西ドイツ

この時は、本当に西ドイツの中をかけずり回った感じで、瞬間の印象を書き留めるだけで精一杯。その後住むことになった国なので、”西欧の旅”で後日記を書くことにした。

ドイツでのスケジュールは殺人的だった。ジュッセルドルフ→ボン→フランクフルト→ブレーメン→ハンブルグ→ベルリン→シュツツガルト→ケルン→ミュンヘン→ゾリンゲン→フランクフルト→ルートヴィクスハーフェン→エッセン→ジュッセルドルフと渡りあるいた。22日で、14都市を訪問、一つの町を一日半で見て回ったことになる。


ジュッセルドルフ

ジュッセルドルフを基地にして、ボン、フランクフルトを廻る。ジュッセルドルフはドイツの北西に位置する、ライン川沿いの町。日本企業の拠点で、「トーキョー・アム・ライン」(ライン河畔の東京)という渾名が付けられていた。くわしくは後日に譲る。

10/24(火)

ジュッセルドルフに着く。ホテルが混み、郊外でないと、宿がない。町から12km離れたホテルに入る。

 

ケーニッヒ大通り(通称:ケー)は町のメインストリート。通りの真ん中に堀が通っていて、端にトリトンの噴水がある。

10/25(水) 

ボンに行く。ジュッセルドルフに戻るも、その晩のホテルが見つからず、更に10km奥に行ったところに行く。タクシー代が高い。しかしこちらの人は10km20km離れているのは、平気で、皆アウトバーンを140km位のスピードで飛ばす。

この晩、宿屋へ帰ってみたら、亭主の勘違いで予約しておいた部屋が無くなっていた。さらに部屋に残しておいた荷物を強引に詰め込んだらしく、トランクのチャックが壊れていた。文句を言いたくともドイツ語を喋れないので怒鳴れない。あれよあれよという間に追い出されてしまった。

ボンについては、後記参照のこと。

10/27(金) 

汽車でフランクルフトへ行く。フランクフルターソーセージを一本食べた。仕事に追いまくられ、まったく観光の時間がない。ヨーロッパはえらい不景気だとかで、パッとしない。

ブレーメン

ブレーメンの伝統行事の一つであるフライマルクトとぶつかった。日本風に云えばお祭りで、移動遊園地とビアホールが集まっている。規模はかなり大きい。

10/29(日)

汽車でジュッセルドルフよりブレーメンと言うところへ来た。ちょうどフライマルクト(自由市場とも訳するのだろう)をやっていると云うので、案内された。蚤の市みたいものかと思ったら、一種のカーニバルだった。至る所でソーセージを売っている。色々の種類のものを食べ、そして飲み、回転木馬やブランコ、お化け屋敷等を覗いて歩いた。映画でよく見る風景だが、実に楽しい。回転木馬の後ろに人形が演奏する形式の風琴(ストリートオルガン)が鳴っている。これも楽しい。その後ババリヤ地方風の大きなビアホール(これもカーニバルの中)の中でビールを飲みながら、肩を組んでわいわい騒いだ。その後、昔からあるというブレーメンの古い酒蔵(ワイン)に行った。1728年頃のワインが残っている。話によると1945年のワインが旨いそうだ。戦争だったので、量が少ないそうだ。酒蔵だが、ワインを飲めるようになっている。ラートハウス(市庁舎)と云って、格式が高いのだそうだ。そこで、1964年物のワインを飲んだ。隣に大きな、大きなワインの樽が置いてある。とうとう騒ぎすぎて、頭が痛くなった。

ハンブルグ

10/30(月)

昨日の頭痛の続きで、今日もちょっとおかしかったが、ブレーメンからハンブルグへ移動。ハンブルグの晩は案内人も調子が悪く、結局ホテルから表には出なかった。有名なハーゲンベックの動物園も飾り窓の女も見なかった。しかし、ドイツの町はどこへ行っても大して変わらない。

後になっても、ハンブルグとはあまり縁がなく、町を知る機会には恵まれなかった。


10/31(火) ハンブルグからジュッセルドルフへ戻る。

ベルリン

流石に冷戦下のベルリンの印象は強烈だった。晴れていても、町は薄暗く、投げやりな気分が漂っていた。襲撃された市街の跡と云った感じ。西ドイツからは飛行機で行くしかない。街のど真ん中の空港に、建物の屋根をかすめながら、着陸する。

