ドイツ(南部)

ドイツに1971年から1975年まで住んだ。主要な町はほとんど訪問済み。もっとも、まだソ連・東欧の共産圏が健在だったころだから、ドイツと言っても西ドイツのことで、東ドイツに属した町はまず行けなかった。ここでは、復活祭などの休暇を利用した旅行の記録を中心に、いくつか記録が残っている町々の印象を記した。地図に、訪れた町々と、旅行をしたルートと年月を書き込んだ。

ドイツについては、訪問先の数が多いので、紀行文を南部、中部、北部の3部に分けた(分類は恣意的)。この部では南部ドイツの町々を取り上げている。

 

南ドイツの旅

ロマンティック街道からドイツ・アルペン街道、ファンタスティック街道へ

ドイツにはロマンティック街道とか、メルヘン街道などのように名前が付いている街道が多い。旅行をすると、そのどこかの街道を走っている。ドイツでの最初の連休だった復活祭に早速ロマンティック街道からファンタスティック街道へと廻ることにした。総走行距離約1,500km。

ローテンブルク

1972330 木

9時に出発。フランクフルトを経て、ヴュルツブルグまでアウトバーンを飛ばす。ここで高速道路を降りて、ロマンティック街道へ入り、ランデルスアッカー、ゾンマーハウゼン、オクセンフルト、ウッフェンハイム等の小さな町々を通り過ぎる。途中車を駐めず、町中を素通りしたが、町に入ると、狭い石畳の道となり、典型的なドイツ風の古い街並みになり、楽しい。約400kmを走って、ローテンブルグへ着いたのは午後4時、まだ明るい。ローテンブルクは晴れだったが、寒い。夕方街を散歩。


ジュッセルドルフからフランクフルトを経由してヴュルツブルグまでは、アウトバーン一本道である。普通アウトバーン(自動車専用道路)なら時速120kmから140kmで飛ばせるが、ここは幹線道路なのでかなり渋滞する。ヴュルツブルグからロマンティック街道に入る。途端に穏やかな田園風景に変わる。アウトバーンは町中を通らないが、国道は町の中心を貫いている、そして大半の町では石畳の道に変わる。石畳の道は歪んでいて、平らではなく、車が揺れる。子供達がガタガタ路と云って楽しんでいた。道の両側には格子縞模様の三角形の建物が立ち並んでいる。ローテンブルクも同じだが、さらに道路にも建物にも古さが浮き出ている。泊まったホテルの名前はアイゼンフート(鉄兜)である。町一番の格式を持つホテルだが設備は古く、お湯はぬるいし、歩くとぎしぎし鳴る。残念ながら子供連れには向かなかった。ホテルの前の道がメインストリートのへルンガッセ通りで、西端はブルグ公園でタウバー河の崖上になっている。町が正式にはRothenburg ob der Tauber(タウバー河の上のローテンブルク)と呼ばれていることが分かる。河は更に湾曲し、南に流れ、その崖上に中世の面影を残すプレーンライン地区が線状に伸びている。


1972.3.31  

晴れ。朝、ホテルの前にある市庁舎の塔に登る。すがすがしく、眺めもよいが、金網だけの展望台は恐ろしく、子供達は恐怖のあまり這っていた。

ヘルンガッセ(目抜き通り)に面した市庁舎の正面の壁がそのまま上に伸びて塔になっている。220段の階段を登ると、高さ52メートルの展望台に出る。中世風の赤い屋根越しにタウバー河の渓谷が眺められ、素晴らしい景観だが、足がすくみ、流石に怖かった。


ディンケルスビュール

10時半にローテンブルクを出発、ロマティック街道を更に南下する。ディンケルスビュールで車を駐めて、ちょっと観光。

ディンケルスビュールもロマンティク街道の代表的な町で、30年戦争(ドイツを荒廃させた17世紀初頭の戦争)と2回の世界大戦の被害も受けず、中世のドイツが残っていると言われる。


ネルトリンゲン

ネルトリンゲンの町を横目で見ながら、ドナウヴェルトで昼食。アウグスブルクを南下して、シュタインガーデンで横道に入り、ヴィースの巡礼教会に寄る。

ネルトリンゲンはほぼ円形の町で、周囲を市壁で囲まれているのが、車からよく見えた。

                

