ベネルックス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)

最近ではベネルックスという言葉を聞かなくなったような気がするが、自分のなかでは依然としてベネルックスという単語が残っている。もともとヨーロッパの低地帯地域(ネーデルランド)だから、まとめて一つに呼んでもおかしくはない。


ベルギー

なんとなくフランス寄りの国として意識してきたせいか、馴染みがない。何度か行っているが、きちんと見て回っておらず、見逃したところがかなりある。

ブリュッセル

最初に訪れたのは1970年。ルーマニアへ行く途中、飛行機を乗り継ぐ町として寄った。乗り継ぎの時間待ちの間に観光をした。

1970.4.28 火 セントラルホテル プレース・ド・ラ・ブールズ ブリュッセル

ルーマニアへ行くため、427日(月)の夜、羽田を発った。アムステルダムに着いたのが、28日の朝7時、温度は5℃で寒い。飛行機を乗り換え、ブリュッセルへ着いたのが、朝10時やはり寒い。乗り継ぎの接続が悪く、翌日の便しかない。飛行機会社がホテルを用意したので、送ってくれるのかと思ったら、勝手に行けとのことで、サービスが悪いとブツブツ言いながらホテルに向かった。何もしないのも、癪なので、昼から観光バスに乗る。やはり日本人が乗っていた。途中から時差の関係で欠伸ばかりでる。ブリュッセルも古い町だそうだけれど、別に他のヨーロッパの都市と変わりはない。ただ、全てフランス語なので、やや不便。本物の小便小僧に引き合わされる(東京の浜松町の駅にもコピーがあった)。建物の角にひっそりと立っている姿は小さく感じる。夜はコートを着ても寒く、それに眠いので9時頃から寝てしまう。翌29日朝雨が降っている。晴れる方が珍しいとのこと。これから散歩して、空港へ向かい、ルーマニアに出発する。

慌ただしい滞在だったので、あまり記憶に残っていないが、グランプラス(大広場)、小便小僧などを見た。当時は建物が黒ずんでいて、手入れされておらず、いま考えると、第二次大戦の痛手からまだ十分に立ち直っていなかった時期だったのだ。


ブリュッセルには、その後何度か来ているが、その中で、イースター休暇でベルギーを回った時の印象をまとめた。回った順番は、アンの洞窟→ワーテルロー→ブリュッセル→ゲントだが、書き順は逆時系列になっている。

1974.2.24 日 ホテル クイーン・アン、Bl. Emile Jacqmain 110、ブリュッセル

ブリュッセルの18km南にあるワーテルローに行く。ナポレオンが敗れた古戦場として有名。現地には、人工の小山があり、戦場に残された大砲の残骸を集めて作ったライオンの像が頂上に載っている。地元ではライオンの丘と呼ばれている。上まで登ったが、かなりきつい。周囲に何軒かある土産物屋に混じってパノラマ館があり、そこで当時の戦闘シーンを再現していると聞き、入った。単なる見世物小屋でしかなかった。Georges Bellos というレストランに入り、昼食を取ったあと、ブリュッセルへ向かった。


ワーテルローは1815618日にフランスとイギリス・ドイツ(プロイセン)・オランダ連合軍が戦った古戦場である。この戦いのあと、ナポレオンはセントヘレナ島に流され、そこで亡くなった。

ブリュッセルのホテルは三つ星ホテルだが、ブリュッセル北駅に近いせいか、周囲の雰囲気が良くなく、家族旅行には不向きだったが、ホテル替えする手数が面倒でそのまま宿泊した。夕食をグランプラスのレストランで取ろうとしたが、子供連れは全て断られた。やむを得ずホテルで済ます。

子供連れだと断られることが多いので、もうあまり気にしないことにした。

1974.2.25 月

朝から王の家、小便小僧の像などを見て回る。昼食はシェ・レオン(Chez Leon)でムール貝を食べる。(ムール貝料理で有名、1893年創業)。美味。その後、車でアトミウムに行く。そのまま帰るつもりだったが、寄り道してガンの町に行くことにした。


