アメリカ南部

南部と云っても、行ったところはテキサス州が主だが、東部とあまり変わりはないと思った。2000km離れていても、2,3時間のフライトのあと、地上に降りてしまうと相変わらず原っぱが広がっているだけで、変わったというイメージを持てない。ただし、気温の差は大きい。

地図の上で、南部というとルイジアナ州やテキサス州等と考えがちだが、アメリカ人にとっては、これらの州は西部である。なぜなら、伝統的に南北戦争時期に南に属した州を南部と呼ぶからである。ルイジアナはその後フランスから買った土地であり、テキサスはスペインから独立し、独立国となった後でアメリカに組み込まれた土地である。ほかにもこのような例が残っていて、例えばシカゴ周辺地域を中西部と呼ぶのは、かってアメリカ合衆国の西部だったからであり、カリフォルニアなどの本当の西部が後から登場してきたので、中西部という中途半端な名称に落ち着いた。

ここでは地理的に南部の地域を南部とした。

シュリーブポート

718日 月 モーテル6、シュリーブポート,

今週はテキサスへ出張と云うことで、まずルイジアナ州のシュリーブポートというところへ来た。シュリーブポートという町を初めて知ったが、ここにはレッドリバー(赤い河)が流れていて、西部劇に良く出てくるところだそうだ。ワシントンのナショナル空港からアトランタに飛び、乗り換えてシュリーブポートに着く。アトランタ(「風と共に去りぬ」の町)のダウンタウンを横目で見ながら飛んだ。さらに途中ミシシッピー川を渡る。川幅は思ったより狭い、蛇行がすごいが、見た目は普通の川である(当たり前)。空港の傍のモーテルに泊まる。典型的なアメリカのモーテル。周りは緑の丘陵地。

   

アーカンソー、ルイジアナ、テキサスの三つの州境に位置するシュリーブポートはレッドリバーの蒸気船交易で栄え、20世紀に入ってからは油田が見つかり、石油産業の中心地となった。かっては奴隷市場、南北戦争時の南軍の拠点、公民権運動等で目立った地域だったようだが、今ではおっとりとした田舎町の横顔しか見えない。シュリーブという人がレッドリバーを航行可能にしたことから、町の名前をシュリーブポートとしたらしい。

 

ヒューストン

ヒューストンには度々来ている。それにも関わらず、ダウンタウンに入ったことがない。一度車で中心街を通り過ぎたが、建物の窓は大部分破壊され、大通りにはごみが散乱しているという荒廃しきった光景だが、上に目線を上げると圧倒的な摩天楼ビル群が覆いかぶさってくる。白人はすべて郊外に避難し、ビジネスも郊外で済む、これが当時のアメリカの代表的な風景。どうもヒューストンには、いわゆる古き良き年代は存在しなかったようで、油田の発見により、いきなり工業都市に成長したが、ブームに乗って作り上げたガラス製の建築物を、石油産業の後退で町に放り出された暴徒が叩き壊していった跡が残っているということ。この現象はヒューストンだけではなく、1970年代のアメリカの大都市すべてに共通していた。なにかの拍子に下層の人達が市内に入りこむと、白人層が急激に郊外に脱出し、空白になった中心地を無職の人々が占領するパターンがどこの町でも発生していた。当時、町を一人で歩くな、地下鉄に乗るなと嫌になるほど言われたが、今ではそれほどのことはないようだ。ワシントンDCでも、2000年頃には地下鉄もそこそこ安全に乗れるようになっていた。

720日 グリーンズポイント・イン ヒューストン

ルイジアナ(シュリーブポート)からテキサスのヒューストンへ移動した。アメリカの南部を車で延々と走ったわけだが(6時間ぐらい)、思っていたどおり,だだっ広いだけだった。そして、テレビドラマの「ちいさな草原の我が家」そっくりの風景が目の前を横切っていった。

721日 木 サン・ジャシント

エビを食べに行った。中心からすこし離れたサン・ジャシント地区にあるシーフードレストラン(San Jacinto Inn)に行く。夏のシーズンにはオードーブルとしてカニとエビ(スエーデンのエビより一回り大きい)が出てくる。エビはきれいに殻をむいて茹でてあり、そのまま口に放り込める。大味だが、チリソースで食べると結構いける。美味しいので、すぐに皿が空になる。ところがアメリカらしく、いくら食べても追加が来る始末で、あと半年はエビを食べたくないと云うほど食べた。問題はこの後、食べ終わったと思ったら、これからメインコースと云われ、山盛りのフライドチキンが出現、往生した。

