シンガポールとマレーシア 1988

海外旅行が縁遠くなっていた時期、ふと南の方に行きたくなり、シンガポールとマレーシアに行ってきた。あまり熱心ではなかったのか、記録も写真も残っていない。旅日誌から外そうとも思ったが、やはり書きたくなり、当時のパンフレットや記憶を頼りに旅日誌を綴ることにした。

シンガポール

1988.8.1 月

チャンギ国際空港に着く。時差は1時間で、ほとんど気にならない。島の東端にある空港から、パークウエイでいきなり島の南端、シンガポール川の河口にあるシティ・センターまで運ばれる。広々とした道路、きれいに剪定された街路樹、塵一つ落ちていないと云って嘘にならない光景であった。


シティ・センターには高層ビルが立ち並ぶ。その手前のマリーナ・スクエアに立つマリーナ・マンダリン・ホテルに案内される。このホテルの構造が面白い。外観は巨大なボールを壁に立てかけた格好をしているのだが、中に入ると、このボールは風船のように、空っぽで、大きな内部空間を作り出していることが分かる。ボールの壁は客室で構成されていて、廊下に出ても向かいに部屋はなく、開放感がある。客の視線から作られたホテルで、他の土地では見たことのないスタイルである。



空港からホテルまで、完全な人工的な造りものであるが、ここまで徹底されると、悪くはない。ホテルも当時の日本にはなかったスタイルだった。最近になって、日本でも似たような造りのホテルを見ることもあるが、スケールが違う。相変わらず日本では、使い勝手が良いとか、サービスが速いとか、ホテル側の思い込みを優先しているホテルが多い。観光日本とか言っているが、本当に客側の立場に立っているかどうか怪しいものである。なお特異な構造で、この頃有名なマリーナ・ベイ・サンズ(ホテル)はまだできていなかった。

ホテルのあるマリーナ・スクエア(広場)からマリーナ・ベイ(湾)を廻って、マーライオン・パーク(公園)まで往復する。マーライオンは上半身がライオン、下半身が魚の像で、思ったより大きい。


マーライオンの実物を見るとがっかりすると、よく言われるが、そんなことはない。近代都市シンガポールのシンボルとして絵になっている。マーライオンの像はあちこちにあり、全部で7つあるそうである。

1988.8.2 火

島の中央を目指して、まずラッフルズ・ホテルを通り過ぎ、オーチャードロード(大通り)を歩く。道の両側に大規模ショッピングセンターやブランドショップが並び、大勢の人が行き来している。まさしく買物天国だが、あいにく持ち合わせはそんなにない。脇道に入り、中華風とも東南アジア風とも云えない丼物を食べる。歩き疲れて、ホテルに戻る。


ラッフルズという名前を冠した地名や建物名をよく見かける。19世紀初めにシンガポールを開いた英人ラッフルズを記念したものだ。後になって知ったのだが、彼の統治下、各地から集まってきた人達の混乱を起こさせないため、居住区を分けたのが、今のアラブ・ストリート、チャイナタウン、リットル・インディアなどの繁華街となって残っているのだそうだ。


夜、ニュートン・サーカスへ行く。飲食屋台村として有名。真っ暗な芝生広場の一角が光り輝いて、人影が蠢いているのが見える。中華、インド、マレーシア、タイ等のローカル料理の屋台が並んでいる。ここでサテーという串焼きをたべる。中身は焼き鳥だが、色々なスパイスが使われ、独特な味となっている。美味しい。もともとはインドネシアのものだそうだが、ここでは鶏肉が中心。


各国の料理を食べたはずだが、記憶に残っているのは、サテーだけで、他は憶えていない。そうそう、ナシ・ゴーレンもあった。炒め飯料理のことだが、オランダでよく食べた記憶がある。もともとはジャワの料理である。

1988.8.3 水

セントーサ島に行く。本島の南にある小さな島だが、全島が行楽地になっている。本島からケーブルカーで渡る。確かにいろいろな催し物はあるが、取り立てて興味を引くほどのものはなく、海を見つめて過ごす。

セントーサとは平和と静けさの島と云う意味だそうだが、結構賑やかである。歴史、自然、太陽と遊びの4つのワールドに分かれて、それぞれ楽しんでもらう趣向だそうだ。



シンガポールは菱形をしている島で、マレー半島の南端にある。マレー人の土地に、インド人、中国人が住み込み、次いでポルトガル、オランダと入り込み、最終的にはイギリスの植民地となり、1965年に独立した。多種多様な人材、インド洋と東シナ海の交点という地政学的条件などから、世界における貿易・交通・金融の中心地の一つになっている。民主国家とは言えず、政権は絶えず不満の芽を摘んでいるが、順調な経済発展と豊かさを維持している限り、息苦しさはあっても、問題は起きそうもない。

