アメリカ

アメリカには4,5回行っているが、ここでは半年間東海岸に滞在した1977年の旅日誌を中心にまとめた。時系列順ではなく、地区別になっている。なお、正式にはU.S.A.(アメリカ合衆国)と呼ぶべきだろうが、ここではアメリカとした。年号が付いてない月日はすべて1977年のことである。

アメリカ 1977

東部

19777月から12月まで、ワシントンDCに隣接したシルバー・スプリング地区に住み、アメリカの東部、中部、南部を廻った。

シルバー・スプリング (ワシントンDC近郷)

725日 ホワイトオーク・タワーズ (アメリカに着いてからの日々)

76日昼頃にニューヨークのケネディ空港に着いた。相変わらずアメリカの印象は良くない。ヨーロッパより雑な国という感じ。乗り継いでボルチモア空港に降りたが、トランクが行方不明(翌日見つかった)、しかも暑くて嫌になる。その上、ワシントン地区の断水のため、モーテル(クオリティ・イン)の冷房が効かず、寝れない夜が続いた。しかも、ホテル代が27ドルと高いので、すぐにアパートを探した。たまたま、昨年アメリカにいた人が住んでいたアパートを聞いていたので、交渉したら、ちょうど2階に空いている部屋があるとのことで、早速リース契約をして、79日の夜に移った。この27階建てのホワイトオーク・タワーズ・アパートメント(日本風にいえば、マンション)はメリーランド州シルバー・スプリング地区の北側に位置していて、ワシントン都心から北向きにボルチモアに向かう国道29号線に面している(都心まで約20km)。29号線の周辺は、森がズーッと続いていて、ところどころに高い建物が立っているという感じである。日本や欧州とはかなり違っていて、広々としたところにぽつんとビルがあり、周りは森というところはロシアに似ている。どうゆう訳か、あまり虫がいない。


当たり前だが、借りた部屋にはなにもなく、とにかくベッドを借りてきたが、最初はトランクの上で手紙を書く始末だった。表にも何もなく、延々と歩いて辛うじて辿り着けるところにショッピングセンターがあり、シアーズ(日本でも名前は聞いたことがある)やスーパー(ジャイアンツ)などがある。カーペットを買ってきて、敷いて座っていたが、腰が痛くなり、慌てて椅子と机を買い、安楽椅子と低いテーブルを借りてきた。これで、アパートの中も少しは格好がつき、半年は何とか暮らせる。しかし台所には大型レンジ、オーブン(いずれもガス)、皿洗機、デスポーザ付き水道、大型冷蔵庫が備え付けられている。リビングルームには電灯も無いので、ランプを借りてきた。やはり蛍光灯嫌いの国のようだ。自炊も一度は始めようと決心したが、とても面倒なので、止めた。知り合いの家を廻ったり、ショッピングセンターに食べに行ったりしている。それでも、すこし慣れると土地に充分余裕のある暮らし方、アパートの広さ(家賃8万円、4部屋、ガス、水道、電気代込み)、エネルギーの使い方など、贅沢なところが目につく。アパートにはプールもテニスコートもあり、早速泳いだ。秋になったらテニスを始めるつもり。治安の方も心配していたほどではないみたい。誰かが壊した廊下の壁の裏側に木組みが見える。安普請である。ここから食べに行くのは徒歩では無理で、車が無いとどうしようもない。


実は、治安は悪かったらしい。近所のマンション(といっても車で20分ぐらいかかる)に住む日本人に聞いた話だが、急に周囲の連中が引っ越しをするので、怪しいと思っていたら、殺人事件が起きていたという情報が流れてきたが、すぐマンションを出ることもできず怯えているとのこと。当アパートでも素性の知れない若者がうろうろしているのが目につく。トラブルに巻き込まれることはなかったが、何となく不安だった。

事務所までは40km離れていて、片道40分かかる(この国はマイル、ヤード、ポンド、華氏温度が使われているので、換算が大変)。オフィスの中はまあ予想通りだが、本国からの勝手な注文に振り回されて、本社のご機嫌ばかり気にして、ほかのことに頭がまわらないというのが、実情。秘書のKさんは、東北の旧家の出身で、フルブライト資金でハワイ大学に入り、ハワイの日系3世(純日本人、つまり日本人以外の血は入っていない)と結婚し、今ワシントンへ来ていると云うとのこと。亭主のケンさんはほとんど日本語を話せないが、癖のある彼女に引っかかったのが不思議。彼女は有能だが、言葉に険がありすぎ、しかも感情的。