見所はグランプラス近辺に集まっている。グランプラスは大広場と云う意味で、どこの町にもあるが、ブリュセルの場合、広場を囲んで立ち並ぶ建物が豪華壮麗でしかも大きいことで有名。王の家もその一つで、中に入れる。小便小僧の像も近くにある。実物は小さく目立たないので、見落としそうになるが、観光客が集っているので、すぐ気がつく。

シェ・レオンは1893年創業のレストランで、ムール貝料理で有名。酒蒸しのムール貝をバケツに山盛りにして出してくれる。美味しくて、幾らでも食べられそう。

アトミウムは1958年の万国博覧会の時に立てられた大きな鉄の結晶模型で、ブリュセルのシンボルの一つになっている。

 

ゲント(ガン)

1974.2.25 月

ブリュッセルから西北に走り、ガンの町へ行く。昔栄えた町だそうだが、中心地の運河河畔を歩き、バーフ大聖堂にある「神秘の子羊」と呼ばれる祭壇画をちらっと見て帰路に着く。さらに西のブルージュの町にも行きたかったが、遅くなりそうで、諦めた。


ベルギーは多言語の国で、オランダ語、フランス語、ドイツ語などが入り乱れ、大変らしいが、それがベルギーの特長にもなっている。この町の名称についても、フランス語のガン、オランダ語のヘント、ドイツ語のゲントと色々な名前で呼ばれるので、使い分けが分からず、戸惑ってしまう。中世、町は商業の中心として、隆盛を誇ったらしいが、次第に港が浅くなり、停滞し、いまは眠ったような町になっている。フランドル派の画家ファン・エイク兄弟の神秘の子羊の絵は折りたたみ式になっていて、畳んだときは聖人群像、広げたときはキリストを象徴する子羊の礼拝の画面になっている。


アンの洞窟

1974.2.23  土 Han sur Lesse

ベルギーに有名な鍾乳洞があると聞いて、出かけた。「アンの洞窟」と云うそうだが、ベルギーの南部のナミュールから約40klm、フランス国境近くの「レッス河畔のアン」という村の中にある。かなり大きく、地底湖をボートで渡るなど、なかなか出口に出ない。

ベルギーの南東部は丘陵地で、レッス川が地下に潜り込んだ作った鍾乳洞があると聞いて、欧州では珍しいと思い、行くことにした。確かに大きいが、鍾乳洞としては他と変わりはない。

アントワープ

アントワープには、ビジネスで行っているが、記憶に残っていない。郊外で食事をした記録が残っている。


1974.2.21 木 アントワープ

商業の中心地と云うだけで、町として面白いところではなかったが、町の名前に興味を持った。アントワープと呼ぶと思っていたが、町の地図にはアンヴェルスと書いてある。ベルギーの地図にはアントウェルペンとある。英語、フランス語そしてオランダ語らしいが、人によって呼び方は様々である。幾ら欧州の言語といえども、ゲルマン系のオランダ語とラテン系のフランス語ではかなり違う。色々問題がありそうだと感じた。

オニオンスープが美味しかった。使い古した瀬戸物のお椀から焦げたチーズが垂れ下がっている、熱々のスープは実に旨い。もっとも労働者のための食い物だそうだ。飲み物に関しては、ステラ・アルトワというビールが町のどこに行ってもある。特に旨いとも思わなかったが、幾らでも飲めた。

オランダ (ネーデルランド)

ドイツの我が家から、オランダは近いので、他国という感覚はなかった。例えば、ドイツでは白いパンは売っていないので、近くのオランダの町に買いに行くとか、少し趣向を変えて、インドネシア風の夕食をオランダで食べるとかである。あちこちに行っているが、訪れた記録が残っているところは少ない。

アムステルダム

最初にアムステルダムを訪れたのは、1967年の10月のことで、欧州駆け足日誌にそのときの印象を書いた。その後、何回もアムステルダムに行っている。

1971.01.02 土 アムステルダム(ホテルオーオクラ)