ヴィースの巡礼教会

アウグスブルクも素通りして、脇道へ入ると、坦々とした田園風景が広がる。その何でもない光景の中、何の変哲もない教会が目に映ってきた。ヴィースの巡礼教会である。教会の中に入って驚いた。外から想像も付かない、やたら極彩色で、ごてごてした彫刻がそこかしこと犇めいている。なるほど一見の価値があると言われるだけのことはある。



ノイシュヴァンシュタイン城とホーエンシュタインガウ城

街道に戻り、シュバンガウ(白鳥郷)に午後6時頃到着。遠くからだんだんノイシュバンシュタイン(新白鳥石)のお城が見えてくる。素晴らしい。シュヴァンガウ(白鳥郷)に着く。ここがロマンティック街道の終点である。ホーエンシュヴァンガウ(高白鳥郷)城の近くのシュロスホテル リスルに泊まる。思うように部屋が確保できず、我々のベッドに娘も寝かせる。何となく寝にくい。お城の見物は明日にする。夜雨が降り、気になる。


1972.4.1 土 

朝のうちは何とか雨が止んでいる。まずホーエンシュタインガウ城に行く。可愛い黄色のお城である。続いて、少し離れているノイシュヴァンシュタイン城へ向かう。麓で馬車に乗り、城に行く。13世紀初期のスタイルを、そのまま最近構築した城で、期待通りの豪華絢爛なお城である。

ホーエンシュタインガウ城は父王マキシミリアン二世が作ったお城で、それこそ森と泉に囲まれた城である。ここで息子ルードヴィヒ二世が育ち、自分も城を、と思い、ノイシュヴァンシュタイン城を作ったと伝えられる。

      

 

ノイシュヴァンシュタイン城は景観、外観共に素晴らしいが、何と言ったって、内装である。最上階は歌人の間、その下の階が王の居住区で、どこも伝説・神話に関わる壁画で飾られている。多くはタンホイザー、ローエングリン、パルジファル等のワグナーの楽劇の舞台が描かれている。ルードヴィヒ二世の事故死により、建築が中止されたため、12階は未完成で、公開されていない。



ボーデン湖とコンスタンツ

午後1時に出発。雨が降り始める。インメンシュタット、リンダウ等の町を抜けながら、山沿いの道を走る。アルペン街道の端で、景色がよいところだが、皆車に酔ってしまった。残念。ボーデン湖沿いにメーアスブルクまで走り、フェリーでコンスタンツへ向かった。コンスタンツで素晴らしいホテルを見つけた。ボーデン湖からライン川が流れ出す角にある島の上のインゼル ホテルである。すごく良い部屋だった。

ボーデン湖はドイツの南の果てにある。ドイツで最大の湖と聞いていたが、実際には、スイス、オーストリアと三国で共有しているので、正確ではない。スイス、リヒテンシュタイン、オーストリアと流れてきたライン川が東からボーデン湖に流れ込み、西からまたライン川として流れ出す。色々な川がボーデン湖に流れ込んでいるので、上流のライン川の水がそのまま下流に流れている筈はないのだが。


半島状の突き出たところがコンスタンツ市だが、インゼルホテルはライン川を越したスイス側の小さな島の上にある。シュタイゲンベルガー系列の五つ星ホテルだから、最高級のホテルに間違いないのだが、これだけの客扱いのできるホテルはその後泊まったことがない。

ドナウエッシンゲン

 1972.4.2 日 

湖岸に張り出している部屋で朝食を取る。皆パジャマで、湖を見ながらわいわい言いながら食べた。娘は客室係にマイネ クライネ ダーメン(小公女様)と呼ばれてご機嫌だ。贅沢な気分。

ここからファンタスティック街道に入る。北上し、ドナウエッシンゲンの町のドナウの泉に寄る。


ハイデルベルク

ドナウ河の源泉と言われている泉だが、ドナウ河自体は名前を変えて更にシュヴァツヴァルト(黒い森)へ遡っていく。黒い森を抜けて、フライブルクでアウトバーンに乗り換え、ハイデルベルクへ向かった。ホテルを探すが、なかなか見つからない。ネッカー河対岸でやっと見つける。夜子供達を寝かしつけて出かける。夜のハイデルベルク城巡りをして、居酒屋 Zum Roten Ochsen「赤い牛へ」に飲みに行く。城と橋がとてもきれいに見える。向こう岸のポプラの木の間を蒸気機関車が通っていくのが、玩具のように可愛らしく目に映る。