アメリカの日系人にとって、何はともあれ、純日本の女性と結婚することが最高なのだそうだ。

アメリカ人としては、パットとアンとポーラがいる。パットは40代のセールスマン、アンは警察官の奥さん、そのうちマシンガンを打たせてくれるというので楽しみにしている。ポーラはガリガリのミス。日本から一緒に応援に来たYさんの奥さんが、7243人の子どもを連れてやってきた。2ヶ月滞在する予定。2歳、4歳、7歳の子をつれてひょうひょうと飛行機を乗り継いで、ボルチモア空港に着いた。時差もあるだろうに、すぐに夕食を用意してもらい、男二人(つまりYさんと私)は久し振りにまともな夕食に有り付いた。大変だろうと思ったのは、思い過ごしなのか、彼女は何とも思わず、旦那も別に不思議とは思わないようで、やはりジェネレーションが違うらしい。

726

車の運転免許証をとるための練習をした。国際運転免許証を交通局に持っていったが、無視され、アメリカの運転免許を取れとのことだったので、筆記試験用の例題集を読み、実地テストコースを走って見たので、今日は疲れた。

試験は一発で合格した。一緒に受けた同僚は不合格だった。実際には車の運転ではなく英語の聞き取りをテストされたようなもの。

87

Y夫人の話。ほとんど、何も気にかけず、すいすいと行くので、事務所内でも有名になった。英語を話せて、しかも日本で多くの外人の友達がいたと云うことで、道理でということになった。一方、旦那の方は、事務所のアメリカ人から下手な英語だと馬鹿にされていると僻んでいるのだから、夫婦とは面白いものだ。一方別のメンバーの妹がやってきたが、こちらは完全な赤ゲット族で、サンフランシスコまで着いたが、乗り継ぎが間に合わなくなり、別の便に乗ると電話したまでは良かったが、本人はワシントンのダレス空港に行くつもりで、荷物を預け、飛行機に乗ったら、ボルチモア空港に着いた。しかし、その飛行機がそこから更にダレス空港に行くものとそのまま乗っていたら、何でもニューヨークより北にある空港に着き、そこがダレス空港と思って降りたら、どうも違うと云うことになり、なんだか訳の分からないうちに、元のボルチモア空港行きに乗せられて、戻ってきたそうだ。しかし荷物はダレス空港にあるので、迎えに行った人はダレスとボルチモアの両空港を何回も往復した (50kmは離れている)。英語が全然話せない人なのに良く無事に着いたと喝采された。その上、何の間違いか、サンフランシスコからズーッとファーストクラスに乗っけられ、酒を飲むだけ飲んだ(女性だが)というので大笑いになった。いろいろなことがあるものだ。

ワシントンにはナショナル(ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル空港)、ダレス(ワシントン・ダレス国際空港)それとボルチモア(ボルチモア・ワシントン国際空港:BWI空港)の三つの空港があり、知らないと間違う。私も数年前に似たような間違いをしたので人様のことは言えない。ナショナル空港は都心近く、ポトマック川沿いにあるが、滑走路が短く、国内便がほとんど。ダレス空港は国際線玄関口だが、かなり遠い。空港ビル搭乗口に横付けされた列車型バスで運ばれ、飛行機に直結する方式で、うっかりするとバスで移動していることが分からない。今ではこの輸送方式の空港も他にあるが、当時は他にはなかった。ボルチモア空港は二つの空港の中間のような位置を占めている。

95

アメリカへ来てから、今日の労働感謝の休日(9月第一月曜日)でちょうど2ヶ月経った。アパートのプールも閉まり、2学期が始まる。まだまだ暑いが、風は涼しくなった。白黒テレビを買い、英語の勉強のつもりで見ているが、相変わらず、宇宙船エンタープライズを放映している。また、最近「スターウオーズ」という映画が大評判だ。これから、テニスとゴルフを始めるつもりで、今日初めてゴルフクラブを握った。なかなか飛ばない。

ゴルフを我流でプレイするから、まったくボールが飛ばない。冬になってもやっていたが、凍ったグリーンの上ならボールが転がるという始末で、呆れた仲間からレッスンプロに習えと諭されたが、時間切れ。結局ものにならなかった。

ワシントン DC

西部にあるワシントン州と区別するために、ワシントンDC(コロンビア特別区)と書くがここではワシントンと略する。

8月〜10月 ナショナル・モール

ワシントンの観光といえば、まずは博物館、美術館が集まっているナショナル・モールである。ナショナル・モールはワシントンの中心にある公園で、西はポトマック川、東は議会議事堂までの3kmの細長い公園で、西側にはリンカーン記念館やワシントン記念塔等があり、東側にはスミソニアン協会に属する博物館群が並んでいる。


