モスクワ通信
形の上では、ソ連に観光客として入国したが、本職は短期駐在員である。現地の商社を通して、当局から商談、講習、サービスの要請が来る。しかし要請の頻度は低い。時間はたっぷりあるから、伝手を頼って、調査・売り込みをしようとした。そうは言っても、ガードの堅いソ連のことだから、ほとんど空振りだった。結果として、一般の観光客として過ごすことになり、ソ連の表向きの顔だけ見せて貰ったことになる。3ヶ月の駐在予定が7ヶ月に伸びたお陰で、何となく不気味で、ゾクゾクとする緊張感だけは充分味わった。この間の報告書、手紙類を編集して、モスクワ通信としてまとめた。
5月9日(火) (ホテル「ウクライナ」)
朝は明るくて目が覚めた。8時半頃になった。腹が減ってしょうがないので、ビュッフェ(軽食堂)に行く決心をする。しかし、ホテルの中で、ビュッフェを探すのは簡単ではない。まず、階段は使用禁止で、エレベータしか使えないのに、エレベータは1階から9階用とそれ以上階用の2種類に別れている。自分の部屋は24階なので、下に行くためには、いちいちエレベータを乗り継がなくてならないのが厄介。あちこち探して、ようやく3階にビュッフェが有るのを発見。目玉焼き、紅茶、パンを注文する。たしか57カペイク(200円位)払った。ここまでできた。次にロシア語の地図を探したが、そんなものはないと云われた。
今振り返れば、なにをどうして良いのか分からない状況であったことがよくわかるが、緊張しまくっていたらしい。共産圏では、地図を入手できないのが当たり前と云うことも、そのうち分かった。当然電話帳もない。
このあと、商社の人に誘われ、レニングラードスカヤホテルの前を通って、ソコリニキ公園に行く。ここで開かれる見本市の下見である。公園には遊園地などがあり、大勢の人がいた。新緑のころで、美しい。しかし、この日は暑く、完全に夏である。この天気は珍しく、すぐに温度が下がるだろうと聞いた。ランチを公園の中のレストランで食べたが、とにかく混んでいる。日本の盛り場と変わりない。行列して待つ。シャシュリクという串焼き肉を食べ、スープを飲む。肉がドサッと胃に居座ったようで、げっそりした。レモネードは旨かったが、ロシア料理に馴れるのも大変。公園には、水たまり(池?)があって、皆飛び込んで泳いでいる。汚い水たまりなのに。ここらでシャツを着ているのは、我々ぐらいなもの。写真は撮りにくい。女だけなら大丈夫だが、男がいるとからまれるそうだ。
しばらく暑いところをブラブラしてから、ホテルに戻り、1階にあるインツーリスト(国立旅行社)に行ったが、休みで食事のクーポンは貰えなかった。パスポートも返して貰えなかった。やむをえず、部屋に帰ってベッドにひっくり返ってみても、なかなか眠れない。又起き出して日誌を付け始める。思いついて、一階まで降り、はがき6枚と切手を買った。全部で92カペイク(368円)。
夜8時頃商社の人から電話があり、ディナーを食べに行こうということで、一階のレストランに行った。なかなか派手な所だが、席がない。給仕頭が席を探してくれた。外国人優先である。一人のロシア人が来て強引に同席しようとして、つまみ出された。何でも日本人と一緒に食事するのは遠慮すべきであるとか、給仕頭が言っていたようっだ。だいぶ争っていたが、出て行った。この食事もどうにか食べられたが、この分ではレストランの料理にすぐ飽きそうで、自炊をしなければならなくなるかもしれない。
あまり、暑いので、前のモスクワ川のほとりで涼む。いい気分だった。ここから見るとホテルは全く妙な建物である。まあ日本にはない。時計を見たら10時過ぎだったが、どうせ朝は早くから目が覚めるのだから早く寝るべしと部屋に戻る。それでも寝たのは11時半頃。
5月10日(水)
今朝は6時に目が覚めた。まだそれほど明るくない。良い天気ではないらしい。もう少し寝ようかと思ったが、駄目だったので、やむをえず、日誌を書くことにした。
9時頃下におり、7階のビュッフェで朝食を取る。65カペイク(260円)なのに1ルーブル(400円)クーポンのおつりを寄こさない。二倍取られたと憤慨したものの、喋れないのでどうすることもできない。1階に降り、インツーリストからホテルと食事のクーポンを貰い、パスポートも返して貰う。地図はやはりなかった。
夜8時半頃ホテルのレストランに行く。いわゆるフルコースがどのぐらいの時間がかかるか、実験しようとしたわけである。なるほど時間がかかる、2時間半かかった。注文は10分ぐらいで済んだが、オードブル、ウクライナボルシチ(美味しいスープ)が出てくるまで30分、次のビフテキ(肉のカタマリ)まで30分、デザートのアイスクリーム(マロージナ)まで30分、金を支払うのに30分かかった。何しろロシア人でさえ我慢できなくなって立ち上がるのだから、たいしたものだ。3ルーブルもした。これは考えてみると1200円であるから安いものである。もっとも途中で料理を待ちくたびれ、眠くなってしまった。
このホテルウクライナは、当時のモスクワでは一流で、日本の帝国ホテルみたいものである。したがって、レストランも宴会用で、本来一人で食べに行くところではない。一応、旨いものも揃っている。但し野菜類はあまりない。ただし、給仕人は全て、国家公務員なので、サービス精神は持ち合わせていない。
5月11日(木)
約束してあったK研究所からの迎えの車に乗った。クレムリンを通過したことは確かだが、到着した場所は分からなかった。K研究所は緑の多い、きれいなところで、建物は古いが、その他は日本の研究所とあまり変わりない。入り口にはゲートがあって、すべての人間が身分証明書を提出して入る。私もパスポートの提出を求められ、身分を確認の上パスポートを返してもらい、小さな通過証を貰った。なるほど、研究所の人に会うのは大変であることが分かる。研究所の人数は聞いてもわからないようである。