シュヴァツヴァルト(黒い森)はドイツ南西部に位置する森林地帯だが、実際に黒く見える訳ではない。ドナウ河やネッカー河の源泉地でもある。ヘイデルベルクはネッカー河の下流にある。ハイデルベルクの城も有名だが、大学の町というイメージも強い。居酒屋ツム ローテン オクセンも200年近くの歴史を持つ学生用ビヤホールである。夜のそぞろ歩きも楽しい。

バーデン・ヴュルテンベルク州

ドイツ西南部で、ロマンティック−、ドイツ・アルペン−、ファンタスティック街道に挟まれた地区と考えた方が早い。州都はシュツツガルトである。

シュツツガルト

空港も中央駅も何度も利用している。しかし、町は見ていない。中央駅舎の上にベンツのマークが載っているのを覚えている。つまり、ベンツやポルシェ等の工場が集まっている工業都市で、観光向きの町ではないと云うことである。フォルクスフェストは別である。ミュンヘンのオクトーバーフェストと並んで有名なビール祭りである。ドイツの仲間に引っ張られて、参加した。1リットル容量の陶器コップで飲む。したたか酔った。

                                                              

ティティゼー(湖)、シュヴァルツヴァルト(黒い森)

年末、何を考えたか、経験もないのに、スキーに行くことにした。急なことで、どこのスキー場も満員、とうとう聞いたことのないティティ湖というスキー場に行くことにした。ティティ湖は黒い森のなかにある観光地で、ノイシュタットという町に隣接した村である。フライブルクから東へ40kmの位置にある。

1973.12.29 

1045分出発。良い天気。フランクフルトを過ぎたら、霧。山に入ったら晴れている。午後6時半にティティ湖に着く。

ホテルは取れず、民宿形式のロッジだった。他に23家族が泊まっていた。

1973.12.30 日

素晴らしい天気。スキーを借りに行くが、店が休みだったり、全部貸し出してしまっていて、一人分だけ借りられた。あと3人はそりに乗る。

ゲレンデらしいゲレンデも無い可愛らしいスキー場で、雪の上で遊んだ。


1973.12.31

スキーのお店に行く。やっとお昼過ぎまで掛かって借りる。娘は民宿の女の子ペトラと遊んでいる。午後5時過ぎまで滑っていて、そのあと店を探したら、皆閉まっている。慌ててノイシュタットまで走ってコーヒー屋でカステラとツヴィーバック(ラスク)とチョコレートを買う。近くのピッツェリアで食事。夜中、隣の部屋の子供が4時間泣きっぱなし。

1974.1.1

午前中は部屋で、午後は家主の部屋で、娘はペトラと遊んでいた。午後4時から1時間ソリ遊び。近くのホテルで食事。

湖の氷上には、大勢の人が散歩している。やはりスポーツ場というより、観光地である。


1974.1.2

11時すぎスキーを返しに町へ行き、ついでに買い物をしようと思ったが、店のほとんどが閉まっている。やっと開いている店を見つけ、土産に鳩(カッコー)時計を買う。湖でソリを少し滑らせる。良い天気なので、すごい人出。お昼ご飯はソーセージとポンフリ(フライド・ポテト)で済ます。午後240分にやっと出発。午後840分にジュッセルドルフに着いた。


結局スキーを楽しむことからは程遠かったが、黒い森を経験することはできた。

ロルヒ

シュツツガルトから東へ50km行ったところにある、何の変哲もない小さな田舎町である。古い町でもないから、凝った建物があるわけもなし、曲がりくねるメインストリートの両側はショウウインドウが並んでいるだけである。ただ代理店の所在地だったので、よく通った。丘の上に修道院がある。


