北欧の旅

北欧4か国、デンマーク、スエーデン、ノルウエー、フィンランドはそれぞれに個性があり、別々の国なのだが、連合王国の時代もあった。ヴァイキングの末裔で、戦乱に明け暮れしたあげく、いつの間にか世界有数の豊かな福祉国家群となった。センスもよく、民度も高く、申し分のない生き方を謳歌しているように見える。しかし、どの国も税金はめちゃ高く、日常生活は単純そうで、魅力はあるものの、移住するかと問われればちょっと躊躇する。

ビジネスでよく出かけたが、用件のみで済ませて帰ることがほとんどで、町歩きをしたのは家族旅行と調査団体旅行のときぐらいだった。

デンマーク

北欧の中でも、デンマークは南に位置し、ドイツと国境を接している。そのせいで、他の北欧諸国ほど居住環境の厳しさが感じられない。どちらかというと、オランダに似た風土を思わせる。アムステルダムの空港とコペンハーゲンの空港もよく似ていて、多種多様な人々が行き交い、賑やかな雰囲気を醸し出しているところも同じである。どちらの国も小国でありながら、中継地としての役割を確保している。

デンマークへの旅

1975年の夏休みは北ドイツを巡りながら、デンマークまで足を延ばした。


レゴランド(ビルン)

1975.8.17           

ハンブルクを9時半頃に出て、フレンスブルグを通り、デンマーク領に入り、まっすぐレゴランドに向かう。風雨がひどい。レゴランドに3時頃着く。雨は止んで晴れる。


レゴランドで2時間位いろいろな乗り物に乗ったりして遊んだ。 子供たちは、採取した砂金をメダルに換えられ、文句を言っていた。砂金そのものが欲しかったとのこと。もちろん本物ではないのだが。


このあと、フュン島に入り、オーデンセに着き、駅前ホテルに泊まる。子供達一緒の部屋。食事は駅のレストランで軽く済ます。

ドイツから北上し、ユトランド半島を走ると、ビルン郊外のレゴランドに着く。レゴランドは有名なレゴ社が作ったテーマパークで、乗り物、水路、ミニチュア都市、レゴ動物園、砂金採りを経験できる西部劇広場等々が揃っている。すべてレゴブロックを使って出来ているところがすごい。アメリカ大統領モニュメントの模型(本物は米国サウスダコダ州にある)には150万個のレゴブロックが使われているとか。最近日本にもレゴランドが出来たとのこと。


レゴランドから道を東に取り、フュン島の中央に位置するオーデンセに入ったが、町ではほとんど人影を見なかった。

オーデンセ、ロスキレ

1975.8.18

オーデンセのアンデルセンの生家に行く。見学中の子供達グループと出会う。


生家のすぐ傍で昼食を取り、12時少し過ぎカーフェリーでシェラン島に渡る。ロスキレ(Roskilde)の町に入り、ヴァイキング船博物館に寄る。


北上して、ヒレロイ(Hillerod)のフレデリクスボー城とヘルシンエーア(Helsingor)のクロンボー城を見て、フェリーでスエーデンのヘルシンボリに渡る(20分)。暗くなったが、そこから高速道路でマルメまで55kmを30分で走る。途中は何もない、灯の影さえ見えない。ようやくマルメの町に着き、最終フェリーに駆け込んで、945分コペンハーゲンの港に着く。駅前の案内所に行く。やっと1045分にホテルが決まる。一方通行でなかなかホテルに着けず、深夜1115分に着く。子供たちと別々の部屋で寝る。


オーデンセは小さく可愛い町である。アンデルセンの生家も小さく、背を屈まないと入れない感じ。中には絵本などもあるが、切り絵関係の展示が中心だった。稚拙な画風がちょっと面白い。団体見学も多いらしい。

   

この後フェリーで本島のシェラン島に渡ったが、今では橋が出来ていると聞いている。ロスキレはフィヨルドの末端に位置する町で、ここでヴァイキング船を見に行った。1000年ほど前、フィヨルドの狭くなっているところに、ロスキレ防衛のため5隻の船を沈めてあったものを、近年引き揚げて博物館に置いてある。腐食していて、あまり原型をとどめていない。スエーデンやノルウェイにあるヴァイキング博物館に比べると見劣りがする。ヒレロイ(耳に聞いた音通りに記したが、案内書にはヒレレズとある)のフレデリクスボー城の外観は見事である。クロンボー城は、云わずと知れたハムレットの城、先王の亡霊と出会う物見台もある。対岸のスエーデン領も見える。