5月12日(金)
10時半頃K研究所から迎えが来る。手違いで遅くなったらしい。
午後1時半頃ホテルウクライナへ帰る。行きも帰りもクレムリンの横を通る。この辺にくると日本とは違う感じである。きれいである。
このあと、商社の人と貿易省へ行って、帰りは一人でホテルへ歩いて帰った。ホテルが見えているのになかなか着かず、25分位かかった。モスクワは建物が大きく、道幅も広いので、近いようで実は遠い。
夜、チャイコフスキーコンサートホールでモセイエフ舞踊団の公演を見た。9時に終わった。「モスクワの星」と呼ぶ芸術週間(一年に2回)の催し物の一つとして、公演が行われたもの。素晴らしい。日本の踊り子に較べ、雲泥の差がある。ピタッと形が決まる。男は白いシャツに黒、女は黒のユニフォーム、シンプルで美しい。
途中の休憩では混んで夕食を取れなかったので、終わってから北京ホテルへ移動し、夕食を取った。中華料理で米飯も出た。しかし、似て非なる中華料理、食べられるものじゃない。ボルシチの方がまし。ピーボ(ビール)も飲んだ。苦いだけ。それでも少し酔ったかな。
5月13日(土)
午後食料品のドルコーナーに行った。食料品は皆揃っている。また少し手前にベリョースカ(食料品以外のドル専用ショップ)があったので、琥珀を探したが、よい色がない。毛皮のコートがほしくなった。ついでにケントのたばこを買った。10個1.7ルーブル(680円)で、これは外交官並の扱いで、ハイライトより安いことになる。
夜ホテル・ナチオナルのドルコーナーへ行き、ウオッカを飲む。冷えていて水みたいに旨い。うっかりするとガボガボ飲んでしまう。
ホテルの前はクレムリンで、尖塔の上の「赤い星」が光っているのはやはり印象的だった。
5月14日(日)
お昼からモスクワの郊外をドライブ、それからクレムリンにも行った。赤の広場にいると、外国にいるということを実感する。警官が整理していて、勝手に歩けないのはつまらない。
例のレーニン廟の前には長い長い見物の行列ができている。その列を無視して一番前に割り込み、レーニンの顔を見に行く。衛兵が「立ち止まるな」と追い立てる。
ライトの加減か、レーニンの顔が生き生きとして見える。割り込むのは外国人の特権だそうで、割り込んでも、何の文句もでない。
それからクレムリンの壁に収まっている、事故で死んだ宇宙飛行士のコマロフの墓を見に行った。花が置いてあった。葬儀のときには皆泣いたそうだ。
今いる部屋は24階で、畳10帖の広さの部屋にどっしりした机、ソファー、ベット付きで、入口の控えの間は2帖ぐらい、隣に4帖半ぐらいの部屋があり、風呂、トイレ、洗面所がある。
このホテルの欠点は、エレベータ以外使えないことで、一階上がるにもエレベータを使わなくてはならず、うんざりする(階段を使えないのは、監視の都合らしい)。
5月15日(月)
9時過ぎにK研究所の迎えの車が来る。いつものように研究所の中に入る。
帰り研究所の車で帰る途中、運転手のゲナーはわざわざ遠回りして、モスクワ大学の前を通ってくれた。
キエフ駅のところで警官に引き留められた。よくわからないが、通してくれた。車を降りるとき、運転手にチョコレートとガムを渡そうとしたら、要らないと云われたが、置いてきた。よかったのか、悪かったのか。
キエフ駅からキエフ行きの列車が出ている。ソ連ではそれぞれ終着駅別に駅がある。たとえば、レニングラード駅というと、それはレニングラード行きの列車が出るところである。また、駅の場所も分散している。キエフ駅はホテルウクライナの近くにある(と云っても徒歩20分位)。キエフ駅の近所にはまだ古い建物が在り、ロシア時代を想像させる。メトロのキエフ駅も同じ所にある。
5月16日(火)
午前中モスクワ大学に電話がかからず、ようやく11時過ぎやっと担当者に連絡が取れた。11時半モスクワ大学に着いた。
建物へどう行くのか分からなかったが、A棟だそうだ。受付にはすでに話がついていたようで、さっと案内してくれる。1時半頃ランチを食べる。クワス(冷たいアルコール抜きのビール)とビフテキ(小山のようである)を食べた後、ミカン水みたいものが出た(後でコンポートと呼ぶことがわかった)。
この後、ニーナという人懐っこい若い女性から機械の調子を見てくれと頼まれた。彼女は前任者の「オカシイナ」と言う日本語を覚えていると云われて苦笑した。
3時過ぎに帰ることにして、タクシーかバスで帰れと言うのを振り切って、メトロ(地下鉄)まで歩いた。有名なメトロにいよいよ乗るというわけ。なるほどエスカレーターは深い。乗るとき、ちょっと早いと思うが、乗ってしまうと遅く感じる。左側は歩く人(走る人)のために空いているはずだが、満員で一杯。
メトロの大学駅からパーク・クルトゥール駅で環状線に乗り換え、キエフ駅に行く。この路線はいったん地上に出て、又潜ることになっているようだ。メトロ(地下鉄)はモスクワ川のところで地上に出る。川のほとりで、大勢の人が泳いでいるのが見える。キエフ駅から、マルシルートノエタクシー(乗り合いタクシー)で、ウクライナホテルへ帰った。
地下鉄の駅はもっと大きいと思っていたが、それほどでもなかった。又、綺麗だと聞いていたが、それもなるほどという程度だった。電車は多少日本のとは違うが、でも前に座っているのがどうしてロシア人なのが不思議なぐらい日本の電車と似ている。乗ってみればどうということはない。
今振り返ると、メトロに乗る位で、こんなに気負うこともないのにと思うが、当時はびびっていたらしい。駅毎に装飾デザインが変わるのは楽しい。
