オーストリア(エスターライヒ)

オーストリアはドイツ語圏に属するにもかかわらず、19世紀のドイツ統一の動きに巻き込まれなかった。当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国という多民族国家であったためでもある。しかし、ドイツ語圏ということで親近感は持てるし、観光に事欠かず、食べ物は旨いし、芸術の香りはふんだんにする、しかもローカルな雰囲気も持つ素敵な国である。その上、西欧と東欧の接点と云うことから、スパイの匂いもかぎ取れるような怪しげな魅力さえあって、忘れることができない国である。個人的には、オーストリアと呼ぶよりは、東の帝国という意味のエスターライヒと呼ぶ方が好きである。

 

ザルツブルク

音楽の神童モーツアルトの生誕地、今でも音楽祭がよく行われている。ウイーンへの旅の途中、音楽の町に敬意を表するためにも寄り道をすることにした。

ウイーンへの旅で

1974.6.14 往路

ミュンヘンからウイーンに向かって出発。まずザルツブルグに行く。そのすぐ手前の国境の税関で車を止め、コーヒーを飲み朝食のパンの残りとケーキを食べて、昼食終わり。車を飛ばして行くと、ザルツブルグのお城がちょっと見える。そのまま走り続ける。

次はリンツに向かう。この途中湖が見えてきれい。湖が見えなくなるとザーザー雨が降る。

ウイーンの少し手前で雨が上がる。午後8時近くにホテルに着く。ホテルのレストランで食事。時間ばかり掛かって、あまりおいしくない。

ザルツブルクからウイーンまでの道は景観に優れているが、結局リンツの町は見ずじまいで、傍を通っただけになってしまった。

1974.6.16 復路

すごく良い天気。午後2時に出て、4時半にザルツブルグに着いた。途中アウトバーンのレストランでハム入りトーストとコーラで昼食を済ます。モンド湖のところで休む。とてもきれいな景色。虫の声がうるさい位。それまでは、道が空いていて良く走れたけど、それから先は車が多くなり、工事も多くなり、全然走れない。ザルツブルクに着く。まず、レジデンツ広場に出る。その辺をブラブラして、ケーブルカーに乗って、ホーエンザルツブルク城に登る。ここからの眺めは抜群。見物を終え、出発したのが、午後6時。ミュンヘンに向かう。

 

岩塩が取れるため、ザルツブルクには有史以前から人が住みついていたらしい。この岩塩のお陰で、領主の大司教は裕福であったそうだ。モーツアルトが領主と衝突して、ウイーンへ移ってしまったのも有名な話である。世界遺産にもなっているが、要は城からの眺め。

ウイーン 

ウイーンには、東欧への中継地として何十回も出入りしていて、この旅日誌のどこかに何回か登場しているが、ここでは家族で行った3回の旅行を取り上げる。


ウイーンへの旅 1974

1974.6.15  ウイーン ホテル オイローパ 

午前中おみやげ買い。ケルントナー通りで皮の小銭入れ、スカーフ、バック、ブローチ、等を買い込む。ホテルザッヒャーでコーヒーとケーキの昼食を取る。ザッヒャートルテはおいしい。持ち帰り用のケーキを買う。シュテファン教会に入る。雨が降ってくる。雨が止んだので、馬車に乗る。ひとまわりして帰ってきたら、また雨。オペラハウスで雨宿りしてホテルに帰る。着替えて王宮とモーツアルトの像を見てから電車でプラター(遊園地)へ行く。観覧車に乗ってから、また電車でホテルに戻る。古いレストランをやっと見つけて食べに行く。レバー団子スープがすごくおいしい。バターライスもおいしい。コーヒーとケーキを食べてお腹いっぱいになって、ブラブラ歩きながら、またシュテファン教会にちょっと入る。夜、子供達をベッドに入れてからタクシーで郊外のグリンツィンのホイリゲ(新酒の居酒屋)に行く。夜の庭でワインを飲む、バンド演奏も楽しい。


ホテルオイローパは王宮の近くにあるので、大体の名所へは歩いていける。まずはホテルザッヒャーに行き、ケルントナー通りを戻り、シュテファン教会に立ち寄るというコースを繰り返す。ザッヒャーホテルでザッヒャートルテ(ケーキ)を食べるのは定番になり、以後ウイーンに行く度に必ず寄る。


