台湾(中華民国)

台湾には、調査ビジネスで一度、観光で一回訪ねている。二つの訪問の内容が違うので、別にした。重複記述は避けた。

台北 (一回目)

1996.12.7 土

9時にマニラを発ち、11時に台北に着いた。中正国際空港はガランとして、しかも長い通路を歩かされ、閑散というイメージすら漂っていたが、台北の町中に入ると、斜面に四角四面の小型なビルが乱立しているのが目立ち、急に人影も増え、何かホッとしたのを覚えている。


中正国際空港は2006年に台湾桃園国際空港と改称した。中正は蒋介石のことだから、独裁者の空港と勘ぐられそうで、名前を改めたのも当然かもしれないが、中国空港とも言えないのもつらいところである。

夜、代理店の社長が欣葉という料理店に連れて行ってくれた。素晴らしく美味しい中華料理だった。かなり著名な店のようで、この次、来るときはここにしようと話しをしていたら、彼から、事情をよく知っている台湾人と一緒に来ないと、この味を味わうのは難しいだろうと、言われた。店が客を評価するのだろうか、なにか稠密な人間関係が存在していると云うような感じだった。


今では欣葉という名のつく料理店は数多くある。知遇を得ないと美食にありつけないらしいことを何となく感じる。

1996.12.8 日

今日は休日なので、観光に出かける。国立故宮博物館に行く。博物館は台北駅から北に約7km、丘の中腹にある。典型的な中国宮殿造りの建物だが、少し安っぽい。結構混んでいる。


1階は古代青銅器や甲骨文、2階は陶磁器類と書画、3階は玉、宝石類が展示されている。展示品は多すぎて、とても集中してみることはできない。やむを得ず、目録を買ったが、2.5kgと重い。それによると、銅器、陶磁器、宝石等が約7万点、書画が約9千件、文献、文書が約70万点とある。4階のカフェは満員。疲れ果てて、ホテルに戻った。いくつか頭に残った展示品を記してみる。

祖乙尊 銅器 (高さ29cm、重さ6kg)

西周前期(3,000年前)のもの。底には「先祖 乙に捧げる高価な壺」と記されている。見た瞬間、エジプト、メソポタミア文明と無縁の、むしろインカ文明に類似する様式と思った。この後中国にこの手の出土品があったと聞いていないので、古代東アジア人はアメリカ大陸に渡った人々に似通い、現代の漢民族とは断絶しているのではないかとさえ妄想した。もっとも縄文時代の日本にも同じような文様はあるけれども。


宋周鍾 (高さ65cm、重さ35kg)

西周後期(2800年前)のもの。祭祀用の鐘で、銘文には戦勝記念に作られ、演奏されたと記されている。古代中華文化は「礼」と「楽」だが、その中で鐘は中心的な楽器のようだ。また、この鐘の銘文は文字の源流として知られているらしい。

嘉量  (高さ25cm、直径34cm、重量1.4kg)

新莽朝(2000年前)時代のもの。基準となる枡で、「こく(石)」、「斗」、「升」、「合」、「1/2合」の5つの容積が計れる。枡の直径から「尺」の長さも求めることができる。重量の基準にもなっていて、万能の標準器であるとされる。かなり数学的に優れたものであったので、後代まで使用されたと云う。長らく行方不明だったが、清代に宮殿の倉庫から発見された。


汝窯粉青蓮花温碗 (高さ7cm、直径20cm)

宋王朝(約1000年前頃)時代のもの。中国の陶磁器は有名だが、歴史は古い。この博物館には漢王朝時代のものからあるそうだが、宋時代の素晴らしいものが多い。いくつかの窯が知られているが、汝窯の青磁は、ほとんど文様はないが、その色に魅せられる。この碗は蓮の花の形に作られていて、熱水保持用である。


五彩龍紋花鳥瓶 (高さ 45cm、胴廻り14cm)

