オーストラリア
オーストラリアは大洋州に属するが、地理的にアジアに近いので、ここでは、東南アジアに繋がる国として書く。訪問先としては、1983年にメルボルンとシドニーに行った。14年後に再度シドニーへ行く機会があった。
メルボルン
1983.5.25〜6.4
5月25日19:30 伊丹発、21:30 成田発でオーストラリアへ向かう。5月26日 7:40シドニー着、国内航空アンセットに乗り換えて、10:15にメルボルンに着く。シドニーは雨だったが、メルボルンは良い天気で、さわやかな気候であった。メルボルン大学の近くの、タウンハウスと称する集合住宅の一画に泊まることになったが、この日は手違いで仕事を始められず、半日市内を散歩した。
オーストラリアでは、いくらでも土地があるせいか、メルボルンの町もだだっ広く広がっているが、シティと呼ばれる中心地は小さい。縦横6本の道で碁盤の目のように仕切られた長方形の区域で、イギリスの中堅都市並みの雰囲気を漂わせ、特に目立つ建物もなく、平凡な、落ち着いた町である。ヤラ川を背にして、フリンダース駅(中央駅)から北に走るスワントン通りがメインストリートで、始点にあるセントポールズ大聖堂辺りが観光の目玉だろうか。もう一つの目玉はキャプテン・クックの生家である。シテイから少し東のフィッツロイ・ガーデンスにある。わざわざイギリスから移築したそうだ。クック船長は、1768年から1779年にかけて、ニュージーランドからアラスカまで探検し、ハワイで殺された。その名は太平洋に鳴り響いているが、先住民にとっては至極迷惑な話であったろう。オーストラリアとニュージーランドから原住民を追い出し、豊かな白人の土地への道筋を作った人だったのだから。タスマニア州(島)に至っては、タスマニア・アポリジニ(原住民)は1876年に絶滅している。
メルボルン市民は世界でも最高級の生活レベルを楽しんでいると云われる。栄養たっぷり、輝くような容姿のご婦人が多い。仕事が終わり、夕食の約束をしたあと、現地の人が姿を消してしまった。夕食まで何をしていたのと後で聞いてみるとスカッシュ(インドアスポーツ)を楽しんでいたとのことで、仕事、仕事と追い回されている日本人と話が噛み合わず、個人の生活をエンジョイしているオーストラリア人を羨ましく思った。イギリスの食事のことを話しているとき、フィッシュアンドチップスが美味しいと云ったら、「あんな貧乏人の食い物が」とバカにされた。この辺になると、イギリス本土への対抗心が透けて見えた。
5月27日から6月4日までワークショップ、学会、展示会などに追い回されて、余暇はほとんどなかった。
シドニー
2回の訪問時の印象を混ぜて書く。一回目の盛り場は二回目では他に移っていた。メルボルンのようなおっとりした町ではなく、若者が多い現代の都市である。
1983.6.4 土
メルボルンを20:00に発って、21:10にシドニーに着く。
1983.6.5 日
代理店のケネディ氏の案内で、シドニーの町をざっと見て回った。
サーキュラーキー
サーキュラーキーはシドニーの中心になる波止場で、鉄道中央駅に相当する。五つの桟橋があり、マンリー・ビーチ、タロンガ動物園。北シドニー、パラマタ(湾最深部)などへのフェリーがひっきりなしに出入りしている。人も多い。ここから、マンリー行のフェリーに乗る。
南太平洋(タスマン海)から内陸に切り込んでいるポート