日本風の正月を迎えようと、アムステルダムのホテルオークラで年末年始を過ごすことにした。ついでに冬のアムステルダム周辺を見て回った。

ホテルでおせち料理を頂いてから、表に出た。晴天だが、太陽は低く、冷気が全身にしみ込んでくる。国立美術館へ行く。やはりレンブラントの夜警の絵が目立つ。大きな絵で、この部屋にはこの絵のみが、壁に立てかけたように置かれていた。息子がトコトコと絵に近づいていったら、流石に警備員に止められた。それだけオープンだったとも云えるし、近くに寄って見たい絵であったとも云える。


中央駅周辺を廻り、アンネ・フランクの家にも行く。よくもこんなところに2年も潜んでいられたものだと妻が云う。戸棚に立ててあった鉛筆が倒れていたので、見つかったという話だが、実際にその戸棚を見ると何の変哲も無い木製の隠しドアで、あとはどこにも出口がなく、すぐにも見つかるように思え、その環境で潜伏していた恐怖感を思うとゾッとした。このあと、マヘレの跳ね橋などを見て回る。


続いて、郊外のザーンセ・スカンスに行く。古い建物と風車が残っている。木靴を買う。この季節、日の短い時期だったこともあり、真昼間なのに夕暮れのような景色の中を、震えながら歩いた。


ほかの季節にも行っているが、いつも肌寒く、曇天。

フェンロー

1973.08.10 金 フェンロー

普通ガイドブックには載っていない町だが、ドイツのジュッセルドルフから60km、1時間足らずで、行くことができる町なので、気分転換によく出かけた。

ドイツ国境に近い町なのに、やはりドイツとは違う雰囲気である。こじんまりとした町で、白いパンを買えるので、度々通った。たまたまお祭りにも出会い、大きな人形行列を愉しんだこともある。


ナイメーヘン

この町の近くのハイウエイのレストランでウナギを食べた。ぶつ切りの燻製だが、結構美味しい。オランダではウナギを食べるのだなあと妙に感心した。


ドイツからアムステルダムへ向かう途中にある町で、時々立ち寄ったが、メモはなく、手元には町の地図だけが残っている。ローマ帝国時代、すでに町はあったようで、オランダ最古の都市と云われている。

アイントホ−フェン

1972.11.19 日 エボリュオン

オランダ中部の町アイントホーフェンは電器会社フィリップスの本拠地である。1966年にフィリップスはこの町にエボリュオンと称する科学博物館を作った。空飛ぶ円盤のような格好をした建物である。中は産業、技術、社会・開発の3つの階に分かれ、色々な展示があり、実演もあるので、子供達と遊びに行った。


その後、エボリュオンは博物館としては閉鎖され、1989年からは会議センター及びイベント会場として利用されているそうである。

クレーラーミューラー美術館

1972.5.21 日 アーネム郊外

オランダ国立公園の中にあるクレーラーミューラー美術館に行く。美術館はオランダでもっとも大きい自然公園、デ・ホーヘ・フェルウェの中にある。公園というより、放置された湿地帯と云ったほうが早い。交通の便は悪く、車で行くしかないが、公園内は舗装もされておらず、かなりの悪路だった。ヒースがいっぱい咲いていた。

雨の中、クレーラーミューラー美術館がひっそりと佇んでいる。ここでゴッホに会った。それまでもゴッホの絵は見ているが、ここで初めて、本物を見たと感じた。無骨で、荒っぽいとしか思っていなかったゴッホの絵がここでは圧倒的な迫力で迫ってくる。盛り上がった絵の具がキラキラと輝き、三次元空間に飛び出して来る。“夜のカフェテラス”がいい。ほかの絵が目に入らなくなった。それほど素晴らしかった。


クレーラーミューラー国立美術館は1938年に建設された。コレクションはエレーネ・クレーラーミューラー夫人によって蒐集されたもので、ゴッホ、スーラ、ルドン、レジエ、ピカソ、モンドリアンなどの作品が含まれている。野外の彫刻公園にはロダン、ブールデル、ムーアなどの作品が立っている。広い敷地に点在する彫刻は風情があった。