駅前旅籠に泊まる。2階に宿泊用の部屋があり、1階は食堂兼居酒屋である。夜従業員たちと食事を取り、ビールを飲む。ここでシュペッツレという卵麺をよく食べた。シュヴァーベン地方の名物料理で、パスタと違う、やわらかい食感が特長。食事の後は九柱戯で遊ぶため、郊外に車を走らせる。皆狭い田舎道を時速100kmで飛ばす。とてもついていけない。遅れて到着し、冷やかされる。遅くまで、ビールを飲みながらゲームをする。やれやれ。


シュヴァーベン地方はバーデン・ヴュルテンベルク州にほぼ重なる区域のことだが、どちらかと云えば、歴史的な名称。日常的には州名よりこちらの名前の方が通る。シュヴァーベン語が話されるが、まずわからない。かなりアクセントが違う。

九柱戯はボウリングの前身。すべてのピンを倒すだけではなく、特定のピンを倒す、または残すなどのルールもある。いろいろな大きさのボールを使えるが、指を入れる穴はない。


10km離れたハークホーフというホテル兼レストランがあり、時々泊まったり、食事に行ったりしたが、そこへ行く途中にリーメスの遺構が埋もれていると教えられた。リーメスは古代ローマ帝国の国境線で、わずかに頭を出している石塊が2000年前の道路標識だとのこと、さすがヨーロッパである。


バイエルン州

バイエルン州は東南部に位置する、ドイツ最大の州で、あたかも独立国のように振る舞っていると感じる。かなりの頻度で訪問したが、車でオーストリアに行く時には必ず通過するので、その都度どこかの町に寄り道した。州都はミュンヘン。

ウイーンへの往路で(1974.6.136.14)

1974.6.13 

ヴュルツブルク

10時に家を出発。フランクフルトでのサッカーの試合のため、アウトバーンが混んで大変だった。午後1時にフランクフルトを少し過ぎたところのサービスエリアで昼食を取る。ヴュルツブルクに着いたが、雨が降ったり止んだりしている。ドーム(大聖堂)に行く。モダンな部分と古い建物とが混じっている。ミサの最中、オルガンと賛美歌がものすごく響く。バンベルクに向かう。


ヴュルツブルクはロマンティック街道の始点だが、町が大きすぎて、あまり趣はない。マイン河を挟んで、左岸の丘にマリエンベルク要塞、右岸の丘にレジデンツ(領主の館:世界遺産)があり、中間の市街の中に取り込まれて聖キリアン大聖堂(ドーム)が立っている。大きいのだが、大きいとは感じられない。ドームのなかは広いので、音がよく響く。


バンベルク

バンベルクでも、やはり雨がパラパラしている。市庁舎が水の中の島に建っている。山の上の方の教会に行く。ニュルンベルクの城壁だけを見て通り過ぎる。


昔は、バンベルクは二つの町だった。町中を流れるレグニッツ河の左は大司教の領分で、右は市民の居住区だったそうだが、もう区別は無いらしい。古い町で、第二次大戦の被害も酷くなく、小ヴェニスと呼ばれている。レグニッツ河の中州に立っている市庁舎はそれでだけで絵になる。

ミュンヘン

ミュンヘンにはよく通った。行くときは、飛行機をバス並みによく使った。ルフトハンザに乗り込む通路にいつも置いてある朝食セットをひょいと拾い上げ、読めもしないドイツ語の新聞を機内で広げ、ハムとチーズを挟み込んだ丸いバンを囓るのが、いつものことだった。ここでは、車を利用した時の話を書く。

1974.6.13 

バンベルクを出て、午後7時にミュンヘンに着く。旧市街入口のカールス広場にあるホテル・ケーニッヒスホーフにチェックインし、子供達を寝かせて、町に散歩に出かける。マリエン広場の新市庁舎、フラウエン教会、噴水を見て帰ってくる。

リング状の旧市街の中心にあるマリエン広場に行けば、新市庁舎、マリア像柱、魚の噴水と観光一式が揃っているので、時間のない人はこの場所を一回りして、ミュンヘン観光とすることが多い。

1974.6.14 

おみやげ屋でフンメルの人形を買う。民俗衣装を買おうと見たけれども、なかなか寸法が合わないので、買うのをやめる。11時に新市庁舎時計の操り人形の踊りをみて、ホテルに帰り、ウイーンに向かって出発。