明王朝時代の萬歴窯(約400年前)で造られたもの。明の時代には五彩と呼ばれる色絵陶磁器が作られたが、萬歴窯で造られた製品は特に華やかだそうだ。

青描空転遊漁瓶 (高さ 24cm、胴回り 43cm)

清王朝の乾隆窯(約250年前)で造られたもの。二重の壺からできている。内側の壺の頸が上部に出ているので、それを回すと内側の壺に描かれた魚が泳いでいるように見えると云う仕掛けで、非常に凝った作品だが、この時代以後技術が落ち、同じような作品は見られなくなったと云う。この乾隆窯では様々の技法を駆使して、神業に近い製品を生み出したと云われる。


翠玉白菜 (長さ19cm、巾 9cm)

清王朝の瑾妃(1874-1924)の持ち物だった。故宮博物館で最も有名な展示品である。姫様の嫁入道具だそうだが、よくできている。緑色と白色が半々の翡翠が材料で、本来ならまともな材料と見なされなかったのだろうが、それを利用して、白菜に化けさせたセンスは抜群と云うしかない。しかもよく見ると葉っぱの上に バッタとキリギリスが乗っている。遊びの極致と云っていい。

顔真卿 祭姪文稿

顔真卿(709-785)は、書道に関心があれば、その名を知らない人はいない。唐代の政治家、書道家、忠臣として古今より有名である。最後は罠と知りつつ、敵地に赴き殺されるという劇的な生涯だったため、印象は深い。書法も王義之の端麗な文と違い力強く感情豊かな文を書いた。祭姪文稿も非業の死を遂げた甥を悼む弔文の原稿だが、哀悼の心情がありありと分かる書は、昔から屈指の書とされてきた。


徽宗 痩金体書

中国には昔から数多くの名書道家が存在していて、その書を見るだけでも楽しいが、その中で徽宗の書は変わっていて、細い線と尖った撥ねに、ちょっと惹かれる。もっとも珍しいだけで、流行っているとは聞いていない。徽宗(1082-1135)は北宋の第8代皇帝で、当時最高の芸術家の一人と云われたそうだが、政治家としては無能で、結局国を潰してしまった人である。

宋王朝の時代に宮廷に文物を集めるようになり、後に続く元、明、清の各王朝で引き続き1000年にわたる蒐集が行われ、長らく北京の紫禁城(故宮)に保管されていたが、清朝の終焉のあと、1924年に故宮博物院として保存された。しかし続く戦乱の中で、収集品は北京、杭州、再度北京へ、南京、北京、重慶、昆明、上海、再び南京と転々とし、1948年に台湾に辿り着き、国立故宮博物館となった。何時の日か北京に帰れるのだろうか、それとも台湾に安住するのか、誰も知らない。

絵画も多いのだが、西欧のような華やかさがなく、目立たない。東洋の絵画は書だと云ってもよさそう。しかし何といっても、青銅器の凄さには震えが止まらなかった。

新竹

1996.12.9 月 新竹

新竹市まで車を飛ばした。新竹市は台北の南西80kmのところにある。最先端産業、研究施設などが多いハイテクの街である。政府系の研究所を訪問した。玄関に嘉量の模型が飾られている。お土産にそれのミニチュアを貰った。


1996.12.13 金 

10〜12日は台北周辺の企業、工場を廻り、調査を行い、13日に台北を発ち、成田に着いた。

 

台北 (二回目)

職場の団体旅行である。一行22名だった。

2000.9.15 金 三徳大飯店

羽田発1400、中正国際空港(台湾)着1620

まずはホテルにチェックインする。夕食後士林観光夜市に行く。ものすごい雑踏。屋台B級グルメが一杯あるが、残念なことには夕食後なので食べられなかった。

台湾の夜市は観光の目玉のようで、あちこちにあるらしい。今回行った士林夜市が最も大きいらしい。前回はどこか違うところに行ったらしいが、もうどこだが記憶にない。


東南アジアでは、昼間の暑い時を避けて、夕方から深夜にかけて屋台,露店が出るのはシンガポールあたりでも見たが、これだけ集中的に人と物が蠢いている場所を見るのは面白い。共働き所帯が多いので、夜市が家族の食事場所であり、また買い物をするところだそうだ。強いて言えば、日本の祭りの夜店と同じである。ただし、ここでは毎晩続く。