11/1(水)

今日は万霊節で休みなので、ベルリンを見に行くことにした。朝早く、飛行場で切符を買い、10時にはベルリンに着いた。早速観光バスに乗ってベルリンの壁を通って東ベルリンへ入る。その壁の入り口を通過するときの物々しさには、ものすごく緊張した。モスクワでは何も感じなかったが、こうやって共産圏と自由圏のぶつかっている所は異様な雰囲気がある。

 

東より西の方が栄えているように見えるが、東の方は遅いが、徹底的な町作りをやっているような気がした。いずれにせよ、ベルリンの町の至る所、戦争で破壊されたままのビルが見られる、特に壁付近の廃墟は実に何とも云えない。ベルリンではまだ戦争は終わっていない。しかし、このベルリンのように、毎日戦争の痕を見て生きていくのは耐えられない様な気がする。気のせいか、東西ベルリンどちらも暗い印象を与える。ヒットラーが自殺したという防空壕の跡もある。昔有名だったウンターリンデン通り(菩提樹の木の下の通りの意味)、ブランデルブルグ門、まったく見る影もない荒涼たるものである。

 

東から西に入るときはバスの車体の下まで、鏡で調べ、一人一人パスポートと照らし合わせる。そして、バスがまっすぐ走れないように色々邪魔物が置いてある。これでは戦車でも通り抜けできない。壁は2列になっていて、一つは西側、一つは東側、間は中立地帯(巾50mぐらい)この中立地帯に入ったら東側の監視所から射殺される。東側の白いガッチリした壁は高さ2.5m、巾2mで上は自動車が走れる。西側の監視員も自動小銃を持っている。たまには応戦するそうである。これではドイツの統一は不可能と思わざるを得ない。あちこち行った所で、これほど印象の強烈な所はなかった。

当時のポツダム広場と現在の広場が同じとは思えない。

ベルリンへは飛行機で行くしかない。東独のど真ん中にベルリンがあるので、西ドイツの飛行機なら撃ち落とされるということで、アメリ カ、イギリス、フランス以外の飛行機は飛べない。パンナムで飛んだ。そうそう、東ベルリンにソ連戦没者の大きな墓がある。これをベルリンの中に立てるとは ソ連も無神経だ。

たしか正式には対独戦没ソ連戦士の墓と聞いた。

東独は完全にソ連の支配下にあるのだろう。しかし、ドイツを二つに分けた責任者はアデナウアーだと云う人が多い。単に宗教上の問題で、東と話をするのを断ったそうである。どこへ行っても政治家は自分のことしか考えないらしい。

東ベルリンの荒涼たる風景に合わせるように、西ベルリンも薄暗いイメージしか残らなかった。

   

スツッツガルト

11/2(木)

ジュッセルドルフからスツッツガルトへ行った。ジュッセルドルフからフ ランクフルトあたりまで、ライン川をずっと見ながら走る。ローレライはこの辺だ、あの辺だと云っているうちに過ぎてしまい、結局どこだか分からなかった。と言うことは大した所ではないということらしい。ライン川も汚い川でちっともパッとしない。


ローレライはライン川の曲がり角に立つ絶壁だが、絶壁の上は平坦な台地である。かなり急な曲がり角のため、船の遭難が絶えなかったらしい。そこから生まれたローレライ伝説だから、歌と現実が全くかけ離れているのは当然である。さらに、川と並行に、マンハイム、ハイデルベルグの近辺を南下してスツッツガルトに着く。しかし走ったというだけのことで、まったく記憶が残っていない。

まったく、ドイツ中を飛び歩いていることになる。もう始めて来た国という感じなんかあったものではない。こうなったら、風景の変わるのさえ、見ていられない。だけど面白い。

やはり私のドイツ語は通用しないが、それでもフランスなどより親近感が湧く。変なものだ。しかし、こうあちこちで色々なことをしていると、どこがどうなっているのか、さっぱり分からない。