国道29号線を南下して、メリーランド州からワシントンDCに入り、そのまま直進するとそのままナショナル・モールに入る。矩形のモールの周囲に車を止めるスペースはあるが、なかなか空いている場所が見つからない。しばらくうろうろして、何とか駐車する。モールの中央の芝生の両サイドに博物館が並んでいる。まずは国立航空宇宙博物館を目指す。開館して間もないので(1976年)、人気があり、観光客が密集している。中に入るとライト兄弟のフライヤー号、リンドバーグのスピリット・オブ・セントルイス号、マーキュリー宇宙船、月司令船コロンビア号、月の石等々がずらりと陳列されている。そのほか飛行機と宇宙船に関する展示物が山盛りになっている。この日はこの博物館だけで満足して、引き揚げる。


また、モールにやって来た。今回は国立自然歴史博物館を覗いた。入り口の中央広場にはアフリカ象、左側にはほ乳類、海洋生物、鳥類、右側には恐竜等の化石、氷河時代の生物、奥にはインディアン文化、アジア文化、アフリカ文化の展示物が並んでいる。2階左側には昆虫、は虫類、骨格標本そして右側には鉱石・宝石類(因縁付きのホープダイヤモンドやアジアの星サファイヤなど)、中央には人類発祥、先史時代のアメリカ文化関連の展示がある。少し雑多だが、見ている分には楽しい。


国立美術館にも行った。寄贈品を元に作られた美術館で、ほとんどがヨーロッパの絵である。ダヴィンチの「ジネヴラ・デ・ベンチ」の肖像、レンブラントの自画像、フラゴナールの少女像を始めとする著名な欧州画家の絵が並んでいる。20世紀の絵としてはピカソの「サーカス」シリーズが目立つ。

スミソニアン協会本館にも入る。前世期の装置・設備がいくつか飾ってある。ここだけ昔の様式で建てられた建物で、管理棟であると同時に案内センターでもある。


ここで、6枚物のLPレコードセット「クラッシク・ジャズ・コレクション」を入手した。スコット・ジョブリンからコルトレーンまで入っていて、なかなか聞きごたえがある。

1114日 ケネディ・センター

クラッシクコンサートを聴きに、ケネディセンターのコンサートホールに行く。ロストロボーヴィッチが指揮するナショナル交響楽団の演奏である。演奏曲目を覚えていないが、車の駐車スペースを探すのに手間取ったことはしっかり記憶に残っている。


ジョン・F・ケネディ・センターはポトマック川に面し、ナッショナル・モールの北側にある国立総合芸術施設で、劇場、オペラハウス,コンサートホールなどがある。ロストロボーヴィッチはこの年(1977)にソ連(ロシア)を亡命し、この交響楽団の音楽監督になった。

アーリントン

かっては、ワシントンDCの西南地区だったのだが、バージニア州に返還され、アーリントン郡になっているが、多くの行政機関が置かれ、実質上は首都の一部である。

アーリントン国立墓地

2000.1.12 

たまたまワシントンに来た時、案内をしてくれる人がいて、アーリントン国立墓地を訪れた。

夕刻、門限ぎりぎりにアーリントン国立墓地に来た。丘陵地帯に広大な墓地が広がり、無数の墓が並び、とても見て回ることはできない。案内してもらって、J.F.ケネディ大統領の墓と無名戦士の墓を訪ねた。ケネディ大統領の墓は特別で、いわゆる墓石はなく、永遠の灯火で飾られている。無名戦士の墓は、国立墓地を象徴しているかのように、衛兵によって警護されている。衛兵の交代式が有名で、人が集まる。


シェナンドー国立公園

1015日(土)

ゲストを観光に連れて行くというので、一緒に付いていった。行先はルーレイ鍾乳洞である。洞窟はバージニア州シェナンドー国立公園内にあり、ワシントンからそう遠くない(140km位)。鍾乳洞自体は他でも見るのと大して違わないが、鍾乳石を叩いて音を出すオルガンを設置してあるところが、いかにもアメリカらしい。


アメリカ東海岸に並行してアパラチア山脈が走っているが、その山並みの間の谷の一つがシェナンドー渓谷で、国立公園になっている。尾根伝いのスカイライン道(160km)、ルーレイ洞窟、チムニー石柱群や、多くの丘陵,滝等があり、キャンプ、乗馬、サイクリング等を楽しむことができる。