シュテファン教会から観光馬車(フィアカー)に乗り、旧市内を廻わる。町の東北にあるプラターの大観覧車は映画「第三の男」で有名だが、長椅子を向かい合わせに配置した山小屋のような客車がすごい。100年以上前に作られた設備であることを味わえる。北5kmぐらい離れた場所のグリンツインも一度は行く価値がある。母屋の奥の中庭で新酒のワインを飲みながら、客席を廻っている楽団の響きを聞くのは乙なものだが、子供達が心配で早々にホテルに戻った。

1974.6.16

新王宮内にある楽器の博物館へ行く。クララシューマンの使ったピアノ、ベートーベンのピアノ、いろいろ見る。少し離れたシェーンブルン宮殿に行く。観光客はグループにまとめられ、案内人付きで宮殿内を廻る。見学コースが決められていて、勝手に動けない。しかも説明はドイツ語なので、何を説明しているのかよく分からかったが、一通り見て廻り、後は一目散にアウトバーンを目指し、帰路に付く。


シェーンブルン宮殿も観光の定番なので、最後に寄ることにした。ハプスブルク家の離宮で広大な庭園があり、宮殿から庭園の向こう側の丘の上にある記念碑(グロリエッテ)まで歩くとかなり遠い。その後、お客さんを案内したことがあるが、案内コースに参加したくないが、要所は見たいと云われ、困惑したが、ハイヤーの運転手の口利きで、少々お金は掛かったが、一般コースと逆回りの特別参観をすることができた。どこにでも方法はあるものである。

東欧の旅でのウイーン1996

ドイツ駐在時代、家族を東欧に連れて行くことは、危険すぎて出来なかった(ホテルに到着しても、予約してあった筈の部屋が存在していないと云う話はざらにあった)。冷戦も終わり、トラブルもあまり無かろうとツアー東欧旅行に参加したが、添乗員の知識不足のせいで、調整・折衝が旨く出来ず、スケジュールも崩れ、ものすごく不満がたまった。これは困ると、行程最後のウイーンでは別行動をすることにした。また、これに懲りて、以後いわゆるツアー旅行に参加することはやめた。

ウイーン ホテル ホリデイイン クラウンプラザ

1996.8.20

ブダペストからバスでウイーン入りした。ホテルはドナウ河に面したアメリカンスタイルのホテル。設備はまあまあだが、市内まで遠い、市電を使って30分はかかる。昔行ったことのあるレストランを探して、ディナーを予約する。チターの演奏を聴きながら食事をする。色々な曲を注文した。


食事を終えて、帰ろうと立ち上がったら、もっと聞いていけと引き留められた。遅くならぬように引き上げたが、心残りだった。

1996.8.21

ツアー一行とは別行動にする。ベルヴェデーレ宮殿近くでバスから降ろしてもらい、宮殿に行くが、朝早過ぎてまだ開いていない。宮殿のテラスに腰掛けて待つ。10時に開館、目的のエスターライヒ美術館へ行く。分離派のクリムト、シーレ等の絵が並んでいる。噂通りの絵である。さすが本物と感心しながら見ていくと、遠くの一枚の絵がオーラを出して呼んでいる。何だろうと行ってみる。ゴッホの絵である。オランダで今までも何枚も見ているが、出会いというのだろうか、ここで初めてゴッホはすごいと思った。以後、ゴッホの絵には、すぐ目が行くようにになった。この後、ウイーン美術史美術館へ行く。いつものように、ブリューゲルの部屋に行く。人がいない。ソファに座って眺めている内に、眠ってしまった。ブリューゲルの絵に囲まれて寝るとは、なんたる贅沢。法悦の時間だった。



元々ウイーンで見たかったのはブリューゲルの絵であった。最初どこにあるか分からず、以前、3回も美術史美術館に通った。ベルギーの画家だが、市井の人々の群像の中に何ともいえない可笑し味があって、病みつきになる絵である。クリムトやシーレは云わずと知れた19世紀のウイーンを代表する画家達である。だが、まさかウイーンがゴッホの魅力を教えてくれるとは思わなかった。