クロンボー城に最初に来たのは1969年だが、いつ来ても風景は変わらない。今回はフェリーでスエーデンに入り、南下し、マルメの町に入り、再度フェリーでコペンハーゲンに渡ったのだが、時間がぎりぎりで、何とか最終便に間に合った。それから宿屋探しだから、少々無茶な一日だった。

 

コペンハーゲン

最初に訪れたのは1969年である。スエーデンに行く途中に寄って、町の観光をした。そのときの話を始めに載せて、次に1975年の家族旅行の記事に移る。

1969.8.24 カストラップ空港にて

23日(土)の朝コペンハーゲンに着いて、今日(24日)にストックホルムへ出発するところ。昨日、コペンハーゲンについてから、23時間自分の足でほっつき歩いて、それから、市内観光バスに乗って大体の地図を覚えてから、宿へ向かった。ホテルはミネルバと云って、普通は大学の寮だが、観光シーズン中はホテルに早変わりする。ホテルに使えるぐらいだから、立派なものだが、何となく日本の寮に似通っているところがあり、可笑しかった。コペンハーゲンの町の上っ面だけを見たところでは大して他のヨーロッパの町と違わない。賑やかな通りが2本ぐらいあって、古い建物が自慢なのは他と同じ。物価はドイツより高い。若い人々が派手な服装をしていて、今はデンマークが世界一のレベルだろうけど、そのうち、斜陽の国になるような気がする。見て歩いた中に、チボリという遊園地がある。これは世界的に有名で、横浜のドリームランドみたいな者だが、人がぞろぞろ歩いているところが違う。日本で云えば、東京駅の隣にドリームランドがあるようなもので、夜中まで賑やかなものだ。例の人魚像を見たが、予想通りつまらなかった。

 


予想は外れて、40年後の今もデンマークは斜陽の国にはなっていない。一方横浜のドリームランドはとうの昔に無くなっている。

デンマークの食べ物はオープンサンドに尽きると云って良い。そのなかでもオスカー・ダヴィドセンという専門店が有名で、ここのメニューは帯状の1.25メートルの紙に印刷されている。178種類のサンドウイッチが記されているので、数量、パンの種類を書き込んで注文する。


オスカー・ダヴィドセンの店は現在四代目になり、イーダ・ダヴィドセン・サンドウイッチ専門店として健在。古いオスカーのメニューは今やヴィンテージ扱いされている。

1975.8.19 夏休み旅行

9時過ぎ朝食。ストロイエを歩いて、アマリエンボー城で衛兵の交代を見て、後噴水を見て、海沿いに人魚の像を見る。また、戻って、魚売りのおばさん像のあるところのレストランに2時半に着く。そこで魚料理を食べる。とても美味しい。また、ストロイエをぶらぶらしてからホテルに戻る。6時まで昼寝。夜チボリへ行く。9時過ぎポンフリ(フライドポテトのこと)などを食べて夕食の代わりにする。10時過ぎホテルに戻る。クタクタ。




ホテルはもう存在していないが、場所はストロイエの近くだった。ストロイエは歩行者専用通路で、ウィンドウショッピングしているだけでも楽しい。コペンハーゲンの中央駅から北東の方向に、チボリ、市庁舎、ストロイエ、アマリエンボー城、ゲオフィンの噴水、人魚姫と主要な観光地がほぼ一本の鎖のように連なっている。小さな町といえども、これだけ歩き回ると流石にくたびれる。魚売りのおばさんの像は無くなっている。魚料理店ももう見つからなかった。

1975.8.20

9時半過ぎコペンハーゲンを出発。ロトビイまで車も家も少なくてさびしい景色。ロトビイから船。とても大きい船。例によって昼食はオープンサンドイッチにする。ビスケットチョコレートを買う。プッツガルテンで下船、そのままドイツ領を走り、リューベックまで走る(雨)。


