レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)

 レニングラードに行く。モスクワからは夜行寝台列車に乗ることにした。有名な寝台特急列車「赤い矢」号である。「アンナ・カレーニナ」に出てくる列車で、乗りたかった。ソ連には似合わない、帝政ロシア時代の趣を持つ重厚かつ華麗な乗り物である。モスクワ市の東北に位置するコムソモール広場の一角にあるレニングラード駅から、レニングラード市のモスクワ駅へと出発する。隣はヤロスラブリ駅、広場の反対側にはカザンへ出発するカザン駅と、この広場には三つの駅が集まっている。どの駅名にも終着都市の名前が付いている。付け加えれば、ホテルウクライナの近くにはキエフ駅があり、ウクライナのキエフへ向かう列車が出発する。 

  

6月25日(日)

11時になる。24階の守衛であるエタージナ(おばさん)が車(リムジン)の番号を伝えに来る。ホテルの1階に降り、車を見つけ、レニングラード駅に向かう。モスクワは夜12時になっても西の方が明るい。空が暗くなく、やや赤みを帯びた青色である。しかし、この方角が正しく西かどうかは分からない。多分北から太陽は昇り、北へ沈むのだろう。駅の周りの広場は夜間照明のせいで、美しい。汽車の走る方向である北西の地平線は濃い赤色に染まっている。1155分「赤い矢」号は出発した。軟車(ファーストクラス)のコンパートメント(4人用)を一人で乗っていた。しばらく外を見ていたが、何も見えない。そのまま寝てしまった。贅沢な感じであった。


レニングラードはモスクワと違う街だった。訪れた時の季節のせいか、乾いた、カランとした風景が目の前に広がっていた。今考えると、レニングラードは北欧の都市に似ていて、モスクワこそ、どこにもない奇妙かつ猥雑な空間だったと分かる。

 

626日(月)

810分頃レニングラードのモスクワ駅に着いた。着いて感じたことは、少しさびれているようでもあり、建物が皆時代物ということ。多分モスクワより北にあるため、冬に意外に建物が傷むのではないだろうか。インツーリスト(旅行社)が迎えに来ていた。ホテルはアストリヤホテルとのこと。駅前の広場からハイヤーで大通りを通る。アチニコフ橋を渡り、ネフスキー通りを走り、旧海軍省手前で左に折れ、ニコライ一世の銅像のところで横に曲がったら、アストリヤホテルであった。有名なアストリヤホテルとはどんな所だろうと思っていたが、広場を囲む建物の一つで、ごく普通のビルだった。モスクワのウクライナホテルの方がよほど建物として変わっている。


実は、アストリアホテルの方がまともなホテルで、ウクライナホテルの方がスターリン好みの高層宮殿スタイルになっていて、モスクワ中心地を囲む庭園環状道路に面する7姉妹と呼ばれる尖塔型ビルの一つである。


このホテルは、モスクワのホテルに比べるとスケールが小さいと感じた。またビュッフェがないのには参った。食事に時間がかかってしょうがない。4階の部屋に通された。つまり6階である。建物の真ん中にある螺旋階段をぐるぐる回りながら下りる。螺旋階段の内側には金網で囲われたクラシックなエレベーターが動いている。食事をして、部屋に落ち着いたら、午前10時半。方々に電話するが、どこも出ない。やっと予定訪問先の一つに電話が通じたので、今から行って良いかと聞いたら、OK。インツーリストにタクシーを頼んだら、なかなかこない。なんと、ホテルの前をタクシーが通る。表で出て捕まえた方が早かった。

帰ってきて、電話をあちこちにかけたら、もう一件つながったが、3時ごろに再度電話しろと云うことである。昼飯を食いに行ったら、なかなか持って来ない。3時過ぎた。やむを得ず、中座して、電話する。そうしたら、20分後に行くときた。慌てて40分後にしてもらった。食事を続ける。魚のスープ(サリャンカ)は酸っぱいが美味しかった。最後の品、注文と違って、鶏の丸焼きである。もう腹は一杯だし、しかも、うんととられた。しゃくだった。

来てくれた人に、そちらを訪問したいと頼んだが、断られた。その代わり、翌日は市内案内するという。

このホテルには、米人の観光客が多い。フィンランド経由で入ってくるらしい。バアサンが多く、いただけない。たまに若いのがいると、米国の車は良いなどと言い出すから、嫌になる。日本人も少ない。今まで、3人しか会っていない。だから、日本人と見るとすぐ互いに話しかけてくる。ホテルからはロシア革命に縁の深い歴史的な場所がすぐそこに見える。プーシキンの青銅の騎士に出てくるピョートル一世のブロンズ像も近くにある。

レニングラードの気温は20もない。夜は上着を着ていても涼しい。土地の人によると雨の多い所だそうだ。意外である。

夕方キーロフ劇場にバレエを見に行った。出し物はジゼルであった。良い席だった。前から、2列目。やはり本場のバレエはすごい。8時から始まって、終わったのが、11時過ぎである。それでも明るい。10時頃休憩で外へ出たら、夕方の6時か7時頃の感じしかない。