マレーシア

主に、マレー半島の南部とボルネオ島北部で構成されている国である。赤道直下に位置する。

マラッカ

1988.8.4 木

シンガポールからバスで、対岸のジョホール・バルを抜け、マレー半島を北上して、マラッカに入る。マラッカ川辺のオランダ広場へやって来た。周りを見回すと、スタダイス(旧市庁舎)や、キリスト教会が目に入る。オランダ風の建物が残っているという感じ。横手に回ると、ポルトガルが作ったセント・ポール教会やア ファモーサ(サンチャゴ砦)要塞跡などがある。つまり、1618世紀の植民地争奪戦の跡ばかりである。結局はイギリスがものにした。ヨーロッパでの争いがマレー半島でまざまざと見ることができるということ。



マラッカが、日本へのキリスト教布教の中継基地だったことは知っていた。セント・ポール教会には、一時フランシスコ・ザビエルが埋葬されていたことも聞いたことがある。しかし、布教活動は植民地獲得の前哨戦だったことを、ここで改めて知らされる。

目を海に向けると、マラッカ海峡が左右に長々と続いている。油を流したような、ねっとりとした海面である。タンカーが、音のなく動いていた。

マラッカ海峡は現代の覇権争いの象徴である。ここは西洋から東洋への交易路の抑え処である。いつだってキナ臭い話が飛び交う。目の前の海はただ穏やか。

ゴム園

1988.8.5 金

マラッカからクアラルンプールへ行く途中、ゴム農園に寄る。ゴム農園は綺麗に整地され、ゴムノキが整然と並んでいる。ゴムの木の表皮を傷つけることによって、流れ出てくる樹液がゴムの原料になる。小さなブリキ缶にたまった白い樹液に触ると、指先にネバネバと纏わりつく。この辺は熱帯だから、暑く湿った気候で育つゴムの木には最適なのだが、ゴム農園の中は耐え難い暑さであった。湿度100%を超えて、過飽和状態なのであろう、とても長居はできない。20世紀の初め、ゴムが栽培されるようになった時、この過酷な労働環境であっても、中国、インド辺りから労働者が集まり、急にこの国の人口が増えたそうだ。


ゴム・プランテーション(大規模ゴム栽培農園)は今でもマレーシアの主要な産業である。第二次世界大戦の前には、日本人によるゴム農園もあったようで、金子光晴の「マレー蘭印紀行」に詳しい。当時の貧しい風景が描写されている。なぜか子供のときに耳にしたマライのハリマオ(戦時のマレー半島の日本の諜報員で盗賊)のことなどが、急に頭の片隅をよぎった。

クアラ・ルンプール

マレーシアの首都である。事前の知識は全くなかった。

1988.8.6 土

車で町に入る。クアラ・ルンプール駅の向こうにモスクが見える。マレーシアはイスラムの国だったのだ。モスクが似合う土地とは思えなかったので、吃驚する。町全体としては、散らかった街並みの中に、ところどころ高層ビルが建っているという、ちぐはぐな感じで、何も印象的なものは残らなった。シャングリラホテルという、最新の28階建てのホテルに泊まったのだが、ここにも記憶に残るものがない。シンガポールの後に行ったから、単なる田舎町に見えたのかもしれない。


建物がイスラム・ムガール風だったので、駅をモスクと間違えた可能性がある。駅の近くには国立モスクも存在していた。つまり、そのぐらいクアラ・ルンプールの町のイスラム感が強かったと云うことである。古い物が残っているわけでもなく、町の中心がどこだかはっきりしないし、田舎がそのまま町になったとしか言いようがなかった。しかし、1988年当時と現在とは大幅に変わり、超近代的な都市へと変貌を遂げたらしい。鉄道の中央駅もKLセントラルという新駅に変わっている。世界一の高さを誇った、有名な452メートルのペトロナス・ツイン・タワーが出来たのは10年後の1998年である。それからも20年以上過ぎている。今やどのような都市になったのか、見当もつかないが、公式な宗教がイスラムであることには変わりはない。イスラムがやって来る前は、ヒンドゥーと仏教が盛んだったし、中華系の道教も信じられているので、宗教についてはオープンな国と思い込んでいたので、国教が決められているとは思いつかなかった。失礼だが、国王も存在する。マレー人が過半数を占めているにも関わらず、マレー人を優遇するプミプトラ政策が推進されている(つまり経済的には中華系が強い)など、上手く立ち廻っている多民族国家というだけでは割り切れない不思議な国だと思った。

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