サン・ジャシントは古戦場。かってテキサスはメキシコ領であったが、アメリカ人入植者が次第に増え、ついに独立戦争となり、1836年にサン・ジャシントでテキサス人反乱軍とメキシコ軍が戦い、その結果テキサス共和国が誕生し、10年後アメリカに吸収され、一つの州になった。

サン・ジャシント・インは1917年にオープンしたシーフードレストランで、サン・ジャシント記念塔と戦艦「テキサス」号の隣にある。記念塔はメキシコ戦争の記念、戦艦は第1次及び第2次世界大戦に参戦した記念。



8月4日 木 インディアン居留地

また、テキサスに行った。ヒューストンに着いて、空港からタクシーでホテルに入ったまでは、良かったのだが、することがない。近くにショッピングセンター(ギャレリア)があるというので、出かけたが、目の前に見えるビルまで歩いて20分ぐらいかかる。しかも気温は38℃である(それでも一階はアイススケート場になっている)。湿度は日本より低いけど、この暑さでは歩くのは到底無理。

当初、自分がヒューストンのどこにいるのか、見当がつかなかった。とにかく広い町らしい。ざっと直径20km位の周回高速道路の中にダウンタウン、ミッドタウン、博物館地区、テキサス・メディカル・センター等が収まっているらしいが、その高速道路の外、西側のアップダウンというところにいたらしい。ギャレリアは年間3000万人が来る巨大なショッピングモールとのこと。


アメリカでは車がないと全く動けないということが嫌と云うほど分る。それでも、どこか面白いところがないか、探した。レンタカーをトライしようとしたが、とうとう勇気が無くやめた。結局人に頼んで、アメリカインディアンの住んでいるところへ行った。インディアン・リザベーション(多分アラバマ・コサッタ部族居留地の筈)へ行ったのだが、今では普通の暮らしぶりで、テント住いでもなく、皆Tシャツにジーパンなので、見た目で何も変わったところはない。それでもネイティヴアメリカン(インディアン)に会ったのは初めてだが、日本人と良く似ている。少し浅黒い。何万年か前にアジアで分かれた人が、片方は日本人に、もう一方がインディアンになったと云われている。インディアンは大昔ベーリング海峡を通ってアメリカに入り、どんどん拡散し、各地に住み着いたらしい。


インディアン・リザベーションはインディアンを特定な地区に押し込めるために設定した土地で、劣悪な環境のところが多いが、観光地として生計を立てているところが多い。中に入ると、ネイティブアメリカン(今の呼び方)の少女たちが粗末な土産物を売りに来た。おずおずと買ってほしいと懇願する。祖国を奪われるとこうなるという見本だった。この居留地は湿地帯だそうで、林の中が何となく湿っぽい。

 話は別だが、メキシコ料理を食べたら、喉がひりひりして、次の日の朝食が食べられなかった。もうメキシコ料理は食べないことにする。それと、テキサスの紙幣を買った。勿論、本物では無いが、昔のテキサスは独立した国だったので、その時への郷愁で今でもこのような印刷物を売っている。このお札はテキサスの自慢をするときに使うそうである。それと、テキサス州の旗として、一つ星(ローンスター)を売ってるが、これも独立国であった時期への郷愁とのこと。

85日 金

ディーラーの家に泊めてもらった。ヒューストン市外のスプリング地区にある。住宅区域のスタイルとして、通りから横に脇道が伸び、先端が円形の袋小路になっていて、円形の中心に大きなマグノリア(泰山木)などが植えてある。そして道に沿って家屋が並んでいる。家々は広いが、豪華という訳でもない。ただエネルギーの使い方は贅沢である。とにかく暑いので、冷房を入れっぱなし、不要な月は1月と2月だそうだ。クリスマス季節には冷房を入れながら暖炉に火を入れるとのこと。

この住宅地に入り込んでいく車道のことをクルドサック(袋小路道)と呼ぶらしい。日本では東急たまプラーザに例があるとのこと。この方式なら,車の方向転換をしなくても、道なりに走らせれば、入り口に戻れる。 

 

息子さんの部屋に泊めてもらった。部屋に入ってぎょっとしたことに、机の上に拳銃が無造作に放り出してあったこと。当たり前のことだそうだが、そっと持ってみると結構重い。ピストルを振り回すのは簡単ではないと妙な納得をした。

