エジプト

エジプトは行きたいところだった。なんといっても、5000年の歴史には憧れる。幸い、2回訪問する機会があった。ビジネスで1回、観光で1回訪ねている。ビジネスでは下エジプトのカイロとアレクサンドリアへ、観光では主に上エジプトへ行った。


エジプトでは、ほとんどの人はナイル河を芯にした帯状の土地に住んでいる。所々にオアシスがあるが、他は砂漠。このうち、南側のナイル河の細長い流域を上エジプト、地中海へ広がる扇状地を含む下流を下エジプトと呼ぶ。古代では上エジプトが、中古・現代では下エジプトが中心となる。下エジプトが北、上エジプトが南になるので、現代の地図では上下が逆さまになる。

カイロ

1978.11.21 火 Rehab Hotel, Dokki, Cairo

111710時に成田を発って、18日朝7時、カイロ空港に着いた。途中北京の空港に降り、シルクロードの上を通り、カラチに着いた。暑い。カラチの空港はチェコのプラハに似ていた。違ったのは、空港の暗闇の中に、客引きだろうか、大勢のパキスタン人が群がっていたことだった。 ここで飛行機を乗り換え、翌18日朝7時にカイロへ着いた。カイロの空港はカラチよりはましだが、田舎っぽい。この日は町の西側にある、ナイル河左岸ドッキ地区のホテルにチェックインしたところで終了。翌日アレクサンドリアに向かい、二日後カイロに戻った。


朝起きてホテルの上に上がり、西側のピラミッドの方を見ると、空にキラキラと輝くものが見える、きれいな朝もやだと思っていたら、なんと砂塵が舞っているとわかり、砂漠の国に居るのだと実感した。鼻がやられるわけだ。

1978.11.29 土

今日で約2週間になる。胃腸の方はエジプト慣れして、問題なし。しかし、ほこりっぽい。加えて、お湯がでないので、シャワーを使えない。電気も使える時間が不規則で、ふっと停電したりして、もう一つ締まらない。店舗の終了時間もまちまちで、ルールが分からない国である。


時間の感覚が欧米や日本と全く違う。何となく始まり、何となく終わる。休日は原則として、金曜日。ラマダーン(断食の月として知られている)の始まりは新月の日からだが、いつ新月になるかで、町の人々が右往左往するのを目の当たりに見た。長老が新月と認めたとか、未だだと喧しい。ラマダーンが始まるのを楽しみにしているらしい。確かに日中は一切飲食禁止だが、日没後はすべて解禁、夜はどんちゃん騒ぎとなる。ラマダーンで皆太ると言う。

1978.12.9 土 415, Rehab Hotel, Cairo

展示会も無事終わり、身体の方もまずまずであった。 帰りの便がなかなか見つからず、1218日発, 20日大阪着のJALで頼んでいる。これがだめなら、エジプト航空を探して帰えるつもり。例によって、土産を買いすぎ、完全な赤字になった。小さな絨毯を買ったが、どうやって持って帰ろうか思案中。

結局、南廻りで帰ることにして、アテネまでエジプト航空、そこでJALに乗り継いで日本へ帰った。エジプト滞在中、代理店の社員サミーに世話になった。彼はコプト派である。家に呼ばれて話をしたが、コプト派のことを知らなかった。コプト派はキリスト教の一派でエジプト正教会信者というのが正しいと思うが、イスラーム征服後も残り、今でも国民の1割程度が信者と云われる。


 1996.2.1 木

2度目のエジプト。前回の経験で、現地で旅行プランを立てるのは、手間と時間から到底無理と判断して、ツアー旅行とした。幸い、現地に住んでいる日本人ガイドが付いて、要領のよい案内をしてくれたので助かった。

