラス天井のあるアーケードで、今ではどこでも見受けられるが、ここで見たのが最初だと記憶している。オシャレな遊歩道だけれども、買い物をする気はなかった。
モデナ
1972.10.28モデナ
ミラノから170km南に位置する、何の変哲もない町。イタリアとは思えない。どこにフェラーリの工場があるのだろう?
食べ物は美味しい。貝のコキールだったと記憶しているが、イタリアなら、どこでも美味しい食べ物に出会えると思いこんだ瞬間だった。
モデナと云えば、フェラーリの工場があるはずで、ひょっとすると、町中でフェラーリに出会えるかと思ったが、影形なし(フェラーリ社はモデナ市の郊外、モデナ県マラネッロ町にあるそうだ)。ついでに、モデナは高級バルサミコ酢の産地として有名だそうだが、知らなかった。
ローマ
イタリアは苦手でも、やはり一度は行きたい。遺跡は山ほど有り、風光明媚な場所はいくらでもある。それで、夏休みにイタリアへ行くことにした。まずはローマで観光、ついでナポリへ飛び、カプリ島で泳ぎ、ポンペイを訪ねた。
1973.7.18ローマ ホテル ナポレオン
7時50分発ローマ行きの飛行機に乗る。心配していた空港のストも問題なく、少し遅れた位で出発できた。ローマのレオナルド・ダ・ビンチ空港からバスで市内の鉄道中央駅のテルミニ駅へ行く。テルミニ駅かららタクシーでホテルへ行くことにして、運ちゃんと交渉する。2000リラと云われ、高いと思い、他の運ちゃんと交渉し、1000リラになる。ホテルでチェックインを済ませ、また駅へタクシーで戻る。今度は500リラで済んだ。本当のタクシー代は謎のまま。
市内見物はベネチア広場から始める。ヴィットリオ・エマヌエル二世記念堂を横目で見ながら、カンピドリオ広場へ登る。広場の裏手からフォロ・ロマーノを見下ろす。下に降りて、フォロ・ロマーノを歩く。良い天気で暑い。遺跡の土台の石の上に座り込んでばかりいた。野良猫がいっぱいいる。2000年前にシーザーがここで演説したのだが、想像してみても何もイメージは浮かばない。なにしろ残っているのは石ころだけなのだ。次にコロッセオへ行く。引き返して、トラヤヌス記念柱近くのレストランTaverna Ulpiaに行く。トラヤヌスの市場跡を見下ろしながら食事。魚がおいしかった。目の前で、ドレッシングを混ぜ合わせてくれる。その手付きの見事なこと、ボーッと見とれていた。
ベネチア広場はローマ観光の出発点、ここから威容を誇るヴィットリオ・エマヌエル二世記念堂を見上げると、場違いなイメージを受ける。古代の遺跡とは全く異なる白い建物だからである。渾名が旧式タイプライターと聞くと、なるほどと納得してしまう。カンピドリオ広場には皇帝マルクス・アウレリウスの騎馬像があるが、鐙(あぶみ)を使っていない。ローマ時代には未だ発明されていなかったとのこと。ミケランジェロがデザインした広場の模様が美しい。
カンピドリオ広場を廻り、フォロ・ロマーノを見下ろすと、全体像が分かるが、降りてしまうと、石切場のようで、暑いだけ。1700年経った元老院の建物も単なる煉瓦の倉庫にしかみえない。コロッセオは猫臭い。観光客の数より猫の方が多かったかも。トラヤヌス記念柱はとても高く、表面に浮き彫りになっているダキア(今のルーマニア)征服史を目で追うことはできない。レストラン「タベルナ・ウルピア」のウエイターの素敵なこと、食べ物も美味しかったし、雰囲気もよいと印象に残る店だった。
1973.7.19ローマ
今日はタクシーでヴァチカンに行く。やはり大きい。ミケランジェロのピエタに圧倒される。次にシスティーナ礼拝堂美術館へ行く。上を見るので、首が痛い。出口のすぐそばで昼食。またタクシーでパンテオン。パンテオンから迷いながら歩いて、トレビの泉に行く。そばの日本人の店で財布とベルトを買って、次はスペイン階段まで、ショッピングしながら、街を歩く。疲れてしまう。レストランを探したけど、まだやっていなかったり、休みだったりしたので、タクシーでホテルに帰る。夕食はホテルの裏のピッツェリアで、楽しい店。ピザがおいしい、たこ焼きみたいで。
ヴァチカンの圧巻はミケランジェロのピエタ。これより素晴らしい彫刻を見たことがない。当時はまだガラスで遮られておらず、間近で見ることができた。本当に素晴らしい。
聖ペテロ大聖堂の本尊は椅子である。聖ペテロの司教座を表しているそうだが、何とも言えない違和感。システィーナ礼拝堂の天井はかなり高く、ミケランジェロの絵の細部までは見えない。感じから言えば、色の濃い、ケバケバしい画である。