夜はコンサートに行く。ウイーン・モーツアルト・オーケストラという観光客用音楽会だが、場所がいい。楽友協会である。演奏者が当時の衣装やかつらで登場するのだが、それはともかく、楽友協会大ホールの雰囲気を味わうことが出来た。


再度ウイーンへ2012

またウイーンに行った。もう様子は分かっているので、散歩と食べ歩きをすることにして、街の中心、シュテファン教会があるシュテファン広場に面するホテルを予約した。どこに行くのも便利だった。

ウイーン ホテル アム シュテファンプラッツ

2012.6.2 土 晴れ

成田発12:20、イスタンブール着12:05、発14:16、ウイーン着21:05

交通規制があり、タクシーをホテルに乗り付けられない。少し手前から、カラフルなスポットライトで照明されたシュテファン教会のドームを仰ぎ見ながら歩く。やたらと人が多い。何でも6/16/4はシュテファン寺院のお祭りだったとのこと。道理で賑やかだ。


シュテファン教会はウイーンのランドマークであり、そのドームは市内のどこからも見える。方向が分からなくなったら、ドームを探したらよい。我々もウイーンといったらシュテファンと連鎖反応を起こすぐらいになっていた。

2012.6.3 日 曇り

7:30朝食を取り、そのままシュテファン教会の周りを散歩する。モーツアルトが「フィガロの結婚」を書いた家を見つける。9時にホテルの部屋に戻る。出直して、シュテファン教会でモーツアルトの記録を見る。教会のミサを聞く。ゼセッション美術館、美術史美術館、シュテファン教会の塔に登る。19:00にプファンドルに行き、パラチンケンを食べる。店の表で食べる。腹いっぱい。



ホテルの窓から見えるシュテファン教会の玄関口を眺めながら朝食を取ったあと、部屋に戻る前にふらりと教会に寄ることが日課になった。分離派の本拠ゼセッション美術館で見たかったのは、ベートーベンフリーズである。クリムトが描いたベートーベン賛歌の壁画だが、地下室の四方の壁に展示され、それを見るために、地下室の中に展望台が作られている。そこに乗って眺めると、絵が目の高さの位置にくる。展示会一回限り用として創作されたため、保存に不向きな作品であり、それを保管するため、このような展示方法が考案された。パラチンケンはハンガリーのスイートと思っていたが、ここではクレープと同じようなものでハム、ベーコン、野菜等を包んで食べる。でもジャムを巻いたパラチンケンがやはり美味しい。


2012.6.4 月 曇り雨

6時に起きる。10時頃雨が降ってくる。ウイーン最古のルプレヒト教会とアンカー仕掛け時計を見る。アンカーでパンとコーラ買ってホテルに戻る。午後5時グラーシュを食べる。


午後6:40から10:30まで国立オペラ座で歌劇トスカを見る。

いつもは行かないドナウ運河へ行った。本当はこちらの方が古いウイーンだが、それだけの話で、最古の教会も小さい建物だった。アンカーは市内あちこちにあるパン屋でアンカー時計とは関係はない。夜はグラーシュミュージアムと云う料理屋へ行った。グラーシュはドイツでも一般的な料理だが、ここのは、やや野暮ったい感じだった。国立オペラ座のチケットはネットで手配したが旅程が決まらずもたもたしたため、ろくな席が取れなかったが、それでも座席は広く、見晴らしも良い。日本の劇場と違い、観客を大事にしていることが嬉しい。どうも日本では役者の使い勝手が優先されているような気がする。


2012.6.5 火 晴れ曇り 涼

ケルントナーを歩く。ホテルザッヒャーでお茶する。オパー(国立オペラ劇場)からガレリヤ(アーケード)まで歩き、手提げ袋を買う。市電でリング(環状道路)を一回りする。市民公園で降り、シュトラウス像を見に行く。夜、12アポステケラー(12人の使徒の地下室)というホイリゲでワインを飲み、弾き語りを聴く。


ケルントナーはシュテファン教会から国立オペラ劇場までの大通りで、ウイーン随一の繁華街でショッピングには好適。郊外のグリンツインのホイリゲ(居酒屋)へ行こうと思ったが、天候が悪く、市内のホイリゲ(居酒屋)へ行った。1000年昔からの地下室という雰囲気でワインを飲むのもまた一興。


