アメリカ西海岸以西

西海岸地方にビジネスで行くことはなかったが、後年になってロスアンジェルスに住んでいた息子を訪ねる機会に恵まれた。

ロスアンジェルス

「悪徳の町ロスアンジェルス」という表現が似合う町とかねがね思っていたが、実際の雰囲気も似たようなものだった。数多くの町々が集まって出来ている広域市街地でありながら、車産業優先のため、市電等の公共交通網を作らなかったというお国柄なので、車を持てない老人と黒人がバス停で、なかなか来ないバスを待っている風景をあちこちで目にした。路上には人影はなく、車がビュンビュン過ぎていくだけである。一方、金さえあれば、遊ぶところに事欠かず、優雅な生活を楽しめることは保証できる。「天使たちの町ロスアンジェルス」というネーミングもかなりの皮肉である。

1993.8.12

トーランス

1830成田発、同日1200ロスアンジェルス着。空港からトーランス市の息子のマンションに到着し、一息入れた後、午後3時ごろディズニーランドへ出かけた。


トーランスはロスアンジェルス国際空港から南へ10km位離れたところにある地域で、日本の企業が多く進出していて、日本人にとって住みやすい町のようだ。治安もいいらしい。普通の町で、印象に残るところは特になかった。海岸も近く、少し西に走るとレドンドビーチに出る。結構に賑やからしい。


ディズニーランド

トーランスから南東の方向に位置するアナハイムに向かい、ディスニーランドパークに入った。元祖ディズニーランドだけになかなか見ごたえがある。サブマリンやモノレイルなど、幾つかのアトラクションで遊び、夜カリブの海賊ショウを見て帰ってきた。かなり大きな船をぶつけ合い、海賊たちの派手なチャンバラを見せるなど、お金がかかっていることがよく分かる。

後に東京ディズニーランドにも行ったが、アナハイムのディズニーランドとの違いが大きすぎた。アナハイムでは、適度に混み、しかも一緒に遊ぼうという空気に満ちていたが、東京では殺人的に混雑し、その上遊ばせてやるという無言の押し付けを感じた。たかが遊園地、されど全力で客を喜ばせようとするところは、アメリカのプロフェッショナルの凄さである。



  ロスアンジェルス市内

いわゆるロスアンジェルス繁華街を回った。ダウンタウンからリトルトーキョー、ハリウッド、チャイニーズ・シアター、ハリウッドボウル、ビヴァリーヒルズ、ロデオドライブ、グリフィス天文台と疲れた。

1993.8.13

リトルトーキョー

ロスアンジェルスのダウンタウンを目指して車を飛ばす。リトルトーキョーを歩く。閑散として、人影も少ない。かっては賑やかだったそうだが、戦前のようには戻らなかったとのこと。第二次世界大戦時に根こそぎ日系人が強制収容所送りこまれた痛手から回復できなかったことを表していて、アメリカにおける日本人差別の原点を見る想いがした。


リトルトーキョーはダウンタウンに隣接している。どこにでもあるチャイナタウンの独特な景色と違って、普通の街並みで、他の街と変わったところはない。ここには、1986年のチャレンジャー号爆発事故で亡くなったオニヅカ大佐を記念したONIZUKA  STREETがあり、記念碑もある。南側は治安の悪さで定評のあるスキッド・ロウ地区に隣接している。


ハリウッド

定番のチャイニーズ・シアターの前庭に埋め込まれたスター達の手形足形を見て、ビヴァリーヒルズのロデオドライブをブラブラ歩くが、まともなショッピング街とは思えなかった。映画スター達の屋敷を書き込んだ地図を売りつけられた。この地図を見てスターの家巡りをするファンがいるらしい。ハリウッドボウルにも行くが、リハーサル中ということで入れなかった。夕方になり、グリフィス天文台に行く。広域ロスアンジェルス市街が一望に見える観光名所として有名だが、映画のロケ地としても知られ、ジェームス・ディーンの彫像が居座っている。




なんともまあ、ごたごたとした街並みが並んでいる。ブランドショップも山ほどあるが、いつでも撤退できるような安物の建物ばかりである。観光客で溢れ、まさしく映画で持っている町と分かる。

