ハンガリー

ハンガリーは不思議な国だった。共産圏なのに、共産圏らしくない。人々は陽気に見え、楽しんでいるように思えた。しかし、お役所や旅行社、ホテルなどは間違いなく典型的な共産官僚スタイルだった。ポーランドのような猪突猛進型でもなく、チェコスロバキアのように衝突を避けながらも納得していないわけでもない。あっけらかんとしている。

 

ブダペスト

1969.9.30 ブダペスト、ハンガリー

929日、ウイーンより車を飛ばして、ブダペストに入った。これで、東欧で通算3,000kmのドライブをしたことになる。ハンガリーの国境で時間を食ったので、ブダペストに着いたのは夜7時過ぎ。何も見えない真っ暗な中を時速100kmで飛ばすのには、少々ビクビクした。ブダペストは、一度は来たいと思っていたところで、なるほど美しい町である。そしてハンガリー料理は有名なので、試してみたところ、不味くはないが、変わった味で、続けて何回も食べられそうもない。料理法を覚えたいと思ったが、私のセンスでは無理のようだ。101日にはウイーンへ戻る。


                                  
    
               

ハンガリーへの初めての旅は、23日と短い。仕事に時間を取られ、町を見て廻ることはできなかった。パプリカを使った料理は、最初は抵抗があったものの、慣れると美味しい。牛肉、タマネギ、パプリカなどを煮込んだシチュー料理のグラーシュは中央ヨーロッパのどこでも食べられるが、本場のグラーシュは一味違う。

1969.11.11 ブダペスト

ソフィヤからウイーンへ帰り、すぐハンガリーのブダペストへ来た。2度目で大したことないけれど、まずまずだった。

 
                         

次の年にもう一度ハンガリーへ行く機会があった。見本市の要員として、約2週間滞在した。

1970.5.18  (ウイーン泊)

518日ルーマニヤの片田舎から首都ブカレストまでタクシーを飛ばし、ブカレストから飛行機でウイーンに着いた。明日519日ハンガリーのブダペストへ行く。今年はヨーロッパの天候が不順で、最近雨が多く、ルーマニヤ、ハンガリー、オーストリヤなどで洪水が出ている。晴れると暑く、曇るとコートが必要になるなど、かなり天候が急変する。

1970.5.23 Šzabadzag hotel ブダペスト

519日、ウイーンよりブダペストへ移動するのに、国境で時間が掛かって、着いたのは夜1時過ぎになった。ホテル事情が悪く、23日ホテルを転々としていたが、最後に風呂なし、トイレなしの相部屋となった。どうも今回もホテルに恵まれない。3回目となると、あまり興味も沸かず、つまらない。そのくせ町のことはあまり知らない。ブダペストは200万人住んでいる都会だけあって、よく服が汚れる。ルーマニヤの田舎とは大分違う。

ハンガリーのもう一つの名物料理は鯉、卓上で小さな鍋を火に掛け、切り身をパプリカと一緒に煮込む。目玉が飛び出るほど辛い。食べているうちに汗びっしょりになる。美味しいが続けては食べられない。後年再訪問時にその店を探したが、見つからなかった。

1970.6.1 サバチャクホテル ブダペスト

いよいよ今日61日でハンガリーブダペストの見本市もお終いとなり、63日ルーマニヤへ戻る。ルーマニヤには619日までいる予定。そのあと、ドイツ フランクフルトへ行くが、そのあとチェコのプラハへ23日寄るつもり。




さて、日本を出てから1ヶ月立ったけれど、かなり長く感じた。あと1ヶ月少々である。ブダペストの見本市も万博みたいなところがあって、アメリカ館にはアポロのカプセルや月の石も置いてある。別に普通の石だった。

ホテル事情が悪くて閉口したが、ようやく終わり頃になって、よくなった。こちらも大分暑くなってきた。昨夜531日、通訳のチーラの案内で市内見物をした。チーラは地上勤務のスチュアーデスだったそうで、大分遊び慣れている。痩せぽっちだが、バストだけは大きい。色は白いが何系だか分からない。しかし町を案内されても、他の町と同じに見えて、あまり感心もしなくなった。ハンガリー語はまったく分からない。

PS:サバチャクホテルとは自由ホテルの意味



ハンガリー語はヨーロッパの言語とはまったく別物。フィンランド語と同じ語源だが、トルコ語やイラン語なども取り込んだ独自の言語となっているらしい。従って、まったく類推が効かない。日本語と同じように姓が先、名前が後で、また塩のことをシオと 云う。こんなことから、日本語と関係あるのではないかという疑う人もいた(信じられないが)。

1970.6.3 

63日ブダペストからブカレストへ飛んだ。ブダペストでは、かなり忙しかったし、又ホテル事情が悪く、もともと一人部屋に二人で住み、バスもトイレもなく、あんまり印象はよくなかった。61日通訳のチーラとアンと夕食に行き、そのあとカサノバとか云うダンスホールへ行って遊んでいた。アンはチーラと違って、丸形、色も黒い、多分スラブ系。なるほど、ハンガリーには色々な民族の血が混じっていると実感する。62日の丸一日を使って後片付けを行い、翌日他の人は一息入れて、のんびりしているところを、一人ルーマニヤに向かった。

36年後、もう一度ハンガリーを旅した。この時はブダペストだけではなく、ドナウ川が東から南へ向きを変えるドナウベント、その他の町を廻った。そのときの写真も載せる。


カフェ・ニューヨークはオーストリア・ハンガリア二重帝国時代からあったらしい。外観は汚れたパッとしない建物だが、中に入ると、金ピカで、いかにも19世紀末と云った感じである。外から入ると、いきなり異次元世界に飛び込んだような奇妙な感覚に襲われる。









ドナウベント

ブタペストの上流側で、ドナウ川は東向きから南向きに流れを転じる点があり、ドナウベント(ドナウ曲がり角)と呼ぶ。この角の町、エステルゴムにハンガリー最初の教会が立っている。





ブタペストからウイーンへ

ウイーンに戻る途中、エステルハージ家に寄る。エステルハージ家は音楽家ハイドンのパトロンとして知られる。ハイドンはここの音楽隊長であったが、どこからも遠いこの屋敷に住む部下達の帰郷を促すため、交響曲「告別」を書いたというエピソードが残っている。


 
 

コウノトリの巣を見つけた。バスの中から写真を撮れなかったので、ガイドブックから画像を拝借した。実際に見た光景と同じである。














バスはヒマワリ畑の中を突っ切って、走る。背の低いヒマワリ畑は、ソフィア・ローレン主演の「ひまわり」のシーンと何一つ変わらない。日本のひまわりのように大きくはならないらしい。














オーストリア領に入る直前に、ショプロンの町に寄る。この町から、東ドイツの人々がオーストリアに逃げ込んだため、ベルリンの壁の崩壊を引き起こしたことがよく知られている。

ハンガリーの人は、自分たちのことをマジャール人と呼ぶ。最初、モンゴルの一族と思いこんでいたが、どうも違ったようだ。出自はウラル山脈西側あたりで、欧州の民族移動の波の最後尾として9世紀にハンガリーの地に這入り込んだらしい。但し、言語はゲルマン系ではなく、文法的には、フィンランドや日本に近いらしい。移動の途中、いろいろな民族と出会い、そのせいか容貌は普通の西欧人と変わりはない。古代はローマ帝国、下っては、長い間トルコ、ハプスブルグ家の支配下にあり、日本人には想像も付かない歴史が存在している。

 
                                                         
        
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