前日1600エジプト航空MS865便で成田出発、マニラとバンコックを経由して、朝530カイロ着。快晴とは行かず、ぼんやり晴れている。


ホテル ヒルトンで休憩後、モハメッド・アリ・モスク、死者の町、ハン・ハリル市場、エジプト考古博物館と廻り、ピラミッドでラクダに乗る。市場はラマダーンのためほとんど閉まっていた。夜ピラミッドでの音と光のショーに行く。

 

 

カイロの東のイスラーム地区で面白かったのは、死者の町。城壁の外に、守り人が住めるような構造になっている霊廟や墓地が集まっている場所があり、そこに沢山の人が入り込み住んでいる。空港へ行く途中でも見ることができる。モスクや市場は、イスラム国ならどこにでもあるのと変わりはない。

エジプト考古学博物館

1978.12.1 & 1996.2.1 木

エジプト観光の目玉である。見たいものは山ほどあるが、ツタンカーメン王関連の展示物に目を奪われ、他のものが目に入らない。館の二階には有名なツタンカーメン王の棺、黄金のマスク、玉座等がある。素晴らしい。内臓収納厨子を守っている女神像が可愛らしい。一階は古王国、中王国、新王国、末期王朝の品々が並んでいる。少しは見たという気になるためには、23週間は通う必要がありそう。観るものが沢山あるという意味ではパリのルーブル美術館の方が多いかもしれないが、3000年続いたエジプト王国のみに集約されているカイロ博物館の方がはるかに密度は高い。少なくとも工芸品については絶頂期の時代だったものが残っていると思えた。





博物館の建物は平凡だが、中に入ると一転する。何を見ても驚嘆するばかり。言うことなし。

 ピラミッド街道

カイロに近いギザから南のファイユームぐらいまで間に、数多くのピラミッドが点々と立っている。その中でもギザの三大ピラミッド、サッカラの階段ピラミッド、ダハシュールの屈折ピラミッドやメイドゥームの偽りのピラミッドなどが有名。ナイル・デルタの根元に、現カイロの傍の古王国時代の王都メンフィスがあったため、この地区にピラミッドが集中している。

三大ピラミッド


1978.12.2 土

三大ピラミッドへ行く。クフ王、カフラー王、メンカフラー王の三つのピラミッドが整然と並んでいる。中に入ろうと提案したが、気味が悪いと皆嫌がり断念する。周りをうろうろ廻り、スフィンクスへ行く。後ろから寄って行ったので、変な岩山があるとしか見えなかったが、正面に回りスフィンクスと分かった。地下水が上へ浸透し崩壊寸前の状態で、無残の光景となっている。帰国するとき、カイロを発った飛行機がギザの上を飛んだ。小さな正四角錘の列が目下に並んでいる。かなりの高度からだったが、しっかり見えるので、大きな建造物だということが分かる。いつもと見るアングルと違い、新鮮だった。


1996.2.1 木

カイロから西へ向かうピラミッド街道で砂漠台地に入る。今回はさっさとクフ王のピラミッドに取りつく。石灰岩のブロックを積み重ねて作られているのだが、一つ一つのブロックが大きく、よじ登るのが大変。少し登り、盗掘で掘られた穴から中に入る。狭い通路を階段と手摺を使って登っていくのだが、途中で急に傾斜がきつくなる。這うようにして控えの間、王の間(玄室)に辿り付く。空っぽの棺しか残っておらず、室内の装飾もほとんどない。突然四方を石で囲まれていることに気づく。これで何かあったら脱出できる可能性はゼロと慄然とする。そんなことはないはずだが、恐怖感だけはしっかり残った。そそくさと戻り、明るい陽光を浴びてほっとした。なぜかラクダが目に入った。ピラミッドに関係はないはずだが、何となく乗る。ラクダが立ち上がる際に、上下に体が振られ、落ちそうになる。しかし、これでピラミッドでの恐怖感が消えた。この後スフィンクスへ行く。相変わらず、傷んでいる。残念だが、放置されたまま。


 サッカラのピラミッド

1978.12.2 土

時間が空いたので、サッカラへ来た。ここのピラミッドは階段型になっているのが特長。少し窪地になっているせいか、物音何一つしない。

初期のピラミッドは台形の祭壇のような形をしていたが、それを積み重ねた形がこの階段型のミラミッドとなり、次に3大ピラミッドのように正四角錘の形になったという。


1969.2.5 月

また、サッカラへ来た。パラパラと人がいるが、相変わらず何の音もしない。周りを囲んでいる砂漠が音を吸収しているのかもしれない.

