ロシア滞在日誌1967


モスクワへ

まだ、海外旅行がそれほど一般ではなかった時代に、31才の私に海外出張の順番が回ってきた。しめたと思ったものの、行き先は花形のアメリカではなく、ソ連(現ロシア)である。まあ海外へ行けるならどこでも良かった。 当時のソ連はメーカー駐在員など認めてくれない国だったので、観光客として渡航することになった。中身は市場調査、マーケッティング、装置の据え付け、修理、その他もろもろの任務を背負った短期駐在員である。当初の予定は3ヶ月であったが、気がついたら8ヶ月に延びていた。初めてで、珍しかったせいか、長々と日記を書き続けた。40年後の今、それを引っ張り出すことにした。

1967年(昭和42年)5月5日

朝寝坊した。6時半であった。大急ぎで仕度をする。7時10分頃迎えの車が来た。第3京浜のドライブは快適であった。8時過ぎ、1時間足らずで横浜港に着いた。すでに上司、同僚諸氏が見送りに来てくれている。港に着いても、することもなく、ただ待っていてもしようがないので、税関に出国管理、検疫の手続きに行ったが、至極簡単に終わってしまった。税関を出て、大桟橋に行く。船に入る手続きを終えても船外に出られると聞き、とにかく乗船する。デッキで年配の女性(係員?)にパスポート、ビザ、バウチャ(ホテルのクーポン)などを取り上げられる。次いでインツーリスト(ソ連の国営旅行社)の人に回され、汽車の切符まで取り上げられた。10時半までに戻れということで、下船する。10時15分ぐらいに再度乗船する。岸壁の所に皆集まってくれ、テープを投げたり、投げてもらったりした。

  

11時2,3分頃いよいよ出航である。桟橋を離れだすと、ちょっと目頭が熱くなった。わずかな時間で船は港を遠ざかった。船内をぶらぶらしている内に外海にでた。良い天気で波も静かであるのに、かなり船は揺れる。酒を飲まなくても酔った感じである。もっとも船酔いまでにはならない。

      

室は2人部屋で、4畳半ぐらい、かなり狭い。2段ベッドでシャワー、トイレは隣の部屋と兼用である。隣室はご婦人らしい。あと小さな机、二人掛けソファー、荷物入れとこれで全部である。部屋で一緒になったのはフランスへ行く京都の大学の教授である。あまり、ソ連船に乗っている感じがない。

1時過ぎ食堂を探して入ろうとしたら鍵が掛かっている。その辺にいるロシヤのオバチャンに何処だと聞いたらここで待てということである。長い間待たされたあと、今度は食堂が違うと来た。反対側の食堂らしい。食事はサラダと魚のオードブル、ジャガイモのスープ、ハンバーグに目玉焼き、炒めご飯である。テーブルには醤油のビンが載っていたりして、何も日本と違わない。ナプキンもある。そのあとリンゴの缶詰のデザートが出た。たいした量ではなかったが、お腹はふくれた。日本人が多く、日本語、ロシヤ語、英語の会話があちこちでする。

あとで、デッキチェアで寝ようとしたが全部占領されていた。やむを得ない。ちょうど気分も悪くなってきたので、部屋で寝る(船酔いかもしれない)。目が覚めたら4時45分頃でお茶に出かけた。先客が3人いた。夕食でも会った。そのあとのサロンでも会った。なんと競合会社の御一行である。向こうもこちらを知った。呉越同舟である。アコーデオン2人、ドラム1人のバンド演奏を聞いていたら、知っている曲になり、飛び出して行って踊った。楽しかった。運動にもなる。帰ってきたら11時半頃、シャワーを浴びる。もうじき1時になる。寝る。 

 

第1日目は結局内地と何も変わらない。多少外人が多いだけであった。食事はランチがもっとも盛大である。また、同室の人同士で食事の順番が違うのは妙な感じである。

5月6日
朝8時半過ぎに起きた。私の朝食は8:30 の組(第1組)である。一組4人だが、私以外はモスクワでの展示会に参加するらしい。食事後デッキでチェアにひっくり返っていた。少々寒かったが、まあ船でデッキチェアに寝るという経験を持ったことになる。12時半中食(昼食)、コーンビーフのソーセージみたいなオードブル、ウクライナボルシチ、豚と米の煮たものなどである。とにかく腹は減らないが、それでも結構食べることができる。私はかなり旨いと感じた。

そのあと室で寝ころんだり、ぶらぶらしたりして過ごしていると、3時頃より北海道が見えはじめた。津軽海峡を通過するのに2時間ぐらいかかる。ブリッジに入れてもらった。何とか英語が通じた。現在18ノットだそうである。船は5000トン、荷物は1500トン積める。ブリッジから見る夕日は美しい。この間に海底トンネルができると思うと狭いようでもあり、また広いような海峡である。これからサロンで映画を見てくる。

