フランス

フランスはあまり親日的ではない、少なくともそう感じた。もっとも、他の国に対しても同じ扱いをするように見える。つまりフランスが世界の中心という思想が根本にあり、どうしても上からの視線になるということ。また、つい優雅な国と思いがちであるが、きつい面も多い。間違ってもフランスの警察に捕まるなと聞いたことがある。扱いが、きついどころか、残酷なんだそうである。貿易に関しても、しっかり対日輸入制限をしていたため、ビジネスチャンスもあまりなかった。そのせいで、訪問した場所も少なく、パリ市内観光、ロワール川の古城巡り、マルセイユ訪問程度だった。

パリ

フランスというと、まずはパリということになる。しかし、10回ぐらい行っているが、それでも、これがパリという手ごたえがつかめなかった。なにを見たのだろうというフラストレーションが残ったままである。多少なりとも手応えを得るには、住むしかないと思う。旅行客には広すぎる。ここでは、1973年の春、復活祭の休暇に典型的な観光をした時の記録を載せる。

1973.4.18 水 ホテル サン・ジャック(現在はマリオネット・リブ・ゴーシュ・ホテル)

お弁当を持って、ドイツの家を11時に出る。ひたすら高速自動車道路を走る。パリまでの500kmを、休憩を入れて6時間で着く。ドイツに比べ、フランスのハイウエイのトイレは有料のくせに汚い。パリに着いて、車をホテルに預け、地下鉄に乗る。お釣りをごまかされた。言い争っているうちに、人だかりしてきた。外人が困っているらしいと寄ってくるのだが、釣銭のこととわかるとすっと離れていくのがわかる。とうとう切符売りのおばさんが根負けして、叩きつけるように釣銭を返してよこした。シャンゼリゼを散歩する。


夕食はシャンゼリゼ通りとコリゼ通りの角の店で取る。

今でもホテルサンジャックは残っているが、食事を取った店はもう見つからない。

1973.4.19  

まずルーブル美術館に行く。ドゥノン館から入り、最初に、正面の幅広い「ダリュ階段」の上の「サモトラケのニケ」を仰ぎ見て、息をのんだ。大海原を突き進む船の舳先に立ち、翼を広げ、衣を翻す躍動感に圧倒される。他の美術品を見た後でも「ニケ」の印象は消えない。これがルーブルのすべてだと思った。



当時は、ナポレオン広場のピラミッドはまだできていない。ルーブル美術館の表玄関であるドゥノン館から入るとサモトラケのニケに必ず対面することになっていた。展示内容は、大きくエジプトとギリシアの彫刻、ルネサンス以降の絵画の3部門に絞られると思うが、エジプトに関しては、カイロの博物館の方が優れている。


ミロのヴィーナスはまあまあである。モナリザはうっかりすると見落とす。そのぐらい印象は薄い。同じダヴィンチ作でも、クラカウ(ポーランド)の「白貂を抱く貴婦人」と雲泥の差。それより妻はドラクロアに釘付けになった。「自由の女神」は予想していたよりはるかに大きい。大きな絵が並んでいて圧倒される。通称「ナポレオンの戴冠式」の絵も素晴らしい。


いずれにしても短時間で全貌を掴むことは無理と悟って、ルーブル美術館を切り上げ、カルーゼルの凱旋門辺りをうろつく。シテ島へ戻り、ノートルダム寺院へ行く。まず、周辺を見てから、伽藍に入る。天井の高い建物の中には大勢の人がいたが、造作はケルンの大聖堂と似たようなもの。


 セーヌ川の中州であるシテ島はパリ発祥の地であり、その一画にノートルダム寺院である。ケルンの大聖堂ほど大きく感じられないので、かえって、その華やかな造形が目立つ。正面からの景観、側面の複雑な構造、大きなバラ窓など。

このあと、サントノーレ通りを散策、オペラ座を横目でみながら、百貨店オープランタンで買い物。子供連れでは、ちゃんとしたレストランに入れてくれないので、夕食はホテル内の和食レストラン・ジュンで済ませる。

1973.4.20 

まず、郊外のヴェルサイユ宮殿へ行く。宮殿内部、庭園、トリアノン宮殿と回る。宮殿の鏡の間も一見の価値はあるが、噴水庭園の広さに呆れる。水路が遠方に消えていく景色はやはり他の庭園にはない。