シェラン島を南下し、ファルスター島、ロラン島を走り、レズビュ(ロトビイと聞こえた)でフェリーに乗り、ドイツを目指したのだが、外洋船のように大きいフェリーだった。海は静かだったが、それでも少し船酔い気味だった。デンマークにいる間、毎食オープンサンドだった。オープンサンドはどこでも売っているし、気楽に食べられるが、変化がなく、そのうち飽きてしまい、ドイツ食が恋しくなった。

1985.9.30 ホテルメルキュール

20人の調査団一行は930日朝5:15ストックホルムに無事に着いた。10年ぶりに戻ってきた感触があり、そのせいかコペンハーゲンに近くなったら、飛行機の中にも欧州の匂いがしてきた。3人分のシートを使って寝て来たので、楽だった。着いて早速ストロイエを散歩した。

1985.10.1

コペンハーゲンは良い天気で、暑いぐらいだった。ストロイエも4回も歩いた。娘の土産用にハートのペンダントを買った。勝手知ったる町なので、つい一人で動きがちになるので、気を付ける。

歩行者天国ストロイエは相変わらず賑やかで、コペンハーゲンの町は何一つ変わっていなかった。ただし少し汚れた町になっていた。この時はまだ魚売りのおばさんの像は健在だった。



このほかデンマークでは、オーフスの町に行っているはずだが、残念だが、全く記録が残っていない。


 スエーデン

よく通った国である。もっとも整った国と思うのだが、付き合った人々は、笑ったり怒ったり、なにも我々と変わらない。ドイツに来てビールで酔っぱらい、スエーデンに比べてアルコール分が多いからだと釈明し、新車が高価で中古車しか買えないと嘆き、まったく生活に対する感覚はどこの国の人も同じとつくづく思った。しかし、陽気で、遊び好きなところは羨ましかった。夜中まで働いている日本人に比べて、はるかに豊かな生活が営めるのはどうしてだろうか。金髪の人が多いが、皆美人という訳にはいかない。眉毛が金髪で赤ら顔の男性は鬼の形相そのもので、ちょっと敬遠したくなる。

ストックホルム

観光の町ではないので、通ったわりには、町歩きをしていない。

1969.4.12

410日夕方、ストックホルムに着いた。まだ、雪が残っている。これから春になるそうだ。提携予定の企業を訪問した。歓迎はしてくれるものの、勝手なことは出来ないので、神経を使う。411日夜年一回の社員夕食会に招待されたが、夜中の2時頃まで飲んで騒いでいるので、少々驚いた。でも、仕事のペースはのろいのに、生産性は日本より上だから癪にさわる。ただし聞いていた通り、物価は高い。

大騒ぎした翌日も皆きちんと出勤してくる。馬力がある、大したものだと感心したが、流石に応えているのか、フーフー云っている。安心した。


1969.8.27  palace hotel, Stockholm

ストックホルムは2回目だし、あまり歩く気もないし、面白くもない。何しろ物価が高いので、閉口する。たとえば、朝食、パン、バター、ジャムとミルク入り紅茶で約350円、夕食はビール小瓶、ビフテキ、オードーブルの3点で2,500円もする。大好きなのはエビのカクテル、旨いことはたしかだが、800円もする。多分ホテル代も高いだろうから、スエーデン滞在費は赤字だろう。物価が高いのは税金が多いせいだそうで、その税金はほとんど厚生保険などに使われる。病院も無料、最低生活は保障されている。だから国民にとっては引き合う話だが、旅行者には有り難くない方式である。昨日、一昨日はまずまずの天気で、18℃ぐらいの気温(ドイツより暖かい)だったが、今日は朝から雨で、多分15℃位になるだろう。昨日、夕方ふらふらと町を歩いてみた。中心から少し離れたところに、スカンセン野外博物館と云って、コペンハーゲンのチボリみたいところがある。行ってみたら、もうシーズンオフなのだろう、ほとんど人がおらず、完全に秋、いや初冬の感じであった。

50年後の今の日本の物価の方がはるかに高いから、この文を読むと奇異な感じがするかも知れないが、当時はそう思った。消費者物価指数から行くと、当時の2,500円は今の8,500円位になる。変わらないのは、生活を楽しむ彼らと満員電車で出勤する我らである。


1985.9.5

一日空いたので、調査団一行で市内観光をする。いかにも北国の風景であり、すべてが蒼白な背景の中に浮かんでる。青銅屋根が独特の白緑色に鈍く反射する。市庁舎、ガムラスタン、スカンセン野外博物館、ヴァーサ号博物館、地下鉄等を回る。途中ガムラスタンの大聖堂で開かれていたオルガンコンサートを覗いた。