アナポリス

9月4()

今アメリカは3連休だったので、Yさん一家と一緒にナイヤガラの滝を見に行くつもりだったのが、ホテルが取れず、大西洋に行き、海を見てきた。夏休み最後の日曜日なので、人でいっぱい。なんと、すこし沖のほうで、サメが泳いでいて、三角形の背ビレがシューッと動いていった。10頭ぐらいいたらしい。海にいた人たちが陸地に逃げ上がってきた。

帰り、国道50号線チェサピーク湾沿いにあるクラブハウスに行き、カニを食べる。机の上にハトロン紙を敷き、カレー粉と一緒にボイルしたカニを10匹位ザラザラッと放り広げる。木製ハンマーで甲羅をたたき割って食べる。豪快というか、野蛮というか、でも楽しい。メニューには大、中、小、特大、ジャンボサイズと5種類のカニが載っている。もちろんジャンボが一番おいしい。あと、アナポリスに回り、海軍兵学校のキャンパスを見学して、帰る。


大西洋のサメの真偽は定かではなかったが、なにものかが動いていたのは事実。

チェサピーク湾のカニはここの名物、野趣味溢れる食べ方で、それなりにうまい。最近はジャンボサイズのカニが少なくなったらしい。

ボルチモア

1124日 感謝祭

住んでいるアパートから、ワシントンに行くよりボルチモアに行くほうが近い。一度は見ておこうと思い、行った。

予備知識なしに出かけたので、印象が薄いまま帰ってきたが、古い町らしい。治安に問題があるとは聞いていたので、町を歩くのは、なんとなく怖い。圧倒的に黒人が多い。ハウスナー料理店に行く。食事もさることながら、美術品蒐集で有名で、店内のいたるところに絵画が飾られている。古き良き時代のレストランという感じ。ボルチモア市電博物館にも行く。1963年まで走っていた市電を集めた博物館とのこと。車中心のアメリカにしてはちょっと珍しい博物館と思った。


ワシントンDCより古いボルチモアは過去を引きずっている町らしく、建物や道路が古びていて、しかも荒れ果てている。メリーランド州最大の都市だが、当時のアメリカを象徴している見本のような町だった。ハウスナー・レストランは1991年に閉鎖されたようだ。

フィラデルフィア

あまり行くなと言われたが、アメリカ独立時の中心的な町なので、覗いてきた。シテイ・センターに行く。インデペンス・ホール(独立記念館)とリバティベル(自由の鐘)の周りをブラブラ歩く。閑散としている。何となく不安になる。早々に逃げ出した。


噂に怯えて、見るべきものを見逃したという感触をずーっと持っている。フィラデルフィアはアメリカ独立時の主要拠点であり、アメリカ独立宣言が起草された由緒ある町であり、記念物的なものはいくらでもあるはずだが、禁酒法時代に極端に治安が悪くなり、今でも回復しきれていないらしい。人種的には白人と黒人が半々というところ。

ニューヨーク

しばしば行っているが、エピソード形式で綴る。

エピソード1 ニューヨーク見物

1971.6.26

初めてワシントンからニューヨークへ車で連れて行ってもらった。州間高速道路95号線でニュー-アーク空港まで来たらタイヤがパンクし、交換する間、高速道路を眺めていた。95号線と並んで、急行高速路線がある。95号線は片道4車線、急行路線は片道3車線合計14車線の自動車専用路線が遠くまで伸びている。流石にこんな風景は見たことない。なんとも騒々しい眺めであった。


1971.6.26

ニューヨーク見物、といっても町を走っただけ。駐車場では鍵も預ける。駐車スペースを効率的に利用するためには都合がよいことはわかるが、無防備のようで気になった。夕食はロックフェラーセンターのレインボールーム、眺めも良いし、食事も美味い。エスカルゴも美味しかったが、フランスでなく、ニューヨークが初回になるとは思わなかった。夜はニューヨークのハドソン川対岸のニュージャージーの知人宅に泊めてもらった。そこから見えるニューヨークの摩天楼群は素晴らしいだろうと言われたが、卒塔婆が林立する墓場のように映り、うっかり口に出してしまい、顰蹙を買った。


エピソード2 クリーブランドからドイツ帰国途中で

1973.3.5.