ヴェルサイユ庭園は人工庭園の最たるものである。その広さで威圧しようとする魂胆である。比べると宮殿は小さく、鏡の間を売り物にしているだけである。

ブローニュの森を通り、シャイヨー宮に行く。その中の人類博物館を見る。アフリカの民具が並んでいた。エッフェル塔、アンバリッド(廃兵院、ナポレオンの墓)に寄り、市内を回る。ホテルへ戻った。途中、凱旋門を囲むロータリーに入ったところ、車で抜け出すタイミングが計れず、冷や汗をかいた。何しろ四方八方から車が迫ってくるので、ぶつからないようにするのが精一杯。


夕食はホテルの レストランでエスカルゴ、グラタンなどを食べる。

1973.4.21 

まっすぐ、帰路に付く。途中コンピエーニュの町に寄って交通博物館を見る。馬車や自転車の時代物が展示されている。市場広場でサンドイッチを買って、フランスではサンドイッチと云えばオープンサンドを意味すると知った。

 

パリから約80km。二度の世界大戦の時、フランス・ドイツの停戦協定署名の地として有名。古くはジャンヌ・ダルクの最後の戦いの地として知られている。

ロワール河畔の古城巡り

1974年の夏、スイスへ旅行し、その足でフランスへ回り、ロワール河の古城巡りをした。ロワール河はフランスの中央を東から西へ流れている。その流域は「フランスの庭」と云われ、シャトーと呼ばれる城が数多く存在し、中世後期からルネッサンス時代のフランスの栄光を象徴する地域である。いくつかの城を廻り、ロワール河を下っていくにつれ、豊かな田園地帯とゆったりと流れていく河面が目に映り、いかにもフランスらしい光景を堪能させてもらった。

あとは、ル・マンで旨い田舎料理を食べ、シャルトル大聖堂でステンドグラスを眺め、満足して帰路についた。


1974.8.9 (金)ジアン Hotel du Rivage(ジュネーブ→マコン→オーセール→ジアン)

ジュネーブを出て、すぐのところで国境。一日中走って午後6時にジアンに着く。目的のホテルに当たるとOK.とても家庭的で良い。夕食7時から、ホテルで魚を食べる。とてもおいしい。だが、味はさっぱりしていたのに、すごくお腹に溜まって、夜中まで胃が重かった。


まずはロワール谿谷の古城群の東端に位置するジアンを目指した。ジュネーブからルートを西へ取る。マコンでパリとマルイセイユを繋ぐ高速道路A6号線に入り、北上する。オーセールで降り、ジアンの町を目指した。町に着いて、調べておいたホテルと掛け合う。幸い部屋は空いていて、宿泊できた。町の中心の河岸にアンヌ・ド・ボージェ城がそそり立っている。城塞と云うより大邸宅と言った方が相応しい。

1974.8.10(土) アンジェ Hotel d'Anjou(ジアン→シャンボール→シュノンソー→アゼー・ル・リドー→ソミュール→アンジェ)

ジアンの橋のたもとの店で皿を買う。

この町はジアン・ブルーと呼ばれる高級陶器で世界的に有名。ここで買った魚の絵の皿を今でも愛用している。

まずシャンボール城へ向かう。フランスの田舎を走る。途中の町で昼飯用のブリオシュと桃と洋なしを買う。シャンボールに着くと車を止めてずうっとお城の前の方まで歩く。大きい。駐車場で、パンと果物の昼食。


シャンボール城はルネッサンス時期に立てられた。外見はまるでお伽のお城である。もともとは狩りの待合わせ所が始まりだったが、ロワール流域で最大の王宮になった。設計も手が込んでいて、レオナルドダビンチの発想によると伝わっている、人がすれ違わないで昇降できる螺旋階段が有名。ただ、広すぎて居住者の気配がなく、ガランとした空気が漂っている。庭も広く、パリ市の大きさと同じで、多くの野生動物がいるとのこと。

次にシュノンソー城に行く。美しい。ロワール川支流のシェール河の上に王宮を立てると云う発想が素晴らしい。代々の城主が女性だったというのも頷ける。


続いて、アゼー・ル・リドー城に行く。可愛らしい城である。支流アンドル河のほとりに立つ、こぢんまりとした小王宮である。


ロワール地域には多分100以上の城があると思う。この時、他に訪れたい著名な城として、アンボワーズ城、シュヴェルルニー城、ブロワ城等が有ったが、時間が足らず諦めた。

ソミュールにつくまでにホテルを見つけるつもりで、西へ車を走らせながら先々で交渉する。ソミュールまでのホテルは全部満員でダメ。ソミュールを行き過ぎても空き室がない。夕方7時まで走り、8kmまで先のホテルに行くが、ダメで戻る。改めて、ソミュールのホテルに頼んで、アンジェのホテルを予約してもらい、また1時間走る。ロワール川の堤防の上を走る。日が落ちて、薄暗くなっていくなかで、素晴らしい夕焼けが記憶に残っている。9時少し過ぎホテル着。車から荷物を運び出すのを、後回しにして、食事。