シャワーを浴びて(水しか出なかった)、夜になって商社の人たちとメトロポール・ホテルのカフェ(名前はバラライカ)みたいな所に乗り込み、コニャックを飲み始め、隣の席の3人連れのフィンランドの女の子を皆でくどき始めた。一人は何とかなりそうだったが、後の二人はだめらしい。面白そうなので、黙って見ていたが、結局は皆振られたらしい。
カフェ「バラライカ」でバラライカの演奏を聞いた。バラライカはマンドリンみたいな楽器。買って帰ろうか。
バラライカを日本に持ち帰った。弦が鉄線のため、指が痛くて弾けない。そのうち弦が切れて触らなくなり、いつの間にか楽器が行方不明になった。
5月18日(木)
商社の人から、この間「バラライカ」で会った女の子に来るように言ってあるから、つきあえと言われ、8時過ぎサロンで待っていたら、二人やってきた。どちらもものすごいショートスカート。片方は24才,もう一人は21才。若い方に人気が集まり、日本側は5,6人の男の子が集まった。
夜12時頃エタージナ(階の女性管理人)がそろそろやめろといってきたが、皆酔っている。コニャックとワインとウイスキーをチャンポンで飲んでいる。私はとうとう夕食にあぶれた。24歳の方を一緒に送っていったが、21才の方は別グループで送っていった。なかなか帰らず、心配になった。
5月19日(金)
一人でK研究所へ行く決心をしたが、電話が通じない。というか何を云っているのか、さっぱり分からない。「1時」というのを聞きつけて、午後1時頃電話するも相変わらず、担当者が捕まらない。これはだめだと思って商社から電話してもらう。今度は責任者がいたらしい。タクシーで研究所へ行ったら、今回はカメラを持っているか聞かれた。かなりうるさい。
タクシー代は研究所までは約90カペイクで1ルーブル(400円)払った。モスクワ大学へ行くにも、白タクで1ルーブル(まともでも90カペイクかかるでしょう)位である。
帰りは研究所の運転手が遠回りをしてくれて、モスクワ河に沿って走った。やや日の傾いた町を、クレムリンを通ってモスクワ河に沿い、レーニンスタディアムを通り、ウクライナホテルへ帰っていくのは楽しい。ずいぶんサービスしてくれる。ボリショイハラショー、スパシーボといって別れた。
一人で、ホテル内にあるもう一つのレストランに行ってみた。なるほどこのレストランは評判通り、空いていた。その後、キエフ駅まで裏道を散歩した。古いソ連、ロシアの建物がある。
随分壊れている。写真を撮りたかったが、撮るのは一人ではちょっと危険のようで止めた。キエフ駅よりホテルまでのんびり歩いて20分掛かる。駅からホテルは見えるのに遠い。
今日も終わり、モスクワに着いてから10日過ぎた。
モスクワの第一印象は、間違いなくアジアではないということだった。しかし、ヨーロッパの町でもない。なんと言っても、ネギ坊主の塔を持つ寺院が特徴的である。ただし、住んでいる人はヨーロッパの町と思っている。当時のモスクワは広大な領地を持つソ連の首都だったから、色々な人種が集まっていた。独特な民 族衣装のウズベク人、ひげが自慢のグルジア人、留学生エリートのアフリカ系が目に付いた。
ロシア人自体はどうも2種類に分かれているように思えた。スラブ系と北欧系である。圧倒的にスラブ系が多く、百人に一人位が北欧系である。何処が違うかと云えば、20才を過ぎて、太るか、太らないかである。太ればスラブ系である。マンガで風船みたいな胴体に針金のような足が二本付いている人物が登場することがあるが、本当に存在することを確認した。やはり足に負担がかかるのか、足首に包帯を巻いているオバサンをよく見かけた。
5月20日(土)
大学へタクシーででかける。割に簡単に着く。だいたい93カペイクの料金だったが、1ルーブルやる。K研究所へ行くのと同じぐらい距離ということになる。
今、責任者のサーシャに会った。思っていたよりずっと若い。月曜日にはモスクワ大学を案内すると言っていた。何でもウクライナ西部、ハンガリーの近くの所へ2週間ぐらい行っていて、やっと戻ってきたところらしい。ビノ(ぶどう酒)を飲まされた。あの大きめのコップに3杯である。アルコール分は10%である。後になって効いてきて、参った。
4時に終わりにして、バスで帰る。119番である。キエフ駅まで来てそこから歩いて帰った。頭が痛い。ブドウ酒を飲みながら仕事をするからだ。キエフ駅から裏道を通り、ウクライナホテルに帰る途中、造りかけの住宅やら古いソ連の汚い建物が混在しているのを見る。
デジュールナヤ(階の番人のおばさん)が洗濯をしてくれた。Yシャツ、スポーツシャツ、夏下着一式、ハンケチ、小タオル、靴下4足計2ルーブルである。高いのか安いのか分からない。
靴下は自分で洗った方が良さそうである。雨が降って雷が鳴った。珍しいことである。少しは涼しくなるだろうか。この暑さは異例だそうだ。
5月21日(日)
見本市を見に、キエフ駅よりメトロでソコリニキ公園へ行く。途中の地下鉄の乗り換えが分からず、もたもたする。ソコリニキはとにかく暑い。見本市会場の正面にソ連館がある。ソ連館の後ろはスエーデンとフィンランド、その後ろに日本館がある。思ったより小さい。食品見本市のはずだが 場違いな出品物が出ている。しかし、見本市の名称などどうでもよく、出品した方が勝ちという感じがする。
クレムリンをモスクワの中心とすれば、ソコリニキ公園は、ホテルウクライナからクレムリンを通り越して、市の反対側にある大きな公園で、見本市会場がある。当時、娯楽の少ないせいもあり、どんな見本市でも大繁盛で、いつも人だかりがしていた。