ユニヴァーサルスタディオ

1993.8.17

ユニヴァーサルスタディオは映画村である。京都の映画村とは月とすっぽん位のスケールの差はあるが、内容的には同じことをやっている。当たった映画の見所がアトラクションとして構成され、中に入ると映画の中に飛び込んだ気分になる。丁度映画バックトゥザフューチャーが流行っていた時で、ロケーションセット巡りに、待っている人の長蛇の列ができていた。感心したのは、待っている人を飽きさせないため、並んでいる行列の一定間隔毎に小さなアトラクションや案内板が設けられていて、それを見ているうちに時間がすぎていくという上手な演出がされていたことだ。スタディオツアーでは大洪水やキングコングなどで人を驚かしていた。実際のロケもやっていて、セント・バーナード犬を主人公にした映画「ベートーベン」を撮っていた。最後にウオーターワールドというスタトンマン活劇を見て切り上げた。



 

大人にはディズニーランドよりユニヴァーサルスタディオの方がよほど面白い

1993.8.18 

12時半トーランスを出発、翌198時半に成田に着いた。

一週間ほどロスアンジェルスに滞在し、観光地を回ったのだが、妙に気になったことがある。天候である。一年通して天候は良いと聞いていたが、朝起きると、辺りは明るいが、太陽は出ていない。霧が出ているわけもなく、視界はいいのだが、空には色がない。雲一つない。ただぼーつと明るいだけ、匂いもないし、どこもおかしくないのだが、落ち着かない。昼頃からは日差しが照りつく夏の日になる。トーランスは海も近いので、もやが発生するのかなと思ったが、これが毎日続くので、ちょっと気味が悪い。個人的にはロスアンジェルスに住むのは遠慮したいと思った。


グランドキャニオン

1993.8.16 グランドキャニオン国立公園 サウスリム

グランドキャニオン日帰りツアーに参加した。近くのホテルでピックアップしてもらって市内のホーソン空港に行く。小さな空港で小さな飛行機に乗る。多分ビーチクラフト機、定員10人ぐらい。東に航路を取って、町を抜け、モハビ砂漠や山岳地域の上を通り、約1時間半位飛ぶ。天候もよく、快晴の飛行日和だったが、それでも皆乗り物酔いになった。小型機は敏感で、結構上下する。コックピットに座った娘が、操縦桿を任され、ちょっと触っただけで、機が傾き、機内に悲鳴が沸き起こった。本人は、やったやったと大喜び。そして小さなグランドキャニオン空港に無事着陸した。



バスに乗り換えて、グランドキャニオン・サウスリム(南断崖)に向かう。途中は平凡な高原風景が続くだけ。ビジターセンターで降りる。センターの中に入り案内板を見てから、マーサやヤバパイなどの観光ポイントをバスで回る。バスを降りて歩いている分には普通の平地だが、それが、いきなり崖になり、キャニオンに直面する。それまでの高原が突然消えて巨大な虚空間が出現する。真下を見れば崖であることは分かるが、対岸が一枚の絵になってしまった。立体感がまるでない。長い長い水平線が真横に引かれ、上は真っ青な空、下は岩壁という構図であった。グランドキャニオンは世界で屈指の絶景と聞いていたが、風景と云うより異空間である。地球が、気が遠くなるほどの時間をかけて、悪戯に刻んだ彫刻であって、人のあずかり知るところではない。確かに立体感がなく、対岸が平面的に見えるが、実際には向こう岸のノースリム(北断崖)までかなりの距離があるはずである。単なるV字型に彫り込まれた谷ではなく、全体としては、U字型の渓谷で、あちこち削り残し部分が浮かび上がっている。東京都の2倍以上の広さの空間が谷として目の前に広がっているのだが、実在空間としてどうしても受け取れない。まして、これだけの広がりを、真下に流れる小さなコロラド川が作ったものとも思えない。ヒトの感覚を超えてしまっている。でも気を取り直して、もう一度眺めると、これだけのことで、神々しさとか、神秘さなどはない。感動も生じない。ああこれが地球だと受け取るしかなかった。