移動時間の予想がつかなかったので、ホテルは行き当たりばったりで探すことにしていた。しかし、ホテルを予約しないで、旅行したのは、これが最初で最後だった。日本でもホテルの予約をせずに旅行をしたことはなかったから、子連れで少々冒険的だった。案の定、ホテルが見つからず、立ち往生した。

1974.8.11(日)シャルトル Hotel Grand Monarque(アンジェ→ル・マン→シャルトル)

アンジェのお城をゆっくり見る。今日はシャルトルのホテルを予約してあるので、安心。

アンジェの城は城らしい城である。つまり中世の要塞である。ほとんどのロワールの城は王宮、離宮スタイルなので、ちょっと例外的だった。この城で有名なのは。「黙示録のタペストリ」で、聖書のヨハネの黙示録に出てくる物語を絵として編み込んだ、長さ130m、高さ5mの壁掛け絨毯である。ガイドブックによれば、世界最古ではないにしても最大のゴブラン織りであるとのこと。黙示録の内容に合わせて、口に諸刃の剣を咥えているキリスト、死神(蒼ざめた騎士)など怪奇な図柄が多い。


北上してル・マンまで走る。一つ星のレストランで昼食するのが狙い。日曜なので、町の店が全部閉まっていて、人っ子一人歩いていない。目的のレストランも開いている様子がない。駄目かと心配しながらドアを開けると、何と満員。何とか席を作ってくれた。牛肉が不思議なくらい軟らかい。デザートの小さいイチゴも美味しい。結構な食事。

ホテルでもある、このレストラン Hotel Moderneが現存しているかどうかは不明。何の変哲もない建物だったが、フランスの片田舎で日曜の午後に食べていると云う雰囲気が楽しかった。ル・マンは24時間耐久自動車レースで有名だが、旧市街の佇まいにはその影響は何も認められなかった。

シャルトルに午後5時頃着く。ホテルに荷物を置いて、教会に行く。オルガンの演奏をしている。たくさんのステンドグラスをじっくり見る。

シャルトル聖堂の窓は173枚あるが、その中でも直径13mもある「フランス」バラ窓が目立つ。その下の長槍状のステンドグラスには旧約聖書の王達が描かれている。

  

「ガラス絵の聖母マリア」などもよく知られている。

麦畑を見ながら車を飛ばしていると、はるかにシャルトルの大聖堂が見えてくる。なにもない麦畑の中の二つの尖塔のシルエットは印象的だった。外観はどうと云うこともない教会だったが、重たいドアを開けて入ると、聖堂内部に音が満ちていた、いや建物全体が振動しているぐらいの音量でパイプオルガンが鳴っていた。圧倒された。この教会はステンドグラスで有名なのだが、それを忘れて、ミサ曲に聴き入った。やがてバラ窓が目に入って、改めて窓々を見直す。やはり素晴らしい。戦火を免れ、何百年も立つステンドグラスの色は深い。シャルトルブルーと云われるこのガラスの色は現代では再現できないと聞いた。

夕食は一つ星のレストランで食べたが、期待していたほどではなかった。

1974.8.12(月)帰路(シャルトル→ジュッセルドルフ)

シャルトルからジュッセルドルフまで飛ばす。パリを過ぎたころから雨が降り出す。

600kmの距離を走る。パリ市街を片目で見ながら、パリ環状線を走り抜けた。

マルセイユ

1975.4.17 木 マルセイユ

仕事でとんぼ返り。折角来たのだからと、町へ出て、旧港へ急いだ。あらかじめ聞いておいたレストラン・ミラマーへ行く。迷わずブイヤベースを注文する。魚介類を煮込んだ濃厚なスープで、珍味だが、濃すぎる。食事一式67フラン(5,000円位)という領収書が残っている。美味しかったが、続けて食べるかと聞かれたら躊躇う代物だった。


フランスの南部はパリなどとは違って、風土が荒々しい。土地が赤褐色に覆われ、ごつごつとした岩山が多い。マルセイユは2500年前からの港だが、19世紀にスエズ運河開通した後、欧州への玄関口になり、多くの日本人が過ぎて行った町である。西向きの町の中央部に運河のように切り込んだ入江が旧港である。この岸壁に立ち、左手の丘に聳える教会の頂上に立つ聖母像を見上げれば、マルセイユにいると実感できる。


 

 

 

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