フンメルは子供の磁器人形のメーカーで、世界的に人気があったが、最近製造中止になったようだ。残念。

 

新市庁舎時計塔の馬上槍試合の人形が動くときは、いつも観客で広場が一杯になる。但し、一度見れば充分。

ウイーンからの復路で(1974.6.161974.6.17)

(ミュンヘン)

1974.6.16 日 

ウイーンからの帰り、ミュンヘンに8時に着く予定が全然駄目で午後9時になる。すぐホテルを飛び出して、イタリア料理を食べに行く。ヒラメと野菜スープがとてもおいしい。

1974.6.17 月

博物館も美術館も休みだったので、やむを得ずオリンピック・スタジアムを見に行く。その後ニンフェンベルク宮殿に行く。のんびり庭を散歩して、レストランで食事してから、帰路に就いた。

 


1972年ミュンヘンオリンピックでは、テロで人質全員が殺されるという惨劇が発生した。人質が危険に晒されてもテロには屈しないというドイツの態度は正義かも知れないが、人質を考えると割り切れないものがある。珍事も発生している。オリンピックの開催地はミュンヘンと云う都市であり、国ではないのだが、最初に作った記念コインは間違えて「DEUTSCHLAND」と国名が刻印されていたので、「MÜNCHEN」(都市名)に変えたコインを再発行するはめになった。


ニンフェンベルク宮殿は西方にあり、広い庭園があって、ゆったりできる雰囲気を漂わせている。

オーストリア南部のシュピタールからの復路で(1975.1.4)

(ミュンヘン)

1975. 1.4

オーストリアのスキーの帰り、ミュンヘンに寄る。

ドイツ博物館とアルテ・ピナコテーク美術館へ行く。

ドイツ博物館には自然科学と技術の歴史的な遺産が集められている。1903年に教養と教育のために作られた建物で、イザール河中州にある。展示品は鉱山、冶金、重電、内燃機関と自動車、道路とトンネル、船舶、航空機、物理、通信、化学、印刷と写真、計量など全産業部門を網羅している。高電圧放電等の実演もある。一見の価値はあるが、全部を見て回るには数日は必要である。


ピナコテークは美術館、アルテ(古)とノイエ(新)の二つの建物がある。それに加えて、最近モダン館ができたそうだ。アルテ・ピナコテークではドイツの代表的な画家の絵を見ることができる。デューラーの「四人の使徒」が印象的。クラナッハやアルトドルファーなどもある。2階への階段が広がるエントランスも絵になる。


 

オクトーバーフェストとビアホール

(ミュンヘン)

1972.9.23 

日本でもよく知られているビール祭りである。1リットルのビールが入っているガラスのジョッキを5つも6つも抱えて、民俗衣装のおばさんが配って廻る。何百人も入る大きなテントの中は飲み助で一杯。楽隊が演奏する度に、椅子の上に上がり、拍子を取る。壮観である。ジョッキは重いので、取っ手を掴んで、右に回し、手首の上に乗せて飲む。ジョッキが欲しいなと呟いたら、地元の人がどこからか二つ持ってきた。さあ持って行けと、気前のいいこと。遠慮なく頂戴する。あとでジョッキを見たら所有者の名前が明記されている。これでもいいのかなあ。場所を変えようと市の北側にあるシュヴァービング地区に乗り込む。ここは若者の街、芸術家気取りがウロウロしている。華やかなショウウインドウを眺めながら散歩する。飛び込んだ店で飲むが、もう充分。ほどほどにして、帰る。


オクトーバーフェストはお祭りだが、ビールを飲むなら、旧市街にあるホーフブロイハウスに行くことを勧める。歴史のある、古いビアホールで、ナチスの党大会が開かれたことで有名。使い込まれた、長いテーブルと長椅子が並んでいるホールは、なるほど、大会向きである。何も行事がないときには割と空いている。ここで、23杯引っかけてから、向かいにあるプラッツル・シアター(現在閉鎖?)に入る。いろいろなショウが演じられるが、ジョークは100%理解できない。訳してもらってもちっとも面白くない。何で面白いのと思う。この国に生まれなければ分からないと諦めた。