ストックホルムは14の島々の寄せ集めである。旧市街島ガムラスタンを中心に、右回りにクングスホルメン(王の島)、ノッルマルム(北市街)、エステルマルム(東市街)、ユールゴーデン(動物庭園)、セーデルマルム(南島)と囲み、その間は水路で仕切られている。クングスホルメンを官庁街、ノッルマルムがダウンタウン、エステルマルムを住宅街と考えればよいだろう。ユールゴーデンにはスカンセン野外博物館がある。クングスホルメンにある市庁舎のブルーホールはノーベル賞受賞晩餐会に使われるので有名である。ガムラスタンはストックホルム発祥の古い島、来るたびに散歩した。歩いているだけで楽しい。ポルノショップもある。覗いてみたら、日本人は立ち読みしかせず、買わないからと店主に追い出された。スカンセンは9月の初めというのに、秋色濃厚だった。ヴァーサ号は1625年、ドイツの30年戦争時に建造された戦艦だが、処女航海で沈んでしまった。1961年に引き上げられ、博物館が作られた。沈んだ理由は不明のままだそうだ。

 



ウプサラ

ストックホルムの北70kmに位置する古い町で、数多くの科学者を輩出している。

1974.3.19

大学の町だが、淡い色の印象を与える町だった。郊外にガムラ・ウプサラ(古ウプサラ)と云うところがあるが、そこに残されている住居を見るとスエーデン人の背が低かったことが分かる。近代になって急に背が伸びたと聞いた。


ガムラ・ウプサラは古代スエーデン王の居住地であり、宗教や政治の中心地であったという。北欧の神話伝説に半分溶け込んだ場所と知ると、何となく惹かれる気分になる。

ヨッテボリ

ヨーテボリと呼ぶのが一般かもしれないが、耳にはヨッテボリと聞こえた。英語ならゴーゼンバーグとでもいうのか、ずいぶんかけ離れた発音になる。スエーデンの南端に位置し、明るく、からっとした雰囲気を持つ町で、古くから交易の中心地である。


1972.10.3 

帰りに、また例によって魚の教会によって、エビとヒラメを買ってくる。膝の上に置いたヒラメのかすかな動きがドイツ着陸寸前に止まった。小指ほどのエビは海水で茹でてあるのだが、抜群においしい。殻をむきながら口に放り込むと病みつきなる。2kgほど買う。


スエーデンからドイツまで2時間ほどの空の旅だが、その間にヒラメは息絶えたわけで、申し訳ない気がしたものの、新鮮な魚が食べられるのは有り難い。魚の教会は魚市場のことだが、建物の形から「魚教会」と呼ばれていた。

ノルウエイ

あまり行っていない。フィヨルドやオーロラを見るチャンスは無かった。

ベルゲン

1974.11.14 ホテル ローゼンクランツ

毎日小雨が降っているという印象が残った。長崎みたいに急斜面に家が立ち並んでいる。ホテルから下を見下ろすと、坂ばかり目につく。窓枠は小さく、部屋中しっとりと湿っている。海に面しているから雪は少ないようだが、とにかく薄暗かった。


一時、ノルウエイの首都だったこともあるそうだが、それよりもハンザ同盟の主要な拠点として有名だった。ドイツから赴任してきた若者たちは、ここで、無事2年間勤めあげれば、本国に栄転できたそうである。極北の地にしては温暖な気候な方なので、住みやすいのかも知れないが、最僻地であることには変わりない。暮らすのは大変だったろう。

オスロ

1975.2.13

短い滞在の間に町を回った。といっても市庁舎、ヴァイキング船博物館、ヴィーゲラン公園に行った程度だった。市庁舎は古いものではないが、独特なフォームを持ち、一目でオスロの市庁舎と分かる。


ヴァイキング船博物館には3隻のヴァイキング船があるが、オスロ郊外のオーセベルクの女王の墓から掘り出された船は土中に埋められていたせいか、保存状態も良く、1000年前の皮、衣類も残っていた。


ゴクスタットで発掘されたもう1隻の船はそれより後に建造されたらしく、明らかに建造技術が進歩した跡が分かり、素晴らしい造形美を見せてくれる。3隻目はバラバラの状態で発見された。