ホテルに帰り、夕食を食べに下に降りた。ブッフェ(コーヒーショップみたいな軽食堂)で合い席になった人がなんと90才のアメリカ人である。一人で欧州全部回るのだそうだ。エライものだ。旅行が好きなのだそうだ。でも自分の国が一番良いといっていた。
5月23日(火)
市の中心から離れたところに、レーニン丘(今は、旧名の雀が丘に戻ったとか)と呼ばれる高台がある。1812年にロシアに攻め込んだナポレオンがモスクワ市街を遠望した場所である。そこに建てられたスターリン様式の宮殿まがいの建物がモスクワ大学である。
このところ忙しいような暇なような日が続いている。ちょくちょくモスクワ大学へ行っている。大学の中を案内してもらった。今居る研究棟は去年(’66)にできたばかりとのこと。そのあと化学、物理と生物の研究棟を見てから、中央棟の本校舎(数学、学生の住居)へ行った。中を説明したあと、28階に行き、そこからモスクワ市街を見下ろすようにして、眺めた。テレビ塔(550m)を除けば、モスクワ市内で一番高いところだそうだ。想像通りの眺めなので、びっくりはしない。
28階は鉱石陳列場だった。16階におり、階段教室を見てから1階に降りた。講堂もそれほど大きくはなかった。半地下に体操練習場と屋内水泳プールがある。プールは18−20℃ぐらいに温度調節がされているそうで、設備が整っているのが羨ましかった。中央棟建物の4隅にまた別の建物が付いている。それは学生の宿舎だそうだ。約3、000〜5、000人は住んでいるとのことである。乳母車が沢山ある。子供も遊んでいる。郵便局もあれば、映画館もある。小都市である。話によると大分風紀は乱れているとのことであるが、本当かどうか分からない。
大学の建物群よりも、大学から地下鉄のレーニン丘駅に出る道の方がずっと好きだ。緑の中を歩いていると云った感じ。公園の中みたい(実際にレーニン丘公園だけれども)。
5月25日(木)
モスクワ大学に行ってみると、ニーナしかいない。
今日は他の研究室が見たいのだと言ったら、それなら、ニーナが案内してやると言って、廻ってくれた。暑いと思って上着を着てこなかったのに、急に涼しくなり、寒くなったので、帰ることにした。
しかし、モスクワは暑い所だ。毎日28〜30℃にもなる。しかも朝は4時ごろから、夜は9時頃まで明るい。毎日汗たらたらである。聞いたら毎年このぐらいだそうだ。冬は-40℃になるらしい。とにかく8月にはいると暖房が入り、9月には雪が降るということらしい。とても今は想像できない。
それにしても、ロシア語の通じないのには閉口する。ついに意を決して、ロシア語の先生を頼んだ。週2回で一ヶ月一万8千円かかる。たいして覚えないだろうが、なにもしないよりましだ。
健康状態は良い。食べ物も問題ない。たまにラーメンと米飯に有り付くと変な感じ。地下鉄は大して豪勢ではないが、駅と駅の距離はわりと長い。物価もそれほど高いと思われない。朝食が400円ぐらい、夕食が1500円位だが、日本でもホテル暮らしならそんなものだろう。商社の人は結婚して2ヶ月目に来て、一年になり、更にもう一年延長の話さえ出ているが、留守中に子供ができたそうで、帰りたがっている。それに比べれば、どうということもない。
5月26日(金)
ソコリニキ公園に行くことにする。この日朝から曇っていたが、ソコリニキ公園駅に着くと,どしゃ降りであった。やむを得ず、旅行用ポータブルレインコートを出し、着ると、回りの連中が珍しそうに、見ている。もっとも、このレインコートには穴があいている。安っぽいものだ。会場に着いたら止んだので、脱いで日本館にいく。雨模様なのに、日本館の入り口は人がひしめいている。まわりでヤポーニャと言っている声が聞こえる。
帰り道のすぐそばにお寺があったので、寄った。この寺は生きている寺で、中にはいると方々にお灯明が上がっていた、すごくきれいだった。この寺に入る前、外側から写真を撮っていたら一人のロシア人が寄ってきて、中を案内してやると云うことだった(言葉が分からないので、そう云ったと考えただけ)。一生懸命にロシア語で説明してくれる。三分の一ぐらいしか解らない。写真を撮っても良いと云っているらしいので、撮っていたら、後ろに居た神父さんらしい人が私を捕まえてキリストの説明をしてくれる。
神父さんから十字の切り方を習い、胸に下げる十字架をもらった。祝福してくれた。そこを出ても変な奴は付いてきて、お前の絵を描きたいから十分ぐらいつきあえと云う。寺の横のベンチで座って話をする。いろいろなことを片言のロシア語と身振り手振りで話した。ボールペンをやったら、喜んでお礼をするというので、お寺のスケッチを描いて貰うことにした。
ソ連では宗教が認められていなかったが、少数の教会は生きていた。その一つがソコリニキ公園へと続く道路のわきにあったということ。
その後トレチャコフ美術館(世界的に有名)を案内してやるというので、一緒に行く。急いで、メトロで行き、6時頃着いた。それぞれの絵の前で一生懸命説明してくれるのだが、ちっとも解らない。ものすごく肖像画が多い。思ったほど、感心した絵はなかったが、革命の国らしく割合残酷な絵が多かった。パルチザンが独逸兵に首を吊られるところや、ツアーが首切り台のところにいるなどの絵がある。風景画もあるが、それほど多くない。レーピンの有名な絵があった。
トレチャコフ美術館を出たのは、夜8時半頃、その後、家に来いと言われて考えてしまった。多少冒険のつもりで承知した。クレムリンの横から5番のバスに乗り、15分ぐらいか。ディナモ(サッカー場)の近くということだが、どこだかよく分からない。町外れの彼(ユーリー・コズロフと云う)の家に行って驚いた。建物は木造の化け物屋敷みたい。階段を10段ぐらい上がったところに玄関のドアがあるが、真っ暗で何がなんだか解らない。中に入る。彼の部屋は大きさ3畳位、ベッドと机で部屋全部を占領している。窓はない。絵が好きらしく、壁にすべて絵が貼ってある。