 ローゼンハイム

1974.12.25 水

 クリスマス休暇で、オーストリアへスキーに行くことにした。目的地はかなり遠いので、一日目は行けるところまで走ることにして、ミュンヘンの先のローゼンハイムという町にたどり着いた。クリスマスなので、ホテルが空いていない。居酒屋兼旅籠のようなホテルに泊まる。

ローゼンハイムはミュンヘンとザルツブルクの中間にある普通の町である。Rosenheim(バラの里)という名前にはほど遠い平凡な町イメージである。ここの旅館の、上階が宿屋、下が居酒屋のスタイルも面白い。西部劇に出てくる旅籠の原型かも知れない。もっとも子供連れだと、場違いも甚だしい。

キーム湖とヴァッサーブルク

1975.1.3 金

オーストリアの帰路、キーム湖とヴァッサーブルクに寄る。ヴァッサーブルクの町へ入るとき、34羽の白鳥が頭上を越えていった。大きい。ジェット機か戦車が飛んでいるような威圧感がある。息を飲んで、黙って見送った。


キーム湖は観光名所ではあるが、冬のこの時期に、みるほどのものはない。ヘレンキームゼー城にも寄らなかった。ヴァッサーブルクWasserburg am Inn(イン河の水城)という名前に惹かれて寄った町だが、イン河に突きだしている半島に立地する街並みは尋常ではない。中世の建物が密集している有様は独特である。そして白鳥。なにか物語の中に這入り込んだような気がした。


ドナウ紀行

サマーキャンプに参加する息子をニュルンベルクの先まで送って、帰りにレーゲンスブルクとニュルンベルクに寄った。

レーゲンスブルクとヴァルハラ

1975.7.25

8時半出発。9時にアウトバーンに乗る。ヴュルツブルグからニュルンベルクがすごく混んでいる。3時少し前にヴァイセンブルンに着き、手続きを終え、友達に迎えられる息子を見送る。3時半からレーゲンスブルクに走る。混んでなく、天気も良く、快調。しばらくレーゲンスブルク市内に車を駐めて、そのあと、ドナウに掛かっている変わった橋を渡ってヴァルハラに行く。宮殿を見学して、ニュルンベルクに戻り、夜は名物のブラートヴルストを食べる。日本のウインナーソーセージより少し大きい位。おいしい。

キャンプ地であるヴァイセンブルンがどこだったか、今となっては分からない。ニュルンベルク近郷のアルトドルフのどこかに存在していたユーゲントハイムであったことは確かなのだが。


レーゲンスブルクはほぼ素通りに近かったが、それでもドームとドナウ河の石橋は強い印象を与える。堂々としたドーム(聖ペーテル大聖堂)はケルンの大聖堂とよく似ているが、なぜか親近感が湧き、木陰からボーッと見上げていた。ここの「ドームの雀」聖歌隊も有名である。石橋は900年の歴史を持つドイツ最古の橋で、プラハのカレル橋と似た雰囲気を持っている。レーゲンスブルク自体古い町で、2000年前はローマ軍の駐屯地だった。


ヴァルハラはバイエルン王ルードウイッヒ一世が作った、英雄を祭る神殿である。ドナウ河畔の高さ100メートルの地に建てられた、奥行き70m幅32m高さ20mのパルテノン風の建物で1862年に完成した。なかにはいると、正面にルードウイッヒ一世の立像が置かれ、左右に赤髭バルバロッサ王、ハプスブルク初代王、マリアテレジア女帝、エカチェリーナ・ロシア女帝、ビスマルク、ゲーテ、ルター、モルトケ将軍、ラデツキー将軍、コペルニクス、レントゲン、バッハ、モーツアルト、ベートーベン、デューラー、ルーベンスなど王、政治家、軍人、学者、音楽家、画家等の胸像(120人、当時)が並んでいる。その他に記念銘板64個が飾られている。ちょっと安っぽい感じだった。


ニュルンベルク

1975.7.26 土

ニュルンベルクはひしゃげた平行四辺形の形をした城壁に囲まれた中世風の町である。本来中世の町なのだが、全て戦後再建された建物なので、どこか現代の匂いがする。ナチスの本拠だったせいで、徹底的に破壊されたらしい。それでもマイスタージンガー「ハンス・ザックス」や「ホフマン物語」の舞台として惹かれるものがあり、訪ねたくなる町であった。