キーロフ劇場は今のマリインスキー劇場のことである。ロシアバレエの本拠地と云ってよい。実は、この時、ジゼルというバレエで、最初にプリマが死んでしまうとは知らなかった。でも魅力に取り憑かれ、これからバレエをよく見るようになった。

帰ってきて、食堂に行ったら、閉まっていた。明るいものだから気が付かなかったが、11時過ぎである。バーに行って飲んだ。アメリカ人やら色々の人間がいる。モスクワにはない風景である。ジンフィズを飲んだ。ドル払いである。

それからホテルを出て歩き出す。ネバ川のほとりを散歩する。夜中の12時から1時頃である。川辺には色々な人がブラブラしている。日は沈んでいるが、暗くない。ちょうど日が暮れて空の色が無くなり、黒くなっていく一歩手前の状態が一晩中続くと考えたら分かりやすい。確かに空は青くない、白に青を少し足した様な風景である。これが白夜であった。川辺のベンチに恋人達が抱き合っている。いかにも西洋風である。レニングラード大の日本語科の学生に会う。片言の日本語がうまい。その内いろんなものをねだりだした。いい加減にして帰る。ホテルは閉まっていた。一瞬どうしようかと思ったが、ようやく呼び鈴を見つけ、押して中に入れてもらう。やれやれこの日は多忙であった。

   

627日(火)

10時半、案内人が迎えにくる。まず、レニングラード郊外のピョートル大帝の宮殿(ペトロ・ドバレーツ)に行く。レニングラードより船で29km。噴水が美しい。正しくは多くの噴水を配置した公園に大宮殿が付随しているといった形である。宮殿正面から階段状に降りていく水路の両側に噴水が並び、フィンランド湾に流れ込んでいく。フィンランド湾がきれいである。始めて大西洋に出会ったことになる。公園のあちこちにいろいろな仕掛けがあり、悪戯が出来るようになっている。裏に回って、仕組みを見たが、まだ第2次大戦の跡が残っていて、完全には復旧出来ていない。 

 

 

そこで、ランチを食って、町へ引き返し、ペトロパブロフスク要塞に行く。一見分からないが、島である。

要塞の寺院の尖塔はこの町のシンボルである。尖塔の先端を単身で修理した農奴は自由の身分になったと伝えられている。

   

ここは、レニングラード発祥の地で、当初こそ要塞であったが、すぐに牢獄になった。貴族の反乱で有名なデカブリスト達もここで首を吊られたという。1825年のデカブリストの乱のこと。ロシア革命史の始まり。 

ここの城壁で多くの人が裸かになって日向ぼっこをしている。何でも3月から10月の間ここで日光浴をやってるそうである。見ているとビキニスタイルがすっとワンピースを被りそのまま帰って行った。水の中に入るわけではないから、これで良いのだろう。太陽に縁の薄いこの国では、日を浴びるのは大切なことらしい。

 

この後、マルスの広場を通りエルミタージュに行く。冬の宮殿の一部に絵を収集し、それが美術館になっている。絵が多すぎて分からない。肖像画が多い。やはり印象派の絵の方がよい。それとヨーロッパの甲冑が面白かった。

        


                

このあと、レストラン「ネバ」でウオトカを飲みながら、話をする。資格のこと、教育のこと、工場のこと、スポーツのことなどを話す。良いご機嫌になっていたら、遅くなった。ホテルに帰り、荷物をまとめ、何とかというホールに行く。

たぶん今のサンクト・ペテルブルグ・フィルハーモニーホールだと思う。

作曲家ハチャトリアン自身の演奏で、「ガイーヌ」等を聞く。滅多にない出会いである。アンコールに「剣の舞」をやる。それから飛び出し、急ぎモスクワ駅に行く。待っていた列車は一等車ではない。契約違反だ。けしからん。もっとも疲れてすぐ寝入ってしまった。


628日(水)

7時頃目を覚ました。いや覚まされた。モスクワのレニングラード駅に着いたのである。駅前でなかなかタクシーを止められない。ようやく見つけ、ウクライナホテルへ帰る。朝帰りは良い気分である。

レニングラードへは、この後にも行っている。しかし、何も記録が残っていない。最初の訪問の記憶が強烈だったことと、数多くのヨーロッパの町を訪ねたあとでは、印象が薄れてしまったためだろう。つまり、レニングラードは、曲がりなりにも、初めて見たヨーロッパ型都市だったと言える。現在サンクト・ペテルブルグと、帝政ロシア時代の名前に戻っているが、いかにも泥臭いイメージで、レニングラードの方が語感がよいと今でも思う。もっとも革命家レーニンの時代をもっと知れば、そうはいかないかも知れない。


 

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