突き当りにぽつんと立つ泰山木が気に入って、日本で植えてみた。見る見るうちに大きくなって、二階からしか花は見えなくなった。落ち葉が広く散乱し、隣近所から苦情が出て、ついに切ってしまった。アメリカのような広いところでないと合わないと悟らされた。罪なことをした。

ダラス

82日 火

ヒューストンからダラスへアメリカ人と一緒に行った。このヒューストンからダラス行きの飛行機が傑作で、ローカル線だが、スチュワーデスがホットパンツスタイルなのは結構なのだが、全員大年増で、首から上に魔女みたいな顔が乗っているので、ホットパンツも台無し。そして到着した空港の名前がラブフィールド、おまけに荷物に付ける荷物札が真っ赤なハート型になっていて、とうとう笑ってしまった。市内ではレンタカーをしたのはいいが、どうしても道が分からず、もたもたしていたので、アメリカ人でもこうなるのだと安心した。


ダラスの町はケネディ大統領の暗殺で一躍名前が知られ、悪評が轟いた。それでも産業都市としては健在だが、観光には向かない。それより、あまり知られていないが、フォートワースという町と双子都市を成している。フォートワースはカウボーイの発祥の地で、家畜の集散地だった。国際空港が二つの都市の中間にあるが、ラブフィールド空港はダラス市内にあるローカルな空港で、サウスウエスト航空の拠点。サウスウエスト航空は後発だが、ユニークな経営で儲かっているとのこと。

サンアントニオ

1021日 金 サンアントニオ

とうとうサンアントニオまで来た。別にアラモの砦をどうしても見たいというわけでもなかったが、サンアントニオと云う名前からして、ただのアメリカの町ではないはずで、見てみたいと思っていた。実際に、サンアントニオの町はアメリカの町としてはかなり変わっていて、グラナダやマラガのような雰囲気を持つスペイン風の町で、何となく懐かしい感じがした。この町の観光名所は二つ、リバーウォークとアラモの砦。どちらも町のど真ん中にある。「リバーウォーク」は、1930年代に治水・灌漑の整備する際に、水路と街並みを組み合わせた「川の遊歩道」として造られた。1960年代に再開発され、という文化拠点として賑わっている。この遊歩道を歩くのは楽しい。一般道より一段低いところにサンアントニオ川が流れていて、その川辺の遊歩道を歩けば、木陰にレストファン、カッフェ等、店舗が並んでいて、うきうきした雰囲気になれる。少なくともアメリカの一部にいることを忘れることができる。

 

テキサス独立戦争や映画「アラモの砦」で聞いたことがある砦がどこにあるか知らなかったが、サンアントニオの中心地に位置していると分かって吃驚した。平地に立つ砦の壁は低く、中庭には城塞もなく、とても防ぎきれるとは思えなかった。今から150年も前に、アメリカ人(本当はテキサス入植者)200人とメキシコ人5000人が戦って、アメリカ人が全員戦死したことになっている。このあと、アメリカは「リメンバー ザ アラモ」の合言葉の下にサン・ジャシントなどで戦いを続け、まずテキサスを独立させ、そしてアメリカの一州にした。


アメリカ人は合言葉が大好きで、時の支配者はこの合言葉を利用して、人民を一致団結させる術に長けている。当然「リメンバー パールハーバー」を想い出すが、アラモのことを知れば、政府が真珠湾攻撃を事前に知っていたことが想像できる。しかも宣戦布告が間に合わないように手を打って、卑怯者のレッテルまで張った。こうなれば、日本を叩き潰すのは正義となる。攻撃の発案者である山本五十六将軍は国際派と云われたそうだが、アメリカ人の心情には疎かったわけで、罠にまったく気が付かなかったことになる。別段、彼だけではない、江戸時代を鎖国で過ごした日本では欧米の過酷な植民地政策をしっかりと理解することはできなかったと言うしかない。世間知らずの日本人にとって、アメリカの半植民地である現状が庶民にとって最も幸福なのかもしれない。残念ながら、アメリカの圧力を躱しながら、いいところ取りすると云う芸当は我が国の支配層には無理、これからが心配である。

参考までに、テキサスがアメリカの一州になる19世紀頃の、アメリカの領土拡張の動きを図にしてみた。イギリス植民地だった13州が1776年に独立し、アメリカ合衆国を建国し、西部開拓に乗り出し、フランスからルイジアナを、スペインからフロリダを購入し、アラモ、サン・ジャシントをきっかけにメキシコと戦い、西海岸へ到達する経緯が分かる。




 

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