 

隣人の話によると食事の時一緒になる紳士は指揮者の大町陽一郎氏とのことである。どうも見たことのある顔だった。

5月7日(木)

朝ベッドの中でうつらうつらしていたら、朝食の用意ができたとアナウンスがあった。寝坊したなと急ぎ身繕いをして、行こうとしたら、教授が起きてくる。時計が狂っていると言った。時計を見ると7時半である。つまり今日からナホトカ時間に変わった訳である。時計を1時間進めた。

9時頃から沿海州が見え始めた。なるほど日本とソ連は近い国である。12時頃よく岸が見えるようになった。なんだか内地みたいな気がする。2時頃ナホトカ港に入るようである。インツーリストの人より汽車、飛行機の切符を返してもらった。

 

いよいよ船旅もお終いである。実に快適な船旅であった。3日間とも快晴に恵まれた。おそらくひどく日焼けていることであろう。船はほとんど揺れない。よい旅であった。

 

2時40分に接岸した。船首に立っていたら危険と言うことで追い出された。

ナホトカ港は日本の地方の港みたいものである。ただ、だだっ広い感じを与える。何もないからである。下にインツーリストの人が寄って来て話をしている。

 

軍服みたいなのを着ている検疫官と青灰の男女2人(税関吏)が乗船してきた。そのうち室内に入れとアナウンスがあった。しばらくしてから検疫証明書が返ってきた。何も書き込んでいない。青灰色の制服の税関吏が部屋にやってきた。私は空送した荷物を申告した。勿論申告するほどのことはないのだが、どうなるかと思ってやったが、ちょっと調べられたが、すぐOKになった。荷物の中は全く見ない。そのうち、パスポートが返ってきた。ビザの半分がとられ、パスポートにナホトカの印が押してあった。テープレコーダの持ち込みはうるさい。

ひょっと下を見ると乗船客が降りている。事務所に聞きに行ったら、旅券さえ返れば、出て良いそうである。降りろと言うアナウンスもしないらしい。第1歩を踏み込んだ。どうということもない。

銀行があったので、20ドルを替えた。3ルーブルが2枚、5ルーブルが1枚、1ルーブルが6枚、10カペイクが9枚、3カペイクが3枚、1カペイクが1枚、計18ルーブルになった。ルーブル紙幣は小さい。日本の1000円の1/4ぐらいだろうか。またカペイク硬貨も小さい。3カペイクはやや大きい。どうも安っぽい。切手を買おうとしたが、モスクワまで手紙を出せないから止めた。

表に出て、女の子たちの座っているベンチに腰掛けた。やはり言葉が通じないのはもどかしい。まずこの女の子たちと数字を数えることから始まった。向こうも1から10まで英語で言える。こちらもロシヤ語で1から10まで数える。学校はと聞いたら4年だという。こっちは今日休みかと聞いたつもりだが。チョコレートをやろうとしたら、受け取らない。そのうち向こうがペンダントをくれた。これはやはり欲しいのだなと思い、チョコレートを押しつけるとさっと隠した。そのうちボールペンをくれと言い出したので、私は逃げ出した。

その内バスに皆が乗り出したので、2台目に乗る。何もアナウンスしない。実にのんびりしているというのか、気が大きいと言うか、皆悠々と動作する。こっちも胸を張って闊歩した。インツーリストの人が日本語でバスから見えるところを説明した。船のドック、町の中心、レーニン広場と回った。結局町の案内をしてくれたことになる。レーニン広場よりの海の眺めはすばらしい。ナホトカは良い港である。そして、最後にチーホオーケンスカヤ(太平洋)駅に着いた。日本の駅の感覚とは違う。

 

話に聞いていたが、ここでロシヤ式トイレに始めてお目にかかった。仕切はあるが、戸はない。洋式トイレのアサガオが地面すれすれにおいてあるだけである。最初ここで小用を足したが、振り返って見るとチャンと男子用がある。さてはこれがと分かったしだい。

それまで放りっぱなしである。時間が余ってしょうがない。汽車は8時半に出るそうである。写真を撮っていたが、飽きた。

      

地図があるかどうか聞いたがないそうである。タバコをくれという人が多い。他の人によると交換にロシヤ製のタバコをくれたそうである。誰かが夕食は7時からと言うので、レストラン車に行った。食事は船よりまずい。船のほうが良かった。室は8号車(硬車)で4人のコンパートメントになっている。満員である。やはり2人掛けの軟車(一等車)を頼むべきであった。ここも日本人ばかりである。一人旅の学生が多い。この分ではモスクワまで日本語がしゃべれる。