ヴィーゲランという名前は日本ではあまり知られていないが、彫刻家である。国が場所を提供したこの公園にヴィーゲランは夥しい数の人体彫像を飾った。皆ユーモラスな裸像で、見ているだけで楽しくなる。


ムンクの絵も、グリークの音楽もノルウエイ以外で鑑賞できるが、ヴィーゲランの彫刻はこの国でしか見ることが出来ない。オスロに来たらまずこの公園に来るべきだろう。

市庁舎は海に面している。岸壁に泊まっている漁船から小エビを買って、岸壁で殻をむきながら食べた。エビは海水で茹でてある。殻は海に捨てる。美味しかった。北欧はどこでも小エビが旨い。

フィンランド

フィンランドは我々と同じモンゴル系のフィン族の国であると云われているが、スエーデン人が入り込み、半ばスエーデンの属国のような状態であったらしい。しかも長い間スエーデンとロシアの紛争に巻き込まれ、フィンランドとして独立したのは20世紀の初めである。今でこそ安定した福祉国家になっているが、苦難の連続だったらしい。

ヘルシンキ

フィンランドについては、ヘルシンキを2回訪問したほか、他の町を訪れたことはない。それでも印象は強い。

1973.5.14

どこまでも透明な町であった。ちょっと町を歩いた。町の中心を東からヘルシンキ大聖堂、ヘルシンキ元老院を眺めてから、アレクサンテリン通りをウィンドウショッピングしながら散歩した。高い建物のないヘルシンキで大聖堂は場違いな感じがするが、それはそれなりにランドマークになっている。道は広いし、それほど雑踏はなく、清潔感溢れるイメージを作り上げている。



ただしあくまでも町の中心の話である。町外れに住む知り合いの家を訪ねたが、わびしいものだった。森の中の木造一軒家だが、舗装は無く、道はじくじくとぬかるんでいる。周りにはなにもない。厳しい冬を耐えるには相当の覚悟が要ると思わされた。

知り合いはフィンランド人ではなく、イギリス王室に関わり合いがある人とかで、なにか不都合なことがあり、フィンランドへ逃げ込んだと話をしてくれた。英国のスパイの話でも聞いているような妙な気分になった。

1985.10.2

あまり時間はなかったが、以前買い物をした店に行った。もう昔の商品はなく、別物を買った。意外に暖かく、冬服で往生した。ヘルシンキからストックホルムへ移動するのに、船を使った。有名なシリヤライン社の豪華フェリーである。一流ホテル並みの設備が整っていて、プールもあり、皆でワイワイ泳ぎ廻り、面白かったが、疲れた。しかし絶景だったのは出港時のヘルシンキの夕暮れである。北国特有の澄み切った空の色が変化していくのはきれいだった。暗闇になるまでヘルシンキの町を眺めていた。朝目を覚まし、外を覗いたら、島と島の間を船は抜けて行く。バルト海だったはずと思ったが、とにかく島が多いのには驚いた。



北欧はデザインが優れていると云われる。特にフィンランドのデザインは抜群だと思う。素朴で、すっきりしているが、スエーデンのように機能一点張りでもない。どこかに感性が潜んでいて、他の北欧の国にはないように思えた。2回しか行っていないが、毎回ペンダント、ブローチなどを買い込んだ。

 

北欧について

いつかノルウエイのトロムソなど北極圏に足を延ばしたかったが、機会はなかった。結局実際の北欧をあまり感じることはできなかったが、何となく気になる地域である。北欧と云うと、北欧神話、サガ、エッダなどの叙事詩やヴァイキングに代表される猛々しい人々の国、片や「ムーミン」や「長靴下のピッピ」の物語、アンデルセン童話で示される牧歌的な、優しく美しい人々の国と、イメージが混在し、話が合わないような気がする。しかし根は一緒だろう。元々を探っていくと、ヴァイキング時代の土着の神々が長い間に変容してトロール(小怪物)、ゴブリン(小人や妖精などになり、愛すべき生きものとなっていったように思う。しかし、現実の場所はただ土地が広がり、人影をほとんど見ない、寂しい空間であり、憧れはあるものの、密集して暮らす日本人には耐えられそうもないというのが結論だった。

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