 メイドゥームのピラミッド

1996.2.5 月

オアシス・ファイユームに行く途中に寄った。偽りのピラミッドという名前が付けられている。本来はきちんとしたピラミッドだったのが、地盤が悪く、崩れてしまったとのこと。


ピラミッドだと云われれば、そうだと分かるが、そうでなければ、何の跡かわからないほどだった。

ファイユーム

1978.12.5 月

午後、ナイル河から少し離れたオアシスであるファイユームに回る。ここで初めてナイルの恩恵を実感する。肥沃な農地が広がり、落ち着いた田園風景である。ところどころに水車が動いている。畑の緑色が印象的であった。日本の濃い緑色でもなく、欧州の淡い緑色でもなく、鮮やかな緑色である。何か心温まる感じ。


ファイユーム近辺にもピラミッドが多くあるそうだ。国力が落ちている時代(中王国)のピラミッドのせいか、大部分崩れてしまっているとか。それとギリシャ系の名前が付いている町が多い。アレクサンダー大王以後にも栄えた地域だったのかもしれない。

 アレクサンドリア

1978.11.19 日

カイロからギザへ向かい、ピラミッドを横目で眺めながら、砂漠ルートに入り、アレクサンドリアに向かう。1121日より展示会の準備を開始する。予期通りというか、やはり腹をこわした。アレクサンドリアでものすごく辛いサラダを食べ、胃がやられたらしい。エジプトに行けば腹を壊すと聞いていて、多分水を飲んで壊れるだろうと思っていたら、なんと漬け物に攻撃された。メキシコ料理みたいな漬物だった。

砂漠ルートは印象的。砂漠の中に舗装された道路が伸びているのだが、風が吹くと一瞬で砂に覆われ、見えなくなり、どこに居るのか判らなくなる。怖いものだ。それと、砂嵐に襲われると、あっという間に自動車のヘッドライトに傷がつき、曇りガラスになるという。本当かな。

 

身体の調子については、しばらくエジプトに居るつもりなら、早めに腹を壊したほうが、慣れて楽と聞かされていた、それでも水に注意していたが、漬物が危険とは思わなかった。治ったらあとは順調。果物なら大丈夫として、時々道で車を止めてオレンジを買った。

1978.12.10 日

日曜日だが、休日という訳ではない。でも時間が空いたので、町を歩いた。アレクサンドリアの町は海岸線に沿って伸びている。場所としてはナイル・デルタと砂漠の境界線に位置しているが、エジプトの町とは思えない。繁華でもないが、どこかイタリアの海岸沿いの町のような雰囲気があり、カランとした石畳にさわやかな微風が吹いている。細長い町を西へ西へと歩き、海岸線から張り出した突堤(元ファロス島)の先に立っているカイト・ベイの城塞に行く。アラブ海軍の要塞だったそうだが、かって世界の七不思議の一つと云われた大灯台が立っていた場所である。



アレクサンドリアはアレクサンダー大王が作った都市である(今から2,300年前頃)。初めの300年ぐらいは大王の参謀だったプトレマイオス将軍が建てた王朝の首都だった。クレオパトラ(7世)の時に王朝は滅亡し、以後600年ぐらいはローマ帝国エジプト属州の都。その後のイスラーム時代に衰微し、18世紀に対欧州貿易港として復活し、今に至っている。プトレマイオス王朝時代にはムセイオンと呼ぶ「研究所と大図書館」が世界の智の中心として栄え、幾何学の祖として有名なユークリッドなどを輩出した。いまでも大図書館と灯台の名前が語り継がれているそうだ。2,300年前以上の前の話で、沖にあったファロスという島と陸をつないで堤を作り、堤の両サイドを港とし、大灯台も作ったが、今は堆積した砂で堤防が広がってしまっている。当然のことながら、当時の面影は全く残っていない。少し寂しい。