夕食後、町の上の方に行った。映画館があった。何をやっているか不明である。そこのバルコニーみたいなところから見る夕暮れのナホトカもまあいただける。それで戻ってきて、ロシヤ人の子供としゃべっている連中に割り込んだ。タバコを2本やった。お返しに葉書をくれた。なかなか話が通じない。片言ぐらいは解る。8時20分頃列車に戻った。

8時20分頃列車に戻った。8時40分頃これから発車すると日本語でアナウンスがあり、汽笛を鳴らしてうごき出した。なるほどやわらかい汽笛である。スピーカーから音楽が鳴りっぱなしである。うるさい。それにしても日の暮れが遅い。ナホトカを出発して、しばらく窓の外を見ていたが、とくに変わったこともない。日本同様の風景である。その内寝てしまった。夜中の11時半頃インツーリストトがやってきて、上の学生に汽車でモスクワに行くのかどうか質問を始めた。おかげで4人とも起こされてしまい、なかなか寝付けなかった。

5月8日(月)

朝明るいので目が覚めた。時計を見たらなんと4時半である。明るくて寝ていられない。無理に毛布をかぶって8時頃までうつらうつらしていたが、腹が減ってきた。

外に見える風景に緑が多く、所々に集落が見える。驚いたことには野良で働いている人たちは上半身裸である。女の人のビキニスタイルも見えた。なるほど今日は暑い日である。

   

  


12時7分にハバロフスクに到着した。荷物を置いて勝手に降りろと言うことであった。降りたらその付近で集まってくれと日本語でアナウンスがあり、その内、駅前のバスに乗れとインツーリストトの人が指示した。

適当に乗り込むと、これからランチを食いに行くのだそうだ。バスはあちこち回った後、極東ホテルに入った。ホテルの前はコムソモリスカヤ広場である。とにかく100人以上の日本人が、がやがや言いながら食事をするのは壮観であった。

      

ハバロフスク市の名前は17世紀のロシアの探検家ハバロフに因んで付けられたもの。

時間がないと早々にバスに押し込められ、市内を廻りだした。結構にぎやかなところもある。しばらくすると河が見えてきた。アムール川である。市の左側にある。アムール河畔でバスを止め、しばらく散歩である。川の反対側はレーニンスタディアムでフットボールをやるそうである。例によって偉い人の顔写真が飾ってある。ちょうど川は太陽を映してサンサンと光っている。とにかく暑い。27,8度はあるのではないだろうか。水中翼船が走っている。写真を取り損なった。

川辺で、顕微鏡の図が載っている本を読んでいる、かわいらしい女の子がいた。聞いたら学校で今やっている物理の本と云うことらしい。写真を撮って良いかと聞いたら、いやだという。その代わり、このきれいなアムール川とレーニンスタディアムをとれという。写真はいやだというのはナホトカでもあった。川では釣りをしている人、裸で日光浴をしている人達が多かった。その内、さあ行きましょうかと言ってバスの警笛を鳴らし、皆を集めた。そのまま飛行場へ向かった。

 

飛行場近くでは写真はよしてくださいと警告された。飛行場には例のツポレフTU-114、イリューシンIL-8など約20数機がばらまかれていた。このTU-114に乗るわけである。待合室で皆が争って荷物の計量をして、係のオバチャンに申告している。私の荷物は2個で30kgをオーバーしている。あわてて、とにかく中身を出して、30kg以下にする。係のオバチャンのそばでやったが、忙しいもので、こっちをかまっている暇がないのが幸いである。とにかく29.5kgぐらいにして出す。

その後運搬係のおじいさんが荷物を持っていってしまいそうになったので、とにかく止めて荷物を入れ直す。結局32,3kgになっているはずである。その内おじいさんは私のショルダーバッグまで、運ぶ手配をしてしまったので、あわてて断る。30kg以上の荷物を手で持っている人が多かったので、実際に30kgをオーバーしていたら、オーバーチャージを取られたのだろうか。この操作のおかげで汗だくになった。汽車で起きたときからちょっと頭が痛かったのが、ここでさらに体がおかしくなった。とにかく暑く、のどがからからで、ビュッフェに行ってレモン水でも飲もうとしたところ、間違えてポートワインを飲んでしまった。しかも、58カペイク取られた。頭へ来た。調子の狂っているところへワインを飲んだので、ますますおかしくなる。ベンチでひっくり返っていた。その内少し寝てしまったらしい。後でとなりの人がいびきをかいていましたよと言っていた。

わずか30分ぐらい寝たら、やや調子が良くなったので、散歩を始める。あちこち歩いているうちに、我々の待っているところは外人専用で一般と離されているのが分かった。表を一人で歩くのはちょっと勇気が要ったが、何となく上野駅を連想した。色々な人間が歩いている。ここで4時間近く待たされた。荷物の計量もあわてるのではなかった。それぞれのシート番号がまちまちだったが、どうやら日本人をひとまとめにするらしい。

