冬のロシア

1125日(土)にモスクワへ戻った。寒いだろうと覚悟はしていたが、頭痛に悩まされるとは思わなかった。防寒帽や靴を買い込み、どうやら慣れるようになった。1129日に商社からホテルウクライナが取れたと連絡が入り、ホテルメトロポールから懐かしのホテルに宿替えをした。同じ部屋ではないけれどやはり落ち着く。

1130日(木) ホテルウクライナ

雪が降っている。11/25の夕方、ブカレストよりモスクワへやって来た。東欧からロシアへ行く日本人は一人かと思い、多少センチメンタルになったら、乗客の中にちゃんともう一人日本人がいた。日本人はどこにでもいると実感した。モスクワの空港から市内に入るまで、自動車の窓ガラスが凍ってしまい、それを手で拭きながら走った。日本でスキーに行ったとき、朝、宿屋の洗面所の窓ガラスに氷の花が出来ていたのと一緒。温度は日中−810、夜は−20位だそうだ。今日(11/30)はあまり天気が良くないが、昨日など、青空が見え、たまに雲(暖房設備からの水蒸気らしい)が夕焼けのように薄赤く空を覆い(太陽が見えるときでも、南の方に夕陽のように見える)、そしてどこからともなく粉雪が降ってくると云った本当にモスクワらしい風景だった。もっとも、ホテルの外に出たら、そんなことは云っておられず、26日、27日は頭痛に悩まされた。地元の人に言わせると、帽子を被らないからだそうだ。毛皮のコートや防寒靴を買う前に、まず帽子を買うべきとのこと。靴は買ったが、帽子はまだ頭に合うのが見つからない。こう寒いとウォトカを飲みたくなる。ロシア人が飲むのは当然。

 


1215日(金)

モスクワは今昼間で−14、夜−18だそうだ。町を走っている車の窓は全部凍りついていて、何も見えない。しかし、部屋の中は25位あるから、かえって日本に帰ったら、寒いかも知れない。もうじき帰るとなると、何もする気が無くなってしまう。帰りたくてしようがない。これは海外に出ている人間に、帰国時が近づくと起きる現象だそうだ。

  

マロヤロスラヴェッツ

リガ(ラトビア)から戻った1221日の翌日、次の仕事が待っていた。1222日午前11時頃、迎えの車が来た。場所はかなり離れていて、モスクワから南へ、車で2時間半掛かるとのことであった。住所はマロヤロスラヴェツ(カルーガ県)というところだそうだ。モスクワからマロヤロスラヴェツまで白一色の曠野を走る。モスクワから南に300km離れていると聞いたが、改めて調べると150km位なので往復のことだったのかも知れない。先方に到着したのは午後3時過ぎになった。夕方から仕事に取りかかり、翌日も早朝から夜中まで作業を続け、24日の夜、モスクワに戻った。

1224日(日)

 着いたところには、建物が23棟ある以外何もない。所々黒く森が見える。もちろんホテルはない。普通の住居の一部屋があてがわれたが、装飾は全くなく、外と同じ白一色の部屋だった。歓待したくとも何もできないのは明らかだった。それでも、懸命に考えてくれたのだろう、帰る日の午後、一頭立ての馬そり(橇)を仕立ててくれた。橇で雪原をドライブしようということである。毛皮の外套(シューバ)を着せられ、橇に乗り、辺りを巡回した。シューバは内側が毛で、普通の毛皮を裏返した形になっている。暖かい。 


途中、水を一杯振る舞われたが、なかなか旨かった。そして引き返し、室内に戻ると、一瞬身体がカッと暖まった感じがした。やっとそこで分かったが、先ほどの水はウオッカだったのだ。氷点下20度近い外では、水が液体の筈がない。

それから宴会が始まった。集まった人は8人か12人ぐらいだっただろうか。直ちに、順番に、「健康のために」、「日本のために」、「ソ連のために」とか云いながら、乾杯が続く。乾杯が一巡して、2巡目に入ったのは覚えている。しかし、その後記憶が無くなった。次に気がついたら、モスクワのホテルのベッドの上であった。帰国の準備をしなければならない。頭はすっきりしているのだが、足が立たず、ベッドから降りられない。「足を取られる」という現象を経験したのは、これが最初で最後だった。

 追補:マロヤロスラヴェッツは1812年の対ナポレオン戦争及び第二次世界大戦(1942年)の時の激戦地である。

 1226(火)、モスクワを出発し、ミュンヘンで一仕事をこなし、1228日(木)ハンブルグで日航に乗ったが、濃霧で遅れ、一晩アラスカに足止めされ、機上食として出るはずのタラバ蟹を食べ損なったが、1230(土)、羽田空港に着いた。

 


 

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