アメリカ中部

一般には中西部(Midwest)と呼ばれる地区である。古くは農業、牧畜の中心地であり、五大湖、河川を利用した交通の要であったこの地方は、20世紀には各種製造業が興隆し、アメリカの心臓部と称されたが、近年に入り、産業が南部や西部に拡散していくことにより、勢いを失い、ラストベルト(錆びた工業地帯)などと呼ばれるようになった。そうはいっても、今でもアメリカの産業を支える基幹地区であることに変わりはない。

バッファロー(ナイアガラの滝)

1977.9.10

9月9日夜、バッファローからレンタカーでナイアガラへやってきた。滝の近くにホテルを取ったところ、ゴーゴーと豪音が鳴り響いているが何も見えない。近いので、夜中に歩いて見に行った。5色の照明に照りだされたナイアガラフォールは安っぽい観光シーンと化け、商業主義の見本のようだった。

9月10日の今朝は澄み切った良い天気、しかも乾燥して、気持ちの良い気候。昼間のナイアガラの滝は自然の風景に戻り、まあまあ観光に耐える。カナダ滝のすぐそばの遊歩道から見ると、岩棚の上を透明な水の流れがよぎって行く。あまり深さもない。が、視線を少し下流に向けるとストンと流れが無くなる。覗き込むと数10メートル下でもうもうと真っ白な水煙が上がっている。この落差はちょっと気に入る。

下に降りて遊覧船「霧の乙女」に乗り、滝の真下に行く。貸してくれるゴム引きのカッパは使いまわされたものらしく、体臭が残り、思わず鼻をつまんでしまった。滝直下の水しぶきは激しく、何も見えない。びしょびしょになったことだけが滝まで来たという証拠になった。さほど感動する景観でもなかったが、でも一見の価値があることは認める。湖岸に座り、浅く平たく流れている川がいきなり滝となって落ち込んでいくのを眺めていると飽きない。上流に向かって左のアメリカ滝、右のカナダ滝を適当に周囲を見て午後の便でワシントンへ帰える。



ナイアガラの滝は五大湖のエリー湖からオンタリオ湖へ流れるナイアガラ川の途中にある。二つの湖に高低差があるため、ナイアガラ川のどこかに滝ができることになる。浸食作用によって、今でもナイアガラの滝は上流に動いていっているそうだ。と云っても、年間3cmぐらいの速度とのこと。滝は三つあって、アメリカ側に二つ、カナダ側に一つある。カナダ側は馬蹄型になっているので、水煙がすごい。アメリカ側は仕掛け花火の「ナイアガラ」と同じスタイルである。


ナイアガラに行くときには注意しろという話を聞いた。滝はアメリカとカナダの国境だが、カナダ側からの眺めが良いので、つい橋を渡ってしまうが、ヴィザが切れているとアメリカへの再入国が出来なくなると云うこと。留学生によくあることらしい。

 23年後もう一度ナイアガラに来た。この時はカナダ側から入った。渡してくれるカッパは使い捨てのビニル製に代わっていたので、前回のような臭を嗅がなくてすんだ。遊覧船の会社が変わり、今では「霧の乙女」号とは呼ばなくなったらしい。

 

クリーブランド

1973.3.5

フランクフルトからボストン経由でクリーブランドに向かった。飛行機は延々と市街地の上を通り過ぎる。一週間も居たのに、記憶に残っているのはこのランディングだけである。

ドイツからのグループのまとめ役をやっていたから、それに忙殺されて、周りを見て回るほどの余裕はなかった。


五大湖の一つエリー湖に面している町だが、当時は興味もなく、湖岸の町と確認したのはかなり後のことである。かっては重工業で栄えた町だったようだが、このころには衰退し、何の特徴もない平凡な町としか映らなかった。

インディアナポリス

1977.11.23

シカゴから南のラファイエットの町へ行った際に、折角だから自動車レース「インディ500」のレース場を見ようと、インディアナポリスまで車を走らせた。もちろんレースをやっていない普通の日で、それほどの人がいるわけでもないが、見物客はいる。コースは思ったより小さく、一週4kmでそれを200回廻るという競技で、この狭くて、短いコースを時速300kmを越すスピードで回りぬくのは、よほどタフでないと無理だということは分かった。観客席は木製。コースの下には博物館がある。


世界の三大自動車レースの一つという割には、ローカルな雰囲気である。楕円状のサーキットをただ回るだけだから、単純と云えば単純なのだが、F1レースに比べると人間臭さが感じられるような気がした。

デトロイト

2000.7.24

この年2回目のデトロイト詣で。この日は早めにホテルに戻れたので、野球を見に行くことにした。ここには大リーグ デトロイト・タイガースの本拠地コメリカパーク球場があり、ちょうど野茂英雄投手が登板すると聞いて早速出かけることにした。行き方について、ホテルのフロントに相談したら、ハイヤーを用意してくれた。29ドルぐらいだったか、思ったより安い。球場まで送り届け、帰り時間を指定しておけば迎えに来る。車を持たない旅行者には便利なシステムと改めて思った。対戦相手はタンパベイ デビルレイズ。残念ながら、野茂投手は早々に降板し、敗戦投手になってしまったが、トルネード投法は見届けた。




タイガースのホームグランドだけあって、球場のあちこちに虎(タイガー)の像が立っている。日本の球場と違って、夕方の陽光に映える芝生が鮮やかな緑色できれいだった。当然ながら、内野席は売り切れで、野茂投手を遠くから眺めるしかなかった。でも、どうしてか、大リーグ観戦はのんびり野球を楽しめた。うるさい応援合戦もなく、ゆったりできたせいかもしれない。フアウルボールに注意というアナウンスまで可愛らしく聞こえた。

シカゴ

1977.11.21

シカゴは危険という先入観を持っていたので、地元の人に聞いたら、危ないと云われるところが危ないのは、どこの町でも同じで、シカゴも変わりはないとお説教された。ダウンタウンの景観は洗練された人工都市といったところで、ニューヨークのような汚れた町という感じはなかった。圧倒的な印象を与えるのは、ダウンタウンを四角く廻る、ループと呼ぶ環状線高架鉄道である。轟音とともに頭上を走り去る列車に近代文明を象徴するものを感じた。世界一のシアーズ・タワーにも登った。103階から眺めはそれなりのものだが、記憶に残るほどでもない。



近代文明を象徴とは大げさなことを言ったが、初期の機械文明が残っていると云ったほうが近いかもしれない。映画「メトロポリス」を想い起こす雰囲気が残っている。シアーズ・タワーは名前が変わったらしい。高さも世界一ではなくなっていた。


2000.1.9

悪天候にぶつかった。ミシガン湖に突き出したネイビー・ピア桟橋で夕食を取ったが、叩きつけてくるような、横殴りの風雨によって、全ての窓はびっしり曇り、表は何一つ見えない。湿気の強い室内でゴーゴー唸る風の音を聞きながら黙々と食べた。

シカゴが「風の町」と云われるのもなるほどなと思った。底辺にはかなり荒々しいものが潜んでいるよう感じたのは考えすぎか。

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