ケルン、ボン

ケルン

11/7 (月)
ボンへアウトバーンを走りながら、ケルンの大聖堂を眺める。巨大な二本の尖塔なので、はるか遠方から見える。

ケルンは大聖堂に尽きる。ローマ時代からの町なのに、何故か縁がなかった。探せば、魅力のあるところがあったのかも知れない。


ボン 

ボンに着く。ボンにあるソ連大使館でソ連へのビザ取得の手続きをする。取り立てて変わったことはなかった(特に質問もなし、考えすぎか)。

 ライン河に面した平面的な小都市というイメージしか残っていないが、当時はドイツの首都である。いずれベルリンに戻るために、わざと平凡な町を選んだと聞いている。今やその思惑通りになっている。


ミュンヘン

ミュンヘンは陽気な町で、美しい町でもある。しかし、このときは気分を楽しむどころではなかった。ミュンヘンの良さを感じられるようになったのは数年後のことである。

11/8(水)

これからミュンヘンへ行く。ビールが旨いらしい。ドイツでは水を飲むのは貧乏人だとかで、レストランでは毎日水の代わりにビールを飲んでいる。

11/9(木)

ミュンヘンへ行った。格別変わったことは無かったが、紅葉がきれいだった。

 


11/10 (金)

ミュンヘンからジュッセルドルフへ戻る。

ゾリンゲン

11/11(土) ゾリンゲンの古城

ジュッセルドルフへ帰ったが、ホテルが混んでいるので、少し変わったところへと、ジュッセルドルフを離れ、刃物で有名なゾリンゲンの町外れにある11世紀頃出来た城を改造したホテルに泊まった。ちょっと面白い所だった。


ゾリンゲンのホテルは儲けものだった。もとお城だっただけに、部屋は石造り、壁の厚さは1メートル以上あったのではないだろうか。

 フランクフルト

フランクフルトでは戦争があったことを実感する。アメリカ人の町とも云われていた。

11/13(月)ホテルモノポールーメトロポール、フランクフルト

前に日本と欧州はあまり違わないと書いたかも知れないが、やはり違って いる。ただそれを見ても何とも思わなくなっているだけ。今フランクフルトの町をちょこちょこと歩いているとかなり、日本と違っているのを感じる。意外にフランク フルトの町中は戦争で破壊された建物が残っている。わざと修理しないような感じ。

バロック調の建物などと云うとよさそうに聞こえるが、やけにゴテゴテした造りになっている。どう見ても、欧州人は野蛮人で、肉の塊をあっという間に食いちぎり、そこら中にあるキリストの像は磔になっているものばかりで、血なまぐさい感じ(別にドイツだけの話でいはないが)。面白いことにドイツも南に来ると、女の子の足が曲がっていて、日本人的になる。どっちにしてもドイツ美人というのはいただけない。よく言えば、理知的というのだろうが、実際の頭はどうも(失礼)。



明日はマンハイムというところに行くので、帰りにハイデルベルクに寄ってみるつもり。もうこの辺でドイツは沢山。国外に出たい。そうそうヨーロッパは一人旅に向いていない。大体がカップル用で、レストランで一人で食っている奴はほとんどいない。かなりのおばあさんでも同伴である。さて、このドイツ位アメリカの資本が入っているところもないと思う。それと同時に日本も高く評価されているのも分かる。時々日本語の看板を見かけるし、日本製のトランジスタラジオとカメラはどの店でも並んでいる。パンアメリカンとルフトハンザの飛行機には日本語の説明書はあるが、中国版はない。それと、日本人に会わない日はない、どこにでも居る。すごい国民である。  

ルートヴィックスハーフェン

11/14 (火)

ここはBASFという化学メーヵーの城下町で、化学工場以外は何も無かった。

エッセン

11/16 (水)

ここは鉄の町で、クルップ家の本拠地である。

クルップはドイツ最大の兵器メーカーだった。戦後も健在。


ドイツと云うところは実にホテル事情が悪く、ドイツでの最後の日は木賃宿みたいなところに泊まった。再度ドイツへは行く気がしなくなる。お土産として、ついに蒸気機関車模型一式を買った。重くて大きいのに閉口する。今手持ちの鞄は二つ、それにショルダーバッグ、ボストンバッグ、タイプライターとやたらに荷物が多く、一人で持って歩くのが大変。

鉄道模型はメルクリン社製で、好きになり、その後かなり集めた。

この後はウイーンへ行く。東欧への入り口である。その前にスイスへ寄り道。


 

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