ベッドは粗末なもので、ぼろぼろの袋の生地みたいものが敷いてある。黒パンの固まりが放り出してある。魚(なんだか不明)をそのまま、ネギみたいものと一緒に酢のものにしてあるようだ。うどんの固まったみたいなものをいためて持ってきた。とても食う気にはなれない。お茶を一口飲んで退散することにする。
とにかく「さよなら(ダスビダーニャ)」と飛び出したものの、帰り道が解らない。えいと思い、通りかかりの人に聞いてみる。バスしか手段はないそうである。とにかくバスに乗ることにする。さて、バスをどこで降りるのか不明である。となりでバス待ちの人に聞く。三つ目といった。本当は四つ目のバス停であった。メトロでキエフ駅まで来て、あとは歩いて帰った。やっとの思いでホテルに着いたら夜10時過ぎだった。もうビュッフェはない。レストランで食う。やはり1時間半かかった。部屋に戻ったのは、夜中12時10分前で急いで、風呂(少しぬるい)に入り、寝た。奇妙な一日だった。
実のところ、ホテルに戻り、レストランで旨いものを食べて、やっと人心地がついた。やっぱりロシアの下層階級はとてもひどい。ついて行けない。しかしきわめて陽気で、本当に生活を楽しんでいるのは、日本人よりロシア人かもしれない。パチンコや麻雀で過ごしている日本人より公園で遊んでいるロシア人のほうが少なくとも健康的である。これも一つの経験だが、中々スリルもあり、興味もある。同じ人間といっても違いがあるのは当然だが、こんな暮らしをしていても、暗さがゼロである。見上げたものである。この次は中流の家庭にいって見たいがチャンスはあるかどうか。
5月28日(日)
モスクワの観光の目玉はなんと言ってもクレムリンである。アジアでもヨーロッパでもない雰囲気は独特なものである。
今朝10時頃まで寝ていた。寝過ごしたようで、調子がおかしい。今日はクレムリンを回り直して、グム(国立百貨店)で買い物のつもりだったので、メトロで出かける。レーニン図書館前で降り、歩き出す。クレムリンのボロビッツ塔入口から中にはいる。すぐとなりが武器庫(宝物殿)なので、入口を探す。人口には守衛のオバサンが頑張っていて、中に入れてくれない。
えいと思って「入れてくれるか」と何語ともつかない言葉で頼むと入れてくれた。なまじっか言葉が分からないだけ、さっさと入れてくれる。都合がよい。中に入ってもどこが宝物殿か解らない。英語で受付らしいところに聞く。30カペイク取られ、入口に案内してくれた。
歴代のツアーの衣装やイコン(聖像のこと)、馬具などが並んでいる。感心もしないが派手なものである。ヨーロッパ人のごてごてと飾りたがる本質が解るような気がする。1階を追い立てられて、2階に行く。例のヨーロッパの騎士の着る甲冑がある。ヨーロッパに来た気分になった。ここも時間で追い出された。どうも1日のうち何回かに分けて見せるらしい。私は勝手に飛び込んだことになる。
次、お寺参りをすること にする。アルハンゲリスキー寺院、ブラゴジェンシー寺院にはいる(5カペイク)。どんなに中がすばらしいかと入ってみると、ざらざらの壁の上に極彩色の絵 (フレスコ)が描いてある。何か毒々しい。近寄ると、汚い。中も狭い。もっと広々としているかと思った。よほどソコリニキ公園の寺の方が良い。アルハンゲ リスキー寺院の中は石棺だらけで歴代ツアーの遺体が入っているらしい。急に臭いがしてくるような気がした。ウスペンスキー寺院は閉まっていた。
クレムリンを出て、赤の 広場へ行く。まず聖ヴァシリー寺院にいく。20カペイクも取られた。これもたいしたことないだろうと思ったが、中は複雑である。真ん中に突き抜けて高い天井を持つ部屋があり、周りに小さな礼拝堂(?)が4つあり、廊下でつながっている。礼拝堂の後ろにも人一人やっと通れる通路がある。2階に行く通路も狭 く、一人で夜中に通ったらそれこそ映画の中世の場面に出てきそうである。ちょっとおもしろい。
それから処刑台(ステンカ・ラージンが首を切られたところ)を覗いてグムへいった。ところが休みであった。しょうがないので、ゴーリキー通りに出て、歩くことにする。この日はよく晴れて、前日のどんよりした気分はなく、よく乾燥し、気温も20℃以下である。日陰に入ると肌寒い。日本の晩秋の気持ちの良い日といった感じで去る。それにしてもよく天気が変わる。
ゴーリキー通りの途中革命博物館による。たいしたことないが、スターリンが出て来ないのが印象的である。レーニンはいやになるほど出てくる。メトロでキエフ駅に帰った。レスストランで食事をする。3ルーブル80カペイクもかかった。
5月29日(月)
11時過ぎ大学へ行った。ニーナと話をしただけで、ホテルに戻った。部屋で待っていたが、とうとうロシア語の先生は来なかった。後から忘れたと云ってきた。しょうがない。よく晴れている。日向は暖かい。気温は15℃ぐらいか。
5月30日(火)
12時にオクチャブリスカヤ広場で、日本で知り合ったロシア人と待ち合わせることになった。まだ約束の時間に間があったので、オクチャブリスカヤ駅からゴーリキー公園まで散歩した。
ゴーリキー公園は、町の中の公園なので騒がしい。その分、人がぞろぞろ居る。
英語をしゃべる人間がドルを2ルーブルで買うと寄ってきた。公園の中でおばちゃんに捕まり、何か要求しているのだが、無視して歩く。この辺は程度が悪い。公園から引き返したら、約束した時間になっていて、彼に出会えた。近くのワルシャワホテルへ入って、昼食を取る。9時半に食事をした後なので、あまり入らない。最初のレバーを細かくした料理は旨かった。
