カナダ

カナダは遠い。距離ではなく、心理的に遠い。アメリカ合衆国の陰に隠れた、どこか別宇宙の国というイメージを長い間持っていた。したがって、たいして関心もなかったが、機会があって、トロントに行くことになり、アメリカとは別の国として現実に存在していることを実感した。しかしトロントだけでは、カナダを知っているとは言えないのも確かなので、中途半端のままである。

トロント

2000.7.15

成田からデトロイトへ飛び、乗り換えて北東方向のトロントへ向かった。夕方7時、まだ日は高い。

ダウンタウンの南側にあるロイヤル ヨーク ホテルに入る。シンポジウムが行われるウエスティン・ハーバー・キャッスル・ホテルの会議センターへは歩いて10分ぐらいで、散歩しながら向かうのにはちょうど良い。

      

トロントの町はオンタリオ湖の北岸にあり、かなり大きな都市らしいが、ダウンタウンはそれほどややこしくはない。湖岸にあるユニオン駅を中心とする南部とロイヤル・オンタリオ博物館などがある北部をつなぐU字型地下鉄で囲んだ範囲で用は済む。もっとも北部にはほとんど行かなかった。

2000.7.16

期限を過ぎてから、シンポジウム参加を申し込んだため、会場のウエスティンホテルを取ることができず、近くのロイヤルヨークホテルを取ったが、ホテルとしては格が上で、英国王室御用達とかで、居心地は良かった。新しそうな街並みの中で、古いが貫禄があり、別格の存在を誇っていた。


2000.7.17

会場の会議センターには数多くの会議室が設けられ、雑多の人が出入りしていて、賑やかだった。

会議場だけでなく、この町を歩いている人達が皆自然体に見えることに少々驚いた。アメリカではこうはいかない。白人はともかく、黒人は空威張りで、アジア系は身を竦ませているように感じられることが多かったが、トロントでは、張り詰めた雰囲気はなく、それこそ対等に振舞っている。人種差別の歴史がないのではないかと思ってしまう。ひょっとして住み心地のいい町なのかもしれない。

      

2000.7.18

北ダウンタウンへ地下鉄で行ってみる。地上に出たが、他の町の街並みとあまり変わりなく、ちょっとがっかりして帰る。現代的な町は南のハーバーフロントの周りだけのようだ。

南ダウンタウンでは、コンクリートとガラスの鋭角的な高層ビルが多く、斬新な町造りを目指していることが分かるが、北は低層建物が多く、造りも従来通り建て方である。いずれ南のように変わっていくのだろう。

   

2000.7.19

ダウンタウンの地下街通路PATHを発見した。100年以上かけて作っている地下街とのことで、とてつもなく広い。総延長30km、1200軒のレストラン、ショップ、サービス及び娯楽施設、交通機関、地下鉄等を結びつける歩行者専用ネットワークである。毎日20万人が利用するという。極寒の町だからこそできたのだろう。真冬でもダウンタウンは賑やかだそうで、なんでも買い求めることができる。


ヨークホテルもPATHにつながっているので、ホテルから地下街に買いものに出るのには便利だった。

2000.7.20

ユニオン駅の近くにバカ高い塔がある。CN(国立カナダ)タワーという電波塔なのだが、展望台でもある。上海の環球金融中心の展望台に似ている。


タワーの高さはエッフェル塔の2倍あるそうだ。

2000.7.21

ナイアガラツアーにお付き合いした。アメリカ中部編で紹介したので、省略。

2000.7.22

大リーグを見に行った。地元のブルージェイズ対ボルチモア オリオールズ戦だった。知っている選手はいなかったし、勝敗もともかく、初めてメジャーリーグ野球を観戦したことになる(一週間後、デトロイトでタイガースの試合を見た)。アメリカの大リーグなのに、ブルージェイズはカナダのチームとして加入し、何回もリーグ優勝をしている。球場のスカイドームは世界初の可動式屋根付きスタジアムであり、しかもホテルが付設されていて、ホテルの窓から観戦できるなど、新しい試みがなされている。


この時、屋根は格納されていたが、巨大な屋根が横に動けることは理解できた。さらに球場のセンター後方に窓ガラスがびっしり並んでいたので、なんだと聞いたら客室の窓だとの答えが返ってきた。球場とホテルが一体化しているわけで、感心すると同時に呆れた。今はロジャース・センターと名前が変わった。球場を維持するのが大変らしい。