スペイン広場は工事中だった。くたびれきって、夕食のためのレストランを探す気がなくなり、ごく普通のピッツェリアに飛び込んだのだが、結構美味しい。狭い入口に掛かっている、床まで届く細長いビニール帯の暖簾が目印。なお、イタリアではピザやスパゲッティは庶民の食べ物で、正式なレストランのメニューには載っていない。
1973.7.20ローマ
アッピア街道沿いの、サンカリストのカタコンベまでタクシーで行く。あたりは糸杉が多く、花がたくさん咲いていて、華やかでとても明るいところ。一転して、暗黒のカタコンベの中に入る。中はちょっと怖かった。地上と地下の落差は大きい。カラカラ帝浴場跡までタクシーで戻る。大きくてあまり人もいないので、のんびりできた。ゆっくり見て、今度バスでポポロ広場まで行って、ボルゲーゼ公園に入る。子供達にせがまれて、ゴーカートに乗せる。とても疲れてしまったので、タクシーでホテルへ戻る。夕方、ホテル近くの魚レストランScoglio di Frisioに行く。美味しい、良い店。民謡を聴く。
タクシーを降りたところはローマ郊外、太陽が燦々と輝き、あたりは緑に囲まれた典型的な田園風景、アッピア街道のローマの松が美しい。そこから、カタコンベ(地下の墓場)に潜ると、いきなり、冷気に囲まれ、ランプに照らされたところだけが僅かに見える暗黒の洞窟となる。左右には遺骸を横たえてあったはずの横穴が続いている。当時幼かった娘は、40年経った今でも、怖かったことを覚えている。ここカリストのカタコンベには聖女セシリアの墓所と伝えられる場所があり、首を斬られた痕のある像が置かれている。彼女は音楽家の守護聖人である。
ナポリ
1973.7.21ナポリ ホテル エクセルシオール
ローマ朝8時50分発の飛行機に乗るため、タクシーで空港まで行く。割にきちんと飛行機が出る。ナポリまで1時間足らず。ナポリの空港で車を借り、まずポンペイに行く。着いたが、ストライキで入れない。しょうがないので、ソレントまで走る。途中海水浴場がたくさんある。ナポリのホテルに夕方着く。古そうなホテル、広い部屋が二つ。プールはなかった。
ローマからレオナルド・ダ・ダヴィンチ空港へ向かう高速道路の道端に夾竹桃が咲き誇り、ピンクの帯となって、どこまでも続いていた。イタリアにしては、珍しく飛行機も遅れずにナポリに着いた。早速レンタカーでポンペイに向かったが、閉まっていたので、そのまま先に走り、ソレントの町へ向かった。ソレント近くに着いたものの、高い位置の高速道路から、断崖の真下に見えるソレントの町へ入る道が見つからない。とうとう探しあぐねて、ナポリに引き返し、ホテルに入った。ホテルエクセシオールはサンタルチア(地区)にある。子供達の要求するプールはなかった。念のため、これから行くカプリ島でのホテルを確認したところ、やはりプールはないという。早速プールのあるホテルに変える手続きをした。一旦落ち着いてから、サンタルチア港に行き、海辺のレストラン「ラ ベルサリエーラ(La Bersagliera)」に行った。海に面したテラス席で、心地よい潮風に吹かれながら魚料理を食べる。向かいは卵城。贅沢な雰囲気。帰り道、暗い路地で4,5人の子供達がナポリ民謡を歌っているのに出会った。仲間に入れと誘われたが、遠慮する。
カプリ島
カプリは東西6km、南北3kmの岩山だらけの島で、本土のソレントからの飛び石のように連なっている。ソレントはナポリ湾の南端に位置しているが、湾の反対側の北端の沖合にイスキア島があり、ちょうどナポリ湾の両端にしずくのように両島がぶら下がっている格好になる。イスキア島は観光地で、毎夏大勢の人が押しかけて来るそうだ。一方、カプリ島は2000年前、時の皇帝アウグストスが買い取り、ティベリウス帝の屋敷の遺跡が残るなど、高級リゾート地である。実際に、カプリがイタリアの一部であるとはとても思えない、ゆったりとした時間が流れていた。治安はよいし、歩いている人は皆おしゃれで、我々ものんびりとした気分で過ごすことができた。
1973.7.22カプリ島 ホテル レジーナ クリスティーナ
水中翼船でナポリからカプリ島へ向かった。意外に距離がある。カプリ島のマリーナ・グランデ港からケーブルカーで少し小高い広場へ上がり、そこからメインストリートを、と云っても狭い路地だが、少し行ったところのホテルに投宿した。夕食は、広場に戻り、エビのグリルを食べる。鬼殻焼きに似ている。美味しい。