彼に、言葉が通じないとこぼしたところ、ウクライナホテルの324室にナターシャ(またはイシコさん)という人がいて、ロシア語がぺらぺらである。連絡を取ってみろと教えてくれたが、後で調べたらナターシャさんは競合企業の娘さんで、ちょっと具合が悪い。
それから彼の研究室へいった。研究室はたいしたものではなかったが、大勢の人がいる。そのあと、トロリーバス、メトロで帰った。
帰ってきて、夕方、晩飯を食いに下のビュッフェに行ったらオバチャンが生のキュウリとトマト(直径3cm)を出してくれた。ものすごく旨かった。やはりこちらは生野菜が不足しています。何しろキュウリ一本200円近くする。
今9時半である。やっと夜になる。9時に日が沈んだ。これが、6月中旬には夜は10時から始まり、朝は1時半頃から白み出すらしい。この前暑いと書いたが暫く前から曇り時々雨の日が続き、やっと晴れたと思ったら風が吹いて気温は15〜16℃ぐらいしかない。日本の秋である。コートを着ている人がかなり見受けられる。これが本当のモスクワの夏かも知れない。今ホテルの庭に立っていた。庭というより公園である。赤の歩道にグリーンの芝生があり詩人タラス・シェフチェンコの記念碑が建っており、前をモスクワ川が流れ、西の方は明るく、空は澄み、星が一つ見える。地平線がはるか彼方まで見える。全く絵のようである。市内を歩かなくても、これで満足できる。
シェフチェンコはウクライナの詩人で画家。
5月31日(水)
朝10時過ぎ下に降りてタクシー探しをしていたら、K研究所の運転手が現れた。リジアも中にいたので、一緒に研究所に行く。1日過ごした。
昼食のとき野菜の酢の物がでた。旨かった。
6月2日(金)
夕方になり、シェレメチボ飛行場に別送荷物を取りに行く。途中の風景が良い。ソホーズかコルホーズであろう。丘が続き、森があり、一面に草が広がっている。
飛行場はあっさりしたものであった。あまり大きいとも思えないが、中型飛行機が20台位置いてある。気取っていない感じである。割に簡単に荷物が取れた。だが、迎えに行ったお客さんは飛行機が明日に延着して来ないことになった。
シェレメチボ空港は、今でこそ、ロシアの体表的な国際空港だが、当時は田舎っぽい空港としか思えなかった。空港付近は撮影禁止なので、写真は1枚もない。
6月3日(土)
大学で昼をご馳走になって、3時頃帰る。レーニン丘を降り、モスクワ川のほとりを歩き、ノボデービチー修道院に行く。ここはお墓である。案外日本のお墓に近い。しかし、派手である。お墓には、故人の彫像か、写真がかならず飾ってある。英雄の墓も立派である。その奥に修道院がある。しかし、外から見た方がきれいである。
モスクワ川が市内から大きく迂回している地区で、モスクワ大学の対岸に当たるところに、ノボデビチー修道院がある。墓地として名が通っていいて、有名人の墓がたくさんある。もっとも知っている名前の墓は一個所も見つけられなかった。今では日本語の案内図があるそうだ。日本と違って、どの墓にも個人の肖像や写真が貼り付けられている。このあと、修道院の方に廻る。池があり、城壁が絵のように美しい。
大分疲れたが、市内に引き返してグム(百貨店)に行くことにする。なかなか電気製品の売り場が見つからない。やっとの思いで見つけたが、今度は適当な湯沸かしがない。220V用はある(7ルーブル)。交渉するが、さっぱり通じない。とうとう疲れて、あきらめて帰ってきた。もう水で我慢する。
6月4日(日)
ベーデーエヌハー(VDNX)という所に行った。国民経済博覧会という意味だが、ソ連で一流のものを集めて、これだけのものがソ連にあると展示する所である。最初見当がつかず、もたもたしたが、会場遊覧電車に乗り込み、場内を一周する。石の花、金の巨像といった名前のある噴水はきれいだった。青や赤や金色の石から作った石の花は本当に石の花である。金の巨像というのは、金色の大きな葉っぱの形をしている。電車を降りて、石の花まで戻りながらあちこち覗く。どうしても宇宙館が見つからない。また会場の入り口まで戻り、あるき直す。やっと見当がついたが、休館らしい。近くにロケットが天高く飛んでいく銅像がそびえたち、やけに目についた。何でもチタン製とのこと。途方もない費用がかかったとか。
最初何故このような博覧展示場があるのか理解できなかったが、見ている内に多民族国家であるソ連の偉大さを誇示する見せ場と納得した。ソ連版万博と云ってよいが、レベルは違う。
この辺で完全に草臥れたが、パンとウインナソーセージをかじりながら、歩き、トイレを見つけ、アイスクリームをなめ、名物のパノラマ館にたどり着く。6時20分からのを見ることにする。それまでイスに座っていた。うっかりすると寝てしまいそうである。パノラマ館はつまり、円形の建物で、その中で前後左右に映画が映るわけだが、実際には、12枚のスクリーンを壁に貼り、映写機はスクリーンとスクリーンの間から対面のスクリーンに投影する仕掛けである。12のカメラで写したものを12のスクリーンに写す。映写はスクリーンとスクリーンのあいだからする。従って、スクリーンとスクリーンの間に隙間がある。次のスクリーンと少し上下が違っても気にしないらしい。ソ連らしい。モスクワ市内を写した映画で終わった。VDNXからメトロでキエフに帰る。疲れた。
6月6日(火)
朝リジアのところに電話して、11時頃行くことにした。クールスカヤ駅を出て、歩いて行った。いつもの入り口に行き、受付にパスポートを出すとなんとかかんとか言って、例の四角い許可証を呉れない。リジアに電話したらしいが、それっきり。暫くしたら、リジアが外から入ってきた。もう少しで中へ行ってしまうところを捕まえた。すぐ手に持っていたタイプしたものを受付に出した。すると許可証を呉れた。どうも受付に私の名前が登録してあってその期限が切れていたらしい。それを更に延長したらしい。5時半頃帰った。