上エジプト

古王国の首都メンフィスから、ナイル河の上流になる、南の領域を上エジプトと呼ぶらしい。したがってピラミッドのあるギザなども含まれるのかもしれないが、上エジプトをナイル沿岸の帯状地帯と解釈したほうが古代エジプトに似合うような気がする。真中に位置するルクソールが中心、アスワンが南の辺境の地だった。

  ルクソール

ルクソールはカイロから南に約700km離れている。ルクソールの古名はテーベで、約3,500年前の新王国時代の首都である。ナイル河の東側が生者の地域、西側が死者の地域である。

 

カルナック神殿

1996.2.2 金

カイロから空路1時間、ルクソールに830に着く。晴天、青空が素晴らしい。町はずれにあるカルナック神殿に向かう。大きいが、ごちゃごちゃしていて、全体像がつかめない。中王国時代からプトレマイオス王朝に至る期間、約2,000年の間、増改築されたとのことで、無理もない。一通り通り抜け、神殿の外にある池の傍にある大スカラベ(フンコロガシの像)の周りを3周する。何か良いことがあるそうだ。


敷地は約500 x 600mの台形をしていて、その中にT字形をした神殿群が鎮座していて、10社ぐらいの神殿が繋がり、それぞれの間に塔門と称する壁がある。ナイル河から東の方向に羊頭スフィンクスの行列を通り抜けると、第一塔門に突き当たる。6社ほど神殿を通り抜けると、最後にアレキサンダー大王が改修した御堂に出る。途中に有名な大列柱室がある。100本以上の巨大な石柱が、よくも崩れないものだ。列柱室付近から真横に4個所塔門が置かれ、全体で10個所に塔門があることになる。

  


 ルクソール神殿

カルナック神殿から約3km南に離れた地点にルクソール神殿がある。ナイル河畔に面している。規模は小さいが、カルナック神殿と似たような構造をしている。中王国時代に作られたそうだが、長い年月で地中に埋もれていた。13世紀ごろにモスクが上に建てられてそうで、近世に発掘された結果、神殿の上にモスクが乗っているという妙な光景になっていた。


ここにあったオベリスクが一本持ち去られ、今はパリのコンコルド広場に鎮座している。

 メムノンの巨像

船でナイル川を渡り、死者の領域である西側に入り、王家の谷を目指した。途中崩れかけた二体の巨像に出会う。メムノンの巨像と云うのだそうだが、メムノンはトロイ戦争の英雄なので、本来エジプトとは関係ない。魔神みたいに見える。


明け方に怪音を出していた巨像にメムノンと名前を付けたのはローマ市民であって、それも2000年前の話である。

 ハトシェプスト女王葬祭殿

古代唯一の女王ハトシェプストの葬式のための建物だが、ともかく、だだっ広い。つい無駄なことを思ってしまうが、それだけの権威を見せつけたいということだろう。


一年後の1997年に、ここでテロが発生し、多くの日本人観光客が犠牲になったところである。我々の時も観光バスは警察の護衛付きで移動した。やはり危険だったのである。

 王家の谷

いよいよエジプト観光の頂点である王家の谷に向かう。ハトシェプスト葬祭殿の裏の小山を回りこんだところに王家の谷がある。数多くの王墓が岩窟として存在する。ピラミッドでは目に付きやすく盗掘を避けられないとして、新王国時代の墓はこの谷間に集中して作られた。ラムセス一世、四世、ツタンカーメン王等の墓を見て回る。確かにツタンカーメンの墓は他の王墓に比べて一桁小さい。通路の下にあったので、盗掘を免れたとのこと。そんな小さい王墓でも発見された財宝には驚嘆する。他の王墓にはどれだけの財宝があったのだろうか。