クリーブランドでの展示会に参加した帰り道、ニューヨークに寄った。飛行機はマンハッタン島の真上を通過する。眼下に広がるビル群の眺めは圧巻だった。ニューヨークに2泊して、ジュッセルドルフに帰った。

ドイツ駐在時、米国でのコンファレンスに参加する機会があり、クリーブランドにやってきたのだが、帰路ニューヨークに別件で寄った。ニューヨークにも3つの空港があり、近回りの国内線はラガーディア空港に発着する。国際線はJ.F.ケネディ空港、もう一つはニューアーク空港である。クリーブランドからはラガーディア空港を目指すのだが、マンハッタンの北にあるラガーディア空港に着陸するために、旋回してマンハッタンの上空を飛ぶ。真下に摩天楼街を見ながら飛ぶのだから景観は素晴らしいが、やはりハラハラする。大阪伊丹空港と似た状況ではあるが、ラガーディアの方が怖い。


エピソード3 退屈な一人旅

1977.8.29

ニューヨークへ一人旅。ワシントンからニューヨークまでの高速道路はほとんどが有料である。まず。ボルチモア・トンネル($0.75)から始まって、ボルチモアーウィルミントン間($1)、デラウエア・ターンパイク($0.5)、デラウエア橋($0.5)、ニュージャージー・ターンパイク($1.2)、ワシントン橋($1.5)と、それほど高価ではないが、面倒くさい。高速道路を淡々と走っていると、周囲の変化もないので、眠くなる。居眠りをしないように怒鳴ったり、喚いたりして走る。今日はニュージャージーに宿を予約してあり、フォートリーと云うところで降りると聞いていたのだが、フォートリーと書いてある標識が次々と現れ、何処で降りたらよいのか判らない。かなりの数の標識を通り過ぎたので、もういいだろうと高速を降りたら、フォートリーはまだはるか先で、更に一般道を延々と走った。初めてだからしょうがないが、疲れた。今回の目的地はブロンクス。どこにでもあるような街並みが続く平凡な町で、配管工事屋の気分で仕事を終え、同じ道を引き返し、戻った。


エピソード4 ミュージカルを見る

1977.11.28

アメリカ人同僚と電車(アムトラック)でニューヨークに行く。ワシントンの次の駅(多分ボルチモア空港駅)から乗る。駅舎も車両も綺麗とは言い難く、列車の窓も高い位置になり、空しか見えない感じだった。しかも満員。夕方、タイムズスクエアに行く。劇場が山ほどある。ブロードウェイ・ミュージカルを見ようと当日券売り場でプログラムを探す。同僚が「ザ・ウィズ」を勧めてくれたが、「王様と私」を選んだ。なんとユル・ブリンナーを見ることができた。かぶりつき座席で見た。素晴らしかった。ウィズは黒人キャスト版オズの魔法使いで、マイクル・ジャクソンが出ていた。観られず、惜しかったが、ライブの王様と私で十分満足した。


ボストン

1977.8.11 ボストン

今週はボストンに居た。ここはかなり英国風の町で、ロンドンにある青空市場と同じようなマーケットも在るし、車がなくても地下鉄で大抵の用事が済むなど、他のアメリカの町とは違う。少し気を許して、町中を散歩しているうちに、怪しげなところに入り込んでしまった。かってはきれいな住宅街だったらしいが、汚れた建物の窓ガラスは破れ、浮浪者が玄関先に座りこみ、用もなしに通りをうろついているグループも散見する。そーっと静かに立ち去ったが、やはりここもアメリカなんだと改めて思った。ボストンは港町なので、シーフード料理が美味しいと聞き、魚を食べに行った。メニューにトロの刺身があった。いかにも高級料理風に広い皿の上にちょこっとマグロが乗っていた。しかし高価だった。


当時はアメリカではまだ刺身は珍しい食べ物で、珍味扱いだったのだろう。普段、値段にしては旨いと思うことが多かったので、意外だった。

バーリントン

98日 ホリデイイン バーモント

バーモント州のバーリントンへ来た。冬ならスキーが出来て良いそうだが、秋晴れの良い季節なので雪はない。ここまで北上すると、もうアメリカではなく、スイス風の雰囲気で、澄みきった空、清澄な湖、クリーンな牧草地と、何か懐かしいイメージになる。羊は居ても人影はなく、素晴らしい風景だが、淋しい感じは否めない。住民はほとんど白人。


バーリントンと言っても通じなかった。口をすぼめてボーと発音して、やっと解ってもらえた。他では発音で困ったことはないが、バーリントンは手こずった。ここで4頭分を一枚に仕上げた羊の毛皮を買ったが、日本でクリーニングに出して、駄目にした。残念。

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