2012.6.6 木 曇り 

インターシティ特急ICE90でドイツに向かう。ウイーン西駅を12:40に出発、リンツを14:14に過ぎ、ドイツ領に入りパッサウ、レーゲンスブルクを通り、ニュルンベルク着17:25。約5時間掛かったが。ほぼ定刻通りだった。列車はさらにビュルツブルク、カッセル、ハノファーを経て、ハンブルクまで行く。


列車はドナウ河に沿って走る。時々湖が現れる。淡い緑色の田園地帯が続き、素晴らしい眺めである。しかし、ドイツ領に近づくと人家が増え、国境を越すと工場が現れる。なるほどオーストリアは農業国だとあらためて思わされた。

 

インスブルック

会議に出席するため、向かった。4日も居たのに、町を見ず、とんぼ返りみたいなものであった。

1975.5.20

ミュンヘンから小型飛行機でインスブルックへ向かった。アルプスの山間を飛ぶ小型機はよく揺れる。4人だった同乗者と顔を見合わせ、帰りは列車にしようと言い合った。ただ眺めは素晴らしかった。イン河に沿って飛ぶ機から、インスブルックのまとまった町並みと、くの字に流れるイン河がはっきり見える。アルプスと肩を並べて飛んでいた飛行機は高度を落としながら、インスブルック市を通り過ぎ、Uターンして空港に降りようと、よたよたしながら谷底に降りていく有様は、ハラハラさせられたが、また素晴らしい景観でもあった。インスブルックの印象はこれしか残っていない。


インスブルックは観光の町で、ウインタースポーツのメッカである。1976年には冬期オリンピックが開催されている。昔はイタリアとドイツを結ぶ街道の宿場として繁栄したとのこと。

 

シュピタール

性懲りもなく、スキーに行くことを計画したが、例によって急に行き先を探したので、著名なスキー場は予約できず、やむを得ずオーストリア・ケルンテン地方のシュピタールというところへ出かけた。

スキー旅行1974

1974.12.26 ホテル ケルンテン

チロル地方を走る。雪はいっぱいある。キッツビュールなど有名なスキー場を通り過ぎる。大勢のスキーヤーが滑っている。これは期待できると南下している内にだんだん雪が無くなってきた。アルプスを横断する5kmのフェルバータウエルン・トンネルをくぐり抜けると、雪はもう無い。どこへ向かっているのかと心配になってきたころ、からんとしたシュピタールに着いた。聞くと、スキーは向かいのゴルデックという山の上にあるという。後で地図を見たら、ユーゴスラビア(現スロバニア)の国境が間近だと分かった。えらいところに来たと思ったが、後の祭り、何とかするしかない。


1976.12.27

スキーを調達して、ゴルデックまでケーブルカーで上る。頂上で降りる。ものすごい横殴りの吹雪の中で立ち往生する。何もできず、ケーブルカーの中間駅に戻る。ここでやっとスキーのまねごとをする。無謀にも回転競技に挑戦する。9人中8位。


親達の様にならないスキーを見ていたせいか、子供達はついにスキーを好きにはならなかった。

1974.12.29

「故郷の夕べ」と称するイベントがポーシャ城であると聞いて、出かけた。町が観光客をもてなすための催し物である。唄や楽団の演奏に混じってシュープラットラーという踊りが演じられた。もも、すね、かかとを手のひらで打ち鳴らすダンスで面白かった。


シュープラットラーはオーストリア、南独地方の民族舞踊で、男どもの鄙びた踊りが魅力。

1974.12.30

町に買い物に出る。ボヘミアングラスの流れを汲むという店で、グラスと花瓶を買う。

使ってみたが、残念ながら本物とは違うようだ。


1974.12.31

大晦日である。ホテルでディナーパーティがあった。皆正装して席に着く。賑やかな雰囲気で、楽しかった。


特別な出し物はなかったのだが、ジルベスターディナー(大晦日夕食会)は素晴らしい。

1975.1.1

近くにあるミルシュテッター湖に行く。冬なので、寂しい眺めだった。


夏の観光シーズンには賑わうそうである。

1975.1.3

来た時と同じルートで帰る。道路状況も分かっているので、スムースに走れる。ドイツに向かう。

結局スキーを楽しんだとは言えなかったが、年越しをオーストリアで過ごしたのは楽しい経験だった。

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