いよいよ搭乗である。ツポレフ114は見たところ大きくない。また入ってみても狭いとしか思えなかった。残念ながら窓側はとれなかった。3人掛けの一番内側だった席をドイツ人の女性が譲ってくれた。窓側はどうやら飛行機は初めての日本の女の子である。こちこちに固まっていた。


  搭乗飛行機であるツポレフTU-114は二重反転式プロペラで飛ぶターボプロップ旅客機で、当時世界最大クラスの旅客機と云われ、それなりの利点はあるものの、二重反転プロペラによる振動が大きいことが知られていた。

やおらエンジンが掛かりだした。この飛行機の俗称である電気アンマから、どの程度のものかと思っていたが、震動はまあそうたいしたことはない(相当ひどいが)。かなわないのは飛行機全体が唸っている、いや怒鳴っているように聞こえることである。実にうるさい。震動の方は新幹線の揺れ方に田舎のバスの震動を加えたものと思えば良い。機内の大きさは新幹線の5人掛けを6人掛けにし、それを直径とした円筒のようである。何となく田舎くさい飛行機である。  

いつ離陸したか分からなかった。約1時間位「ベルトを外せ」の指示が出なかった。つまり1時間ぐらいは昇りっぱなしらしい。下のアムール川がみごとに蛇行している。その内雲の上になってしまい、下が見えなくなってしまった。それでも雲海はきれいである。写真は取ろうと思えばとれないことはない。取っている奴もいる。しかし、チェックはきつい。オペラグラスをのぞいていた奴が危うくカメラと間違えられ取り上げられそうになった。私の腕前ではきれいな写真を取れそうもないし、一応ルールを守ることにして、取らなかった。もっぱらドイツの女性と話をしていた。日本で働いていて、休暇でフランクフルトに帰るのだそうだ。結構時間つぶしになった。何しろ英語を主にして、日本語、ドイツ語、ちょっとロシヤ語も入れてしゃべるのだから何とも面白い。あんたはもっと独語がしゃべれる筈だなど言われると、お世辞でも自信が付いてくる。妙なものだ。

やっと8時半頃食事になった。腹は減っていたが、まずかった。食事はだんだん悪くなる一方である。窓の外はいつまでも明るい。とうとうハバロフスク時間で夜の12時になった。やはり、窓の外は明るい。雲が切れた。下が見える。相当高い山々と思われる真っ白な山が夕日に照らされて実にみごとである。カメラで撮りたくなった。川も見える。規則的に蛇行している。氷が張っている。この飛行機はだいぶ北を飛んでいるらしい。時計をモスクワ時間に直す。まだ午後3時と言うことになる。ここで眠ってしまった。

アナウンスでびっくりして飛び起きた。第2回目の食事である。もう7時過ぎである。4時間寝たことになる。また飯が不味い。やりきれなくなって、水をくれと言ったらリンゴ水みたいなものをくれた。旨かった。結構片言ぐらいは通じる。眠気が覚めなかったし、ドイツ女性も寝ていたので、機内の散歩を我慢しているうちに着陸態勢に入ってしまった。トイレを見損なった。

降下態勢に入るやいなや右の耳が猛烈に痛くなる。その内収まったら今度は左の耳である。とにかく痛い。油汗が流れるほどである。非共産圏の飛行機はこれほどではないそうである。皆も耳を押さえていた。

そのあと、何回かのフライトで対策を発見した。鼻をつまんで、息むとバリッと音がして、耳の痛みが治まる。

着陸も2回ほど着地の際どんどんといったショックがあっただけで無事着陸した。当たり前であろうが、上手いものである。ドモジェドボ飛行場である。ここも暑い。日本より暑いだろう。9時半過ぎなのに、まだ薄明るい。ドイツのオネエチャンと一緒にターミナルビルに歩いていった。新しい建物だが、ガランとしている。

2階の待合室のトイレに入って出てくると、出迎えの人が寄ってきた。あまり期待していなかったので、ああ誰か迎えに来ているなとしか感じなかった。後で聞いたら今日は休みだそうだ。火曜日(9日)は戦勝記念日なので、日曜を振り替えて連休になっていたのでそうだ。申し訳ない。

10時頃のまだ宵闇の感じの空の下、40km離れたモスクワ市内に向かった。途中、林の中を通り過ぎ、11時過ぎホテルウクライナに着いた。入り口で部屋を決めてもらう。部屋番号は2403,つまり24階の3号室である。まあ良い部屋である。2時頃にやっと寝られた。今日はお昼頃30まで温度が上がったそうである。

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