2000.9.16 土

故宮博物館に行った後、町中に戻り、ショッピングに出かけた。台北駅が中心になる。台北駅はいかにも中国風で宮殿と間違える。人々とタクシーに囲まれて立っている。線路は全て地下で、列車は見えない。台湾で一番気に入った建物だった。近くに新光三越の高層ビル(正式には新光人寿保険摩天太樓)がある。ここに三越があるとは知らなかったが、店内を見るのは省略して、46階の展望台に行く。台北の市内はほぼ見える。北に台北駅、東に行政院(旧市役所)、南に総統府(旧台湾総督府)、西に淡水河と、見える。しかし、それより案内板に気を取られる。戦前の日本製の地図が張ってあるではないか。懐かしいやら、びっくりするやらで、急に親近感が増大する。そう云えば、対日感情は極めて良いと聞くし、実際にその雰囲気を感じる。なんだか、生まれ育った土地にいるような気がした。




2004年に101階建ての台北101ビルができるまで、新光三菱が一番高いビルだったそうだ。

2000.9.17 日

市内観光に出かける。総統府、龍山寺、忠烈祠と廻る。

台北駅から南に向かうと総統府に行きつく。総統府は元日本の台湾総督府だった。東京駅風の、明治時代の日本の建築スタイルで造られている。日曜で中には入れなかった。さらに南に下がり、西へ廻ると龍山寺である。龍山寺は台北最古の寺だが、仏教、道教、儒教が入り混じり、航海、学問、商業などの守護神でもある。結構繁盛している。お参りする人は、七つの香炉に一本ずつお線香をお供えしていく。


引き返して、中正記念堂へ行く。蒋介石の記念堂。北に戻り、忠烈祠に行く。革命、中日戦争で亡くなった英雄を祭るとある。趣旨は分かるが、気に入らない。日本の靖国神社も同じだが、どうして死んだあとで祭り上げるのか、その以前に死ぬような事態にさせないのが本来だろうと思う。中国本土を追われて台湾に入った外省人は納得しても、戦前から台湾に住んでいた本省人としたら、あまり関心がないと云われそうな気がする。ツアーガイドでは、ここの衛兵交代式が目玉とある。ロンドン、コペンハーゲン、ワシントンなど、世界中であるが、ここの衛兵はいかにも見世物という感じであった。


昼食の後、茶藝館に寄る。喫茶店で、台湾茶や中国茶などを点ててくれる。残念ながら味の違いは判らない。当方の味覚では無理か。


淡水

足を延ばして、淡水へ行く。台北の西側を流れる淡水河の河口が淡水の街で、17世紀にスペインとオランダが争った土地である。その時の城塞として、紅毛城が造られた。敷地内に城と領事館が残っている。紅毛城はオランダ人の城と云う意味だそうだ。淡水河口は穏やかで静かな内海である。


17世紀、欧州勢が競ってアジア進出を図った時代に台湾も巻き込まれていた。結局オランダがスペインを台湾から追い出したが、1662年に清に対抗した明の遺臣、鄭成功(歌舞伎の国性爺合戦に出てくる)がオランダ人を一掃する。2年後に清の領土となり、以後台湾が清国の一部であることが常識となった。しかし、清は英国に敗れ、紅毛城は英国の領事館となった。最終的には1980年に台湾政府に返還された。つまり、紅毛城を知れば、台湾の歴史が分かると云うことになる。

2000.9.18 月

12:00台北発、1555羽田着。

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