2000.7.23

会議センターの南側はオンタリオ湖になる。夏だがあまり暑くない。よいお天気で、愛犬と一緒に昼寝をしている人を見ながら散歩した。午後デトロイトに向かった。



メキシコ

メキシコの土地を踏んでいたのは1時間足らずで、旅行記を書けるほど滞在したわけではないが、印象が残ったので、書くことにした。


ヌエボ・ラレド(メキシコ)/ラレド(アメリカ)

1977.10.22 土

アメリカ テキサスのサン・アントニオに居る。今日一日空いたので、どこかに行くことにした。メキシコに行ってきたらと云われ、その気になってレンタカーを頼んだ。小型車がなく、フォードのバカでかい乗用車が回されてきた。前部座席が分かれていないタイプで、カーブを回るたびに、滑って尻が反対方向に振られるし、左側席のドアまで手が届かない、まるで大型トラックに乗っている気分で出発した。州間高速道路35号線に乗り、南下した。サン・アントニオの町を出たら、何もない原っぱが続く。ところどころに頼りない草むらが生えていて、たまに道端に標識が立っている。牧場と書いてあるらしい。既成概念としての牧場のイメージとは大違いで、単なる荒れ野である。ここの牧場はとてつもなく大きく、北の方にある一つの州と同じぐらいの面積と聞いた。しかし何という単調さだろう。35号線の終点まで4時間走り、ラレドの町に入った。突き当りはリオ・グランデ河で行き止まり。とにかく車を止めて、歩いてみる。正方形にきちんと区切られた区画が並んでいて、道ばかり目立つ。建物はあちこちにパラパラと立っている。ローカルな食べ物屋がないかと探すが、見当たらない。結局マクドナルドへ入り、ハンバーガーを食べる。東部から何千キロも飛んできて、マクドかよと情けなくなるが、どうしようもない。せっかく来たのだからと、メキシコ領へ向かう。国境はリオ・グランデ河で仕切られている。かなりの深さの谷間に掛かっている橋を渡る。渡ったとたんに、東南アジアのどこかに来たのかと疑う。道は舗装されていない、足元から砂煙が舞い上がる、泥で作ったかのような家々が犇めいている。商店か住居かも判然としない。そこらに立っている人の姿がぼろきれの塊のように見える。メキシコらしい派手な色彩は全く見当たらず、灰色一色に塗り潰されているが、空は真っ青。歩き回る勇気も湧かず、周りを見回す。興味のあるものは見当たらない。どのくらい呆然としていたか、記憶にないが、気が付いたら、引き返して橋へ戻っていた。再度4時間かけて、サン・アントニオに戻った。何をしに行ったのかという考えさえ浮かばず、その異様な格差に打ちのめされたままであった。

特別の期待があって、メキシコへ向かったわけではなかったが、アメリカ領のラレド市とメキシコ領のヌエボ・ラレド市がリオ・グランデ河を挟んで相対している様があまりにも異様であったので、その光景に圧倒されてしまった。地続きの国境は何度も経験しているが、家も、道も、人も、そして色も、音も全く異なる異文化区域が互いに隣り合って存在している場所は初めてだった。一つの新大陸に同じヨーロッパ人種が侵入、拡散して作り上げた国々が、どうしてここまで違ってしまったのか、考えても解けなかった。

アメリカとメキシコの戦争が1848年に終結し、メキシコは国土の1/3を失い、リオ・グランデ河を基本とする国境線が決まり、国境を跨いでいた町々も分断された。

ラレドの町はアメリカ側に所属することになったが、一部の住人は河を渡り、対岸のメキシコにヌエボ(新)・ラレドを作った。両ラレドは2国間の貿易拠点として活気があるが、同時に麻薬中継点としても悪名が高い。似たような国境線沿いの異文化分割都市としては他にシウダー・ファレス/エルパソ、ノガレス/ノガレスなどがある。



1977年当時の写真も絵葉書も残っていない。最近のウエブサイトに乗っている町や河の写真は、記憶している当時のイメージとは全く合わず、ちぐはぐだが、ウエブサイトからの写真を参考までに載せて置く。

 

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