ギリシャ
ドイツで暮らしたとき、ギリシャが欧州の原点であることを知り、興味が湧いたが、訪ねてみるだけの時間を捻出することはできなかった。後年、日本からエジプトへ行ったとき、帰りの直行便の予約が取れず、アテネ経由の便を利用することになったが、乗り継ぎに数時間ほど待たざるを得なくなった。チャンス到来!チラッとだが、待望のアテネを見ることができた。たが、このぐらいでは旅行記を書けないと思ったが、アテネの印象もそれなりになので、あえて書くことにした。
アネネ
1978.12.16
カイロをエジプト航空で立ち、12時半ごろアテネの空港に着いた。割とこじんまりした空港である。乗り継ぎのJALは16:35発である。時間はある。荷物を預け、バスで市内に向かう。終点はシンタグマ(憲法)広場。アテネの中心である。国会議事堂が隣にある。バスを降りると、ワァーとポン引きに囲まれる。それを振り払って広場を歩く。屋台があちこちに出ている。スブラキ(串焼き、トルコのケバブと同じ)を焼いたり、ケフテダキア(ミートボール)を煮込んだりしている匂い、煙が広場に充満していた。この猥雑さ、この人混みがギリシャなのか。古代ギリシャのイメージとは全く繋がらない。その中に一軒の旅行社を見つけ、アクロポリス遺跡への道を尋ねる。一本道で、それほど遠くないらしい。遺跡の丘はどこからも見えるから、それを見上げながら丘の周りを時計廻りに半周すればよいとのこと。
丘の登り口を見つけ、パルテノン神殿を目指す。丘の上は、ごつごつした岩場で石材がゴロゴロ転がっていて、建築現場のようだ。いくつかの神殿の廃墟を通り抜け、パルテノン神殿に着いた。大きい。方々でギリシャ・ローマの建物を見てきたが、これだけしっかり立っている神殿はあまりない。丘の上に立っているせいもあるが、聳え立っているという感じである。ほとんどの壁画、装飾などは剥ぎ取られているが、大して影響はない。アテネ最盛期の面影は充分伝わると満足した。丘の上には他の神殿があるが、時間の関係で割愛した。エレクティオンのカリアディスと呼ばれる少女像を見逃したのは残念だが、やむをえない。
シンタグマ広場へ戻り、バスで空港へ向かった。飛行機は定時に出発、バグダッド、カラチ、バンコックを経て、17日に成田に着いた。
パルテノンの丘の上から、市内を見渡すことができる。気が付いたことだが、平らなところがない。全体として、盆地のような地形をしていて、しかも盆地の中に小山がポコポコと生えていると云った感じで、町全体がどこも緩やかな傾斜の上にある。この地形で都市を作ろうとした発想がもう一つ分からない。オープンな平地、海岸線、または四方を囲まれているというわけでもない。山を背景にした城を中心に、そこから市街が広がっているという日本的な発想では理解できないのかもしれない。後背地にあまり関心を持たない都市国家としては、これで通用するのだろう。
2500年前ごろ、この地にアテネのような都市国家が数多くあり、互いに覇権を争い、古代文明を築き、現代の政治、文化、哲学などの礎になっているということ自体が信じがたい。しかし現実に遺跡が残っている以上、嘘でもあるまい。なお、人類の愚かさをすでに当時から示していることも知っておかなければならない。対ペルシャ戦役では全ギリシャが一丸となって戦ったのに、終わった後は仲間内の戦争ばかり続けた。最後は共倒れだった。リーダーであったアテネは民主政治の見本と云われているが、100年余りの民主政治の間,有能な政治家による繁栄を維持できたのは30年、あとは衆愚政治であったという歴史がある。イギリスの首相チャーチルの言った「民主主義は最悪の政治形態と云われてきた、ただ、これまでの政体は別としてだが」の名言をよく吟味すべきだろう。賢明なリーダーに出会えることはめったになく、簡単に衆愚政治に陥る可能性が高いということ。アテネの市内を歩いてそう思った。アテネは今でも生きている。ただしローカルな町として。
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