デルフト、マドローダム、ユトレヒト、アーネム

1973.5.26 土 オランダの町々 

思いついて、オランダに行く。まずロッテルダムまで飛ばす。次にデルフトへ行く。ここでデルフト・ブルーの陶磁器を買い込む。デン・ハーグのマドローダムで遊び、スケヘニンゲンの海岸を見て、ユトレヒト経由で帰途に付く。途中アーネムで夕食、ライス・ターフェルを食べる。家には深夜12時半頃に着いた。

ロッテルダムは貿易港、興味なくほぼ素通り。デルフトは陶器の町として有名、いくつか焼き物を買ったが、結局は日本の有田、伊万里のコピーであることが分かり、以後欧州の陶磁器には手を出さなくなった。


マドローダムはデン・ハーグ港外にある、ミニアテュア都市で、オランダ各地の街並み、スキポール空港、アムステルダム中央駅、港湾施設、王宮など、建物、施設などの25分の1の模型がある。船火事の実演など、動く模型もある。オランダ領であるキュラソー島(中米)のマドロー家がライデン大学の学生だった息子を記念して、1952年に開設された。

 

スケヘニンゲンの海岸は保養地であり、盛り場である。イギリスのブライトンと同じである。スケヘニンゲンの発音はスケベニンゲンに近い、オランダ語だから別に不思議ではないのだが、聞くと妙な気分になる。

ライス・ターフェルは代表的なオランダ・インドネシア料理である。殖民地だったインドネシアにいたオランダ人が本国に持ち込んだ料理で、ライス(米)をベースにしているので、ライスターフェル(米御膳)と呼ぶ。米はチャーハンスタイルで出され、単品ではナシゴーレンと云い、日本人には食べやすく、旨い。つまみとして出てくる揚げエビ煎餅も美味しい。

キューケンホーフ、北海

1974.4.29  月 キューケンホーフ

花見に行く。朝出るのが遅くなって、10時に出発。13時前に着く。キューケンホーフのチューリップショウを見てから昼食。その後公園へ、ものすごい人出、こっちに来てから初めてのさくらも咲いていて、日本のお花見と同じ、でも呑めや歌えは全然なし。


北海を見て帰ろうと、海岸に出る。荒れ模様の海で、強烈な風に見舞われた。これが4月の海かと呆然とした。


キューケンホーフは1949年にオープンした花の公園である。オランダはチューリップなど花の球根栽培が盛んだが、花が咲くとすぐ摘み取ってしまうので、鑑賞する暇がない。そのため、花の宣伝用にと作った公園がキューケンホーフとのこと。

北海は日本の海とは質が違う。灰色の空、盛り上がってくる海、泡だらけの海岸、まさしくギュスターヴ・クールベの絵の通りである。

ルクセンブルグ

ルクセンブルグ

1973.8.18 土 ルクセンブルグ

名前は知っているが、どのような町だろうと、出かけて行った。行ってみると、かなり変わった町に見えた。丘陵地帯だが、二つの川が作った深い谷で街がいくつかに区分けされているので、町としてのまとまりがない。旧市街は、断崖絶壁に囲まれた、変形くさび形の地形で、先端は要塞化した崖になっていて、難攻不落だったと云われたそうである。


つまり目立った城はないが、地の利を利用した城塞都市だった訳で、小国ながら独立を維持できた。現代になって、近接の丘陵地区に橋を架けて、EUの行政機関を集めた新市街ができているので、一見すると、谷で隔てられた区画の集まった、妙な町という印象を受けたことになる。


歩き方は、まず旧市街の中心を散策し、憲法広場から渓谷越しの新市街を眺め、断崖の先端に位置するボックの要塞(砲台)に潜り込み、迷路のような、崖の中の要塞を巡り、川底の低地に降りて、旧市街を見上げながら、高架橋かアドルフ橋を上がり、旧市街に戻る。これで、大体は分かる。


 

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