広場はウンベルト一世広場とよばれ、手頃な広さである。毎日、夕方になると、広場に戻りエビを食べていた。ピザも美味しかった。
朝からプール。昼から、散歩。島の反対側のマリーナ・ピッコロへ降りる。海の水は一見きれいそうだが、黒い油滴が散らばっている。泳ぐのは無理。また、ホテルのプールに戻る。
1973.7.24 カプリ
青の洞窟へ行こうとして、ホテルに相談したが、波が高く無理とのこと、諦める。
カプリ島には洞窟がいくつかある。青の洞窟は特に有名である。マリーナ・グランデから船で行き、小さなボートに乗り換え、身体を縮めながら入口を潜るのだが、小さな子供連れでは危険に思えて、断念した。
1973.7.25 カプリ
子供達を置いて、アナカプリへ行く。バスで一山越えるとアナカプリの町へ出る。人がおらず、閑散として淋しい。リフトでモンテ・ソラーロ山に登った。展望は素晴らしい。そこらをブラブラして帰る。
カプリ島は厳しい地形で、景観はよいが、平地がほとんどない。島の東西にモンテ・ティベリオとモンテ・ソラーロの山があり、その間の小さな鞍部がカプリの町で、両脇のマリーナ・グランデ(大きい港)とマリーナ・ピッコロ(小さい港)から険しい道をよじ登るしかない。一方、モンテ・ソラーロ山の地中海側中腹にアナカプリの町がある。アナカプリは別荘地で観光客は見られない。
ナポリ
1973.7.26ナポリ
水中翼船でカプリからナポリに戻る。妻が船に酔ってしまい、桟橋でしゃがみ込んで動けなくなる。旅行鞄は岸壁に運ばせたので、放っておけない。桟橋の先端と岸壁の間を行ったり来たりして、背をさすったり、荷物をまとめたりする。ようやくタクシーを呼んできてもらい、ホテルに向かった。少し休息したら、けろりと船酔いが治り、晩飯を食べに出かける。Da Umbertoというレストランで、魚のグリルを注文した。日本と違って、火が充分通っていない感じで、ちょっと心配だった。大きな魚だったが、味はもう一つ。
水中翼船に乗らない方がよいと、後から聞いた。たしかに乗っている時間は短いが、振動が激しく、乗り心地が悪い。しかも、密閉式なので、肝心のベスビオ山とナポリ湾を眺めることができない。普通のボートでゆっくり行けばよかったと思ったが、後の祭り。
ポンペイ
1973.7.27ポンペイ
再度レンタカーでポンペイに行く。ポンペイの遺跡の印象は強い。今まで見てきた遺跡は全部風化していて、2000年前の面影は想像するしかなかったが、ポンペイには昔の町がそのまま残っている。ただし、町全体にわたり、一定の高さで屋根が切り取られているところが、生きている町ではないということをはっきりと伝えてくる。いくつかの建物を見て回り、近くのピッツェリアVittorioで食事をして、空港に戻り、ミラノ経由で帰った。
ポンペイの町は遺跡とは思えない。しかし、この空間は、実際には2000年前の空間であり、人影は見えず、静寂のみ残っている。だが、となりに立っている観光客が紀元一世紀のローマ人であっても少しも矛盾を感じさせない。
入口である「海の道」と呼ばれる狭い路地を抜けると、ポンペイの街並みが広がる。右手のバジリカ(公会堂)、左手のアポロ神殿を見て、先に進むとフォーラムと呼ぶ広場が現れる。この辺がビジネス街らしい。バジリカには柱しか残っていないが、商取引の場で、大きな建物だったようだ。ここから、真っ直ぐにメインストリートのアッボンダンサ大通りが延びていて、突き当たりに闘技場がある。遠いので見に行くのを省略。そのかわり、近くの大劇場を見に行った。フォーラムの左手には、整然とした街並みの中に、豪邸があり、パン屋も酒屋もある。入口に「猛犬に注意」のモザイクの絵がある家がある。住人は悲劇詩人だったとある。当時、詩人はエリートだったのかも知れない。
道路は歩道と車道に分かれていて、車道の石畳みには轍の跡がくっきり残っている。本当に現代の道路と変わらない。歩道は少し高くなっていて、ところどころ、歩道から歩道へ、飛び石伝いに車道を横断できる。つまり横断歩道があったということ。水道管も残っていて、現代の都市となにも変わらない。この文明が崩壊して、中世の暗黒時代を経て、2000年後にまた同じような文明に戻っていると云うことになる。人間は一体何をしてきたのかを考えさせられる空間でもあった。