グランドキャニオンは、7000万年まえに隆起してできたコロラド平原をコロラド川が4000万年かけて浸食して出来上がった峡谷である。総面積は4927㎢に達し、長さは450km、ざっと東京―京都間の距離。100年で2mずつ削り出され、現在もその通り浸食が続いている。谷の深さは12001800メートル、幅は6kmから29km位。最初に見た時、その大きさと異様な地形のせいで、比べるものがないと思ったが、天地をひっくり返してみると、高さが2000メートル級の山脈になるだけで、それほど驚くこともないと分かる。このくらいの造作は世界に沢山あるのかもしれないと思った。

ホノルル(ハワイ州)

ハワイ諸島はアメリカの一州だが、アメリカ大陸から離れ、太平洋の真ん中に位置している。州都のあるホノルル市はオアフ島にあるが、リゾート地ということで、あまり関心は無かったが、息子夫婦が孫と行くというので、付いていった。

2005.2.10

2005.2.11成田午後4時発(日本時間)、2005.2.10ホノルル午前8時着。空港から市内ワイキキにあるアロハラウンジ(エアターミナル)に移動、細々とした説明を受けた後、シャトルバスでアンバサダーホテルに到着。ホテルはコンドミニアムで、広々としていて、キッチンも完備しているが、自炊するつもりはない。ホテルは、ワイキキのカラカウア大通りとクビオ通りの交点にある。表に出て、日本人移民の父と云われるカラカウア王の像に挨拶、アラモアナ・ショッピング街を散歩し、タイ料理ケオスで夕食。今日は一日36時間起きていたことになる。ホテルに帰って寝る。


アメリカ50番目の州、ハワイ諸島のオアフ島にある州都ホノルル市に行った時の話である。主に、ワイキキ地区のカラカウア大通りとビーチの周りを動き回った普通の観光客として過ごした。カラカウア王はハワイ王朝最後の王で、日本を頼ろうとしたが、アメリカ人入植者のクーデターにより共和国に変わり、その後、州になった。テキサス併合の例と同じである。

2005.2.11

今日は潜水艦に乗る。桟橋からシャトルボートに乗り、ワイキキ沖合に泊まっているアトランティス・サブマリンに乗り換え、約1時間の海底散歩で、窓の外の熱帯魚、ウミガメ、サメなどを見る。飛行機の残骸や沈没船などもある。帰り、ワイキキに戻るシャトルボートからダイヤモンドヘッドが見えた。この後、ワイキキでウインドウショッピングを楽しむ。夕陽を楽しみながら、トロリーバスで延々とホテルまで戻る。夜トニーローマの店でスペアリブを食べる。まずまず。帰ろうとしたら、雨が降ってきた。タクシーが捕まらず、苦労した。







30m位の透明な海底に横たわる色々な残骸はあらかじめ沈めて置いたとのことで、魚が寄ってくるらしく、見せ所の一つとなっている。この観光用潜水艦は全長30m、窓の大きさは直径80cm、定員64名とかなりの大きい。

2005.2.12

ワイキキ海岸へ海水浴に行く。ビーチが混んでいて、場所探しが大変だった。泳いだり、走ったり、砂遊びしたりして、遊びまくった後、ビーチでシャワーを浴びてそのままホテルに戻った。夕方はサンセット・ディナー・クル−ズに参加。フラダンスに迎えられながら、スター・オブ・ホノルル号に乗船。ディナーセットの夕食後、デッキで景色を楽しむ。遠くのダイヤモンドヘッド、海に沈む夕日、ホノルルのダウンタウンの夜景など。帰りは2100カラカウア・アベニュー(ブランド通り)を通って帰る。



ハワイに来たら、ワイキキ・ビーチでの海水浴を外すわけにはいかない。適度に暑く、適度に混んで、透明な海水と真っ白な砂浜は申し分ない。もっとも、この砂浜は人工で、少し沖合に行くと、ごつごつした溶岩を踏みつけることになるので、ご用心。絶えず白砂を補充しているらしい。サンセット・ディナー・クル−ズの食べ物は平凡だが、夕日の風景は素晴らしい。