迎えが来ているときは問題ないが、こっちから押しかけていくと、面倒なことが起きて、なかなか中に入れない。ガードの固い国である。
6月7日(水)
ホテルの滞在延長の手続きをするために朝からインツーリストに行く。インツーリストでは本部へ電話するも、ものすごくかかりにくい。何でも外線は一本なのだそうだ。ソ連での電話のかかりにくさにはびっくりする。下手すると半日電話のダイヤルを回していることになりかねない。やっと確認が取れて、19日まで@13.50ドルで計162ドル払った。手数料30カペイク取られた。なるほどインツーリスト相手の仕事は大変である。
インツーリストはソ連唯一の旅行代理店で、ここを通さないと何もできない。もっとも行けるところは限られている。担当のお姉さんは最初はぶっきらぼうだったが、慣れたら冗談が出るようになった。
夕方7階のブッフェに行く。今日は3食ここで食った。
6月9日(金)
音楽会に行った。夕方チャイコフスキーコンセルバトーリホールにイゴーリ・オイストラッフ(ダビッド・オイストラッフの息子)のベートーベンのヴァイオリン協奏曲を聴いてきた。中々よかった。久しぶりに気持ちが良かった。これから、少し音楽会を探して、歩くことにしようかと思っている。雨だったが、帰るときにはやんだ。10時近くになってもまだ明るい。
チャイコフスキーホールという名前はすばらしいが、大したホールには見えなかった。
6月10日(土)
さっき日が沈んだ。午後9時半である。今10時である。やっと夜になった。天候といえば、モスクワに来たときは30℃近くあって暑かったのが、一時は寒いほどであり、最近は日本で云えば、秋の気候である。しかし、こんなに、雨が多いとは知らなかった。ヨーロッパなんて全然雨が降らないかと思っていたら、日本並みだった。一時は吹雪のように飛んでいたドロヤナギの花も雨が降ると全くなくなる。それでも晴れるとまた飛んでくる。花粉症の人がいたら堪らないだろうと思う。町は塵一つ無いというわけではないが、よくあちこちで清掃車が走っているのにお目にかかる。
ロシアの建物はロシア人そっくりだ。遠くから見るときらびやかで、派手にきれいだが、近寄ってみると建物のコンクリートやレンガがざらざらだ。ちょっと幻滅した。夕方(といっても9時過ぎだが)モスクワ川のほとりを1時間ぐらい散布するのが良い気持ちである。
6月11日(日)
商社の人にアルハンゲリスクに行こうと誘われ、モスクワ郊外30kmぐらいのところへ行く。モスクワ郊外の景色はきれいである。野原が広がっている。アルハンゲリスク自体はそれほどびっくりするほどのこともないが、旧貴族の邸宅である。ただし、ロシア調の絵は見事である。ここは庭が自慢だそうだが、だだっ広いだけの話である。庭の端はサナトリウムになっていて、人を入れないのだそうだが、外国人と分かり、入れてくれた。ピロシキ、クワスなどを食べて帰る。
アルハンゲリスクはヨーロッパ風の離宮だが、手入れは行き届いていなかった。
6月12日(月)
この日何をしたか、記憶して居ない。ロシア語のレッスンが5時から始まった。
6月15日(木)
大失敗をやった。知り合いのロシア人が9時15分より10時15分までウクライナホテルのロビーで待っていたそうである。怒って帰ったらしい。私は待ち合わせ時間を覚えていなかった。向こうは言ったという。とにかく、会えなかったし、紹介もして貰えなかった。後に響かなければ良いが。この日一日しょげていた。
6月16日(金)
一日部屋に閉じこもる。この日、朝、部屋の掃除をするので、部屋の外に出ろと云われたので、3時頃下に降り、キャビヤをぬったパンを立ち食いし、ベリョースカを散歩する。商社の人が自炊道具をやると言う。夜10時頃貰いに行く。沢山出してくる。こんなに使えるものかと思ったが、とにかく貰う(2ルーブル、米、砂糖類)。
6月17日(土)夕方10分ぐらい散歩した。昼過ぎラーメンを作る。道具があればできるものだと思った。
キッチンが有るわけではない。バスタブに板を敷き、鍋釜類を並べ、料理を作る。
夜紅茶を2杯飲んだら眠れなくなった。寝ようとしたのは夜2時であるが、なんと空がもう青い。暗くない。そのまま寝付かれないで窓の外を見ていたら、3時頃もう東の空は紅い。写真が取れる位明るい。驚いたものだ。
6月18日(日)
商社へ行って、タイプを借りてくる。今日は特異日だそうで、良い天気である。
6月19日(月)
ロシア語の先生、ムーザがやってきた。5時40分頃だったと思うから、もう来ないかなと思っていたところだった。勉強をしていないと怒られた。後、夕食に誘った。両親は居ないのだそうだ。
6月20日(火)
午後モスクワ大学にいた。あちこち訪ねるが、顔見知りが捕まらない。ぶらぶらして、このまま帰る。帰り道、レーニン丘まで歩き、ゴリキー公園に出る。つまらない公園だ。ぶらぶら歩いてビュッフェでパンと果実汁を注文し、昼食にする。それから、船でモスクワ川を行き、ノボチンスキー橋(?)で降りる。
それから、てくてくホテルロシアのうしろ、どこかの省を通りながら歩き、ジェツキーミール(意味は「子供の世界」で、子供用品のデパート、秘密警察本部ビルの隣り)に行く。おもちゃで面白いものをと思ったが、ない。せいぜい、人形劇用のものしかない。そのうち何か買うことにする。疲れた。
6月21日(水)