木が一本もない荒れ果てた岩山の間の涸れ谷に岩窟が掘られ、そこから下降通路が伸び、途中に広間、奥に前室、玄室(埋葬室)、宝庫などが配置されているというのが、大体のパターンだが、ツタンカーメン王墓では通路は短く、広間もない小さい墓である。玄室も金張りの厨子を入れれば隙間が無くなってしまうほど小さい。でも壁画などはまだ良く残っていた。

 エドフ

1996.2.3

バスでさらに南下して、エドフに向かう。ルクソールから約130km。ここのホルス神殿を見る。巨大な塔門に圧倒される。ハヤブサの頭を持つホルス神に捧げられた神殿、大きくないが、すっきりした構造になっている。



美しいエジプト神殿として知られているそうだが、プトレマイオス王朝時代に作られたから、王家の谷から1000年以上も後に作られたことになり、それだけ保存状態がよかったということ。


  コム・オンボ

1996.2.3

バスで、エドフからさらに南に20km位離れたコム・オンボに行く。ここのコム・オンボ神殿はハヤブサの神とワニの神の二組の神々に捧げられたため、左右対称な建物が貼り合わせた構造になっていたそうだが、河岸にあるせいか、ナイル河の洪水でかなり流されたらしい。前世紀に掘り出されたので、神殿廃墟だけがぽつんと残っている感じ。ワニのミイラがいくつか保管されている。


ここもプトレマイオス王朝時代の神殿で、この時代ギリシャの神々ではなく、古エジプトの神々が信仰されていたことが分る。多少ギリシャ化した神も居たらしい。

アスワン

1996.2.32.4

午後アスワン着。アガサ・クリスティゆかりのホテルの別館に入る。部屋からのナイル川が素晴らしい。これほど風光明媚な場所がエジプトにあるとは思わなかった。エジプトは古代文明を偲ぶだけではなく、観光地としても十分満喫できる国であると改めて知った。




イギリスの作家アガサ・クリスティが「ナイルに死す」(映画「ナイル殺人事件」の原作)という小説を執筆したホテルがアスワンのオールドカラタクトホテルである。ここならいくらでも物語を練ることができただろうと思った。ゆったりとした町のたたずまい、穏やかな気候、滞在するには絶好な環境である。いい場所である。スーク(市場)もファルカ(帆船)も楽しい。

 

アブ・シンベル

アスワンからナセル湖を通り越した280km先にあるアブ・シンベル神殿に飛行機で飛ぶ。砂岩に切り込んで作られた大小二つの神殿で、大神殿の巨大な4体のラムセス二世像、小神殿のネフェルタリ王妃像等が売りものである。何もない空虚な空間に彫り込まれた巨像達は特に感銘が深いわけではなかったが、後ろに回り裏山の中に入って驚いた。掘りぬかれた大きなトンネルの中に神殿や巨像が押し込まれていることが分かる。しかも神殿などはコンクリートでがっちり補強されている。幻滅以外の何物でもない。もともと辺鄙な場所に立っていた神殿は観光の対象ではなかったそうだが、アスワン・ハイダムを造ることにより水没する神殿を救おうとしたユネスコの救済キャンペーンにより高い位置に移築したため、評判になり観光地化したらしい。ことの妥当性は分からないが、無理をしていくところではなさそうである。






古代エジプトに惹かれ、エジプトを観に来たのだが、エジプト本来の王朝は5000年前から2300年前のクレオパトラの死までである。そのあともエジプトの神々はキリスト教に押されながら生きながらえたものの、1400年前のイスラーム襲来により消滅した。キリスト教はコプト派として現代でも生きている。歴史の上では、すでに古代エジプトと現代とは断絶していると云ってよい。無理に加工するより、古代の遺跡・廃墟はあるがままでよいのではないかと痛感した。