 2005.2.13

ダイヤモンドヘッドに登る。バスで行き、登山口まで歩く。登山口から山頂までエッチラオッチラ登っていく。途中、つづら折の山道、階段、トンネル、また階段と辿り、螺旋階段を抜けると頂上。流石に眺めは良い。真下のレアヒ・ビーチ・パークからワイキキのビーチやホテル群、そして山側まで見える。標高232m、子供でも問題なく登れた。帰り道、インターナショナル・マーケット・プレイスに寄る。ホテルのプールにも入ってみる。夕食は田中オブ東京で鉄板焼きを食べる。孫はご飯が恋しかったみたい。





ダイヤモンドヘッドもハワイの名所。よくハワイの観光写真に出てくる。登るのに大した準備も要らないし、誰でも登れる。上からの眺めがよいので、登ってみる価値はあると思う。しかし、登っても巨大な噴火口の外輪山だとは気が付かなかった。インターナショナル・マーケット・プレイスで民芸品を探したが、これというものはなかった。土産はTシャツのみ。

2005.2.14

14:00ホノルル発、日付変更線を超えて2005.2.16成田着。

滞在したのは、ハワイ州ホノルル市ワイキキのみ。これではハワイを知ったとは言えないが、観光が主要産業であることには間違いない。後は軍需関係だそうだ。ハワイ文化に関する古いものは見あららないし、ハワイ音楽が街にながれているわけでもないが、計算されたリゾートタウンは賑やかで、しかも賭け事は禁止されていて、日本語も通用するので、日本人観光客には安心して楽しめる行楽地になる。結構なことである。

 

アンカレッジ(アラスカ州)

アラスカの土を踏んだことはない。しかし、北極上空を通過する北回りヨーロッパ線が給油のためにアンカレッジに寄港していた冷戦時代に何度かここの空港に降りた

1967.12.28

ドイツのハンブルグから日航のDC-8「十和田号」に乗る。年末なので、ジェット機はひたすら漆黒の暗闇の中を突っ走る。窓の外、いつもは上に見るオリオン座が足元に見える。客室でしゃべる人はいない。目的地の故郷のことを思っているのかな。突然アナウンスが入る。濃霧のため、アンカレッジには着陸できないとのこと。軍の基地に降りることになり、何にもない滑走路に停まった。天候が変わるのを待ってアンカレッジに戻るらしいのだが、降りた飛行場がローカルな基地のため、大型機用のスターターがなく、取り寄せるので時間がかかると再度アナウンスがあり、延々と機内で待つ。長い長い時間とじ込められたあと、ようやくアンカレッジに戻った。アンカレッジのトランジット待合室では東洋系の売り子が待ち構えていて、達者な日本語で盛んに土産品を売り込む。機内で待ちくたびれ疲れていたので、相手するのも面倒だった。ようやく離陸、機内食にタラバガニが出るはずだったが、草鞋のようなステーキに化けていてがっかりした。結局丸一日遅れで羽田に着いた。出迎えの人達は大変だったようだ。申し訳なかった。

アラスカ州の中程からアラスカ半島がつきだしているが、その付け根のところに入り江がある。17世紀にキャプテン・クックが発見したので、クック湾というが、そこのアンカレッジを目指して飛行機は降りていく。何となく好きな風景である。


第二次世界大戦後、ロシア上空を飛ぶことができなかったのだが、1957年スカンディナビア航空が北極圏経由の北回りヨーロッパ便を開発し、途中給油のためアンカレッジに寄港するようになった(ポーラールート)。お陰で1967年から1970年まで欧州を行き来するときは、アンカレッジ経由便に乗った。その後、緊張緩和(デタント)により、モスクワ経由路線が認められ、更には旅客機の航続距離が伸び、北回り直行便が登場することによって、アンカレッジ経由の旅客便は次第に運航されなくなった。アンカレッジの待合室には一風変わった雰囲気があり、妙に面白く、白熊の大きなぬいぐるみなどを買って帰ったりした。また、当時はまだそれほど北回りヨーロッパ便を利用する人が多くなかったせいか、航空会社はサービスとして、北極通過証なるものを乗客に配っていた。アメリカへという意味では、1967年のアンカレッジ・トランジットが実はアメリカ領土への最初の訪問だった。21世紀になって、2005.1.15にシカゴから帰国したとき、乗っていた直行便がアンカレッジの真上を飛んだ。1万メートルの上空から雪と氷の中の小さな街を黙って見つめていた。