インツーリストにレニングラード行きを頼んだ。あっさりやってくれる。26,27日の二日の1st classしかないと言うことで、$19/dayで38ドル取られ、汽車も42ドル取られた。しかし、これでレニングラードへ行ける。ついでにオペラ、バレーの切符をじゃんじゃん頼んだ。23日白鳥の湖、30日アイーダ、28日にあるクルミ割り人形も行きたい。
6月22日(木)
10時半にK研究所に行く。ガラス工場を見学させてくれた。きれいなガラス細工の花や、精密に加工されたガラス管などを見せてくれた。
ランチを食食べているとき、バレーの話が出て、リジアが「クルミ割り人形」を見たいというので、こちらも行くつもりだったので、一緒に切符を買うことにした。
夕方、日本歌劇団の公演に行かないかと誘われた。日本の歌劇団ではと思ったが、時間はあるし、行くことにした。ルジニキのスポーツパレスでやっていた。1万人は入っていると思う。満員である。はらはらしながら見たが、まずまずのできであった。10時にホテルに帰ってくる。
6月23日(金)(白鳥の湖)
夕方クレムリン大会宮殿に白鳥の湖を見に行った。悪い席なので、大して良くもない。
大したことなかったと云ったら、周りの人に怒られた。慣れてしまって、少しくらいのことでは驚かなくなってしまったようだ。
この時は、よい席ではなかったが、たいていの場合、よい席が取れる。ドルの威力である。日本ではとうてい手に入らない席である。
6月24日(土)
昼過ぎに大学へ行く。ガランとして人気がない。あきらめて帰りかけたら、サーシャに会った。少し話しでもしようと付き合ってくれて、話した。この人ぐらい、とことん付き合ってくれる人は珍しい。住宅のこと、月収のこと、休暇のこと、資格のこと、レニングラードの紹介、レニングラードの人の紹介など2時間ぐらい話した。それから、モスクワ大学のてっぺんに出られると言うことで、行ったが、土曜日はだめだそうだ。帰りにディナーを食べる。サーシャはすでに夕食を済ませていたらしいが、付き合ってくれたらしい。悪いことをした。帰り、キエフ駅まで一緒に帰った。今済んでいる住宅は木造で良くないとこぼしていた。だけど3部屋ある。革命前は大きな家で祖母のものだったらしいが、いろいろな人が入ってきて狭くなったらしい。新しい家になるだろうが、2部屋になるだろうということである。
革命前の上流階級の家に、大勢の他人が這入り込んで、元の持ち主が小さくなって住んでいたというストーリーの映画(ドクトル・ジバゴ)がある。サーシャの家もそうだったのだろう。そのサーシャでもレーニンは偉いと云う。教育の怖さを感じた。日本人の子供を現地の幼稚園に入れたら、たちまちレーニン万歳と云うようになった話しも聞いている。
6月25日(日)
動物園に行こうと誘われた。行ってみたら、動物園というより公園である。日本風の、つまり汚い公園である。時間をつぶしてしまった。
午後10時10分前、ようやく日が暮れてきた。向かいの高いビルにまだ夕日が当たっている。この頃のモスクは台風一過の日本の秋と云う感じで、良い季節だ。上着を着ていてちょっと暑い位だ。
(レニングラードへ)
夜の11時になる。エタージナ(階の番人)がハイヤーの番号を伝えに来る。レニングラード駅に行く。このあたりは夜間照明のせいで、美しい。汽車の走る方向はうすら明るい。
6月28日(水)(モスクワへ帰着)
7時頃目を覚ました。いや覚まされた。汽車がモスクワに着いたからである。駅でなかなかタクシーを止められない。やっとタクシーを見つける。朝帰りは良い気分である。
夜リジアとマーシャと一緒にボリショイ劇場にクルミ割り人形を見に行く。豪華な舞台で思わず感動した。
7月1日(土)
4時にムーザが来る。トランジスタラジオを買ってやる。46ルーブルをくれた。結局は授業料を払わなかったのと同じ。
歌劇カルメンを見に行った。
7月4日(火)
もうビザが切れて三日、大丈夫かな。タリンに行きたいが、交渉する窓口すら掴めない。知人より会おうと電話あり、オクチャブリスカ駅に行く。タクシーで郊外のチェレムシキに行き、食堂でシャシュリクの変形を食べる。
7月6日(木)
2時にモスクワ大学に行く。しばらく話しているうちにサーシャが呼びに来る。ささやかな宴会の用意ができていた。嬉しかった。サーシャ、ニーナ、ミーシャ、それと知らない人達でコニャックを飲みはじめた。楽しかった。ロシアのお椀を貰った。6時頃終わった。
2次会をミーシャの家でやることになり、ウクライナホテルによって貰ってウイスキーを取ってくる。ミーシャは2階か3階の広い部屋に住んでいる。家具も立派である。親父さんが出てくる。40年前カムチャッカにいたころがあり、少し日本語を知っていた。いつ頃だか知らないが、気が付いたらトイレでひっくり返っていた。見事にのびた。ドアをどんどん叩かれても、どうしようもない。サーシャが「他の人が入りたいから出てくれ」と云ったのを覚えている。
個人宅と云っても、アパートだが、中の調度は素晴らしい。ひょっとしたら、戦前の家具かも知れない。食器類も見事である。結構いい暮らしをしていると思った。どうやって帰ったか覚えていないが、みっともなくて、あとで電話もできない。ところが、こんな遠慮をするのが日本人らしいようで、皆当たり前という顔をしている。やれやれ。
7月7日(金)
一日二日酔いみたいでふらふらしていた。
7月8日(土)
10時にK研に行く。何もない。雑談して終い。
マーシャに映画の切符を頼まれた。マーシャはまだ18歳で、未婚ということ。左手にリングをしていたので結婚していると思っていた。ロシアの習慣では既婚者は石のないリングをするとのこと。
ベリョースカの本店に色々な物があると聞き、とにかく見に行くことにした。閉まっていたので、ノボデ−ビチー寺院の方を廻る。池があり、城壁が絵のように美しい。