南側のフラウエン門から城壁内に入り、ゲルマン国立博物館に行ってからデュラーハウスに行く。市場でちょっと買い物。名物菓子「レープクーヘン」を買って出発。


ゲルマン国立博物館はフラウエン門城壁のすぐそばの、あまりスマートとは云えない2階建の建物である。もともとナポレオンによって散逸したドイツ語圏の芸術・文化遺産を集めようとして、1853年にスタートした。統一ドイツが存在しない時代に作られたわけで、今となっては少々時代錯誤的イメージも否めない。蒐集物には先史時代から中世の骨董品が多い。デューラーハウスは、16世紀に活躍した画家アルブレヒト・デューラーの家で、中世の民家としてはかなり立派。

焼菓子レープクーヘンはニュルンベルガーヴルスト(小さいソーセージ)とともに、この町の名物である。

いずれにして惹かれる町であり、とうとう最近、また訪問した。ただしほとんどの建物は戦後再建されたものである。

2012.6.6 

ニュルンベルク中央駅に午後530分に着く。タクシーでホテル アム ヤコブスマルクトへ行く。夕食は23軒隣りの歴史的ブラートヴルスト店「ツム グルデン シュテルン」に行き、ニュルンベルガー・レバー・クヌーデル・スープとヴルストとを食べる。


意識的に古いホテルを選んだ。屋根裏の部屋で、エレベーターもない。しかし、それなりの面白みはあった。ニュルンベルクに来たら、ここのソーセージを食べるのか決まり。焼きたての、人差し指ぐらいの長さしかないヴルスト(ソーセージ)をフーフー云いながら食べる。旨いが、昔の方がもっと美味しかったと妻が云う。やはり屋台で食べないと駄目だと宣う。明日大通りで食べて見ることにした。店自体は老舗で、1419年創業とのこと、わざわざ歴史的と名乗っているが、どうもこの町のクセらしく、いろいろな店が歴史的と謳っている。


2012.6.7  

晴れ。綺麗な青空。9時半、ブラブラ歩きながら北へ向かい、ペグニツ河を渡る。川岸に「死刑執行人」という物騒な名前を持つ橋や塔がある。


玩具博物館に着いた。建物は新しい。ニュルンベルクは古くからのおもちゃの町と聞いていたから、もう少し重厚な建物と思いこんでいたので、意外だった。展示物はおもちゃ、人形の家、鉄道模型等だが、目を奪うほどの内容ではなかった。




このあと東へ向かい、フラウエン教会へ行く。教会の前はハウプトマルクト(中央広場)だが、人でいっぱい集まっている。賛美歌が聞こえる。しばらくすると、お坊さんの行列が通り抜ける。何かの行事が終わったらしく、急に人だかりが散り始まる。



広場の端にある噴水(シェーナーブルンネン)の輪を3回し、縁に腰掛け、12時になるまで、ただ待つ(中央広場の噴水の囲いにはめ込まれている輪を3回廻しながら願い事をすると願いことが叶うという言い伝えがある)。



12時になるとフラウエン教会のからくり人形が動き始めた。見終わって、ケーニッヒ大通りを歩きながら、人形とお菓子の店を探すが、皆閉まっている。旧市街の入り口「王の門」まで行ったが、職人広場も閉まっていた。面白いおみやげを見つける場所だったのだが、やむを得ずホテルに帰る。夕食はまた、同じソーセージ屋に行く。前日同様、焼ソーセージとレバースープを頼む。スープは相変わらず美味しい。


 この日は祝日だった。聖体の日と云うカソリックの休日で、店は全部閉まっていた。屋台も出ていない。その代わり、ミサと聖体の行列を見たことになる。幸い、玩具博物館は開いていた。人形の家と機械仕掛けの玩具を見ることができた。しかし、ぬいぐるみも木工細工もお菓子も買えなかった。残念でした。ニュルンベルクは600年も前から玩具の町だったそうで。近辺にはおもちゃ、文具などのメーカーが散在しているらしい。


 

 

プリンタ用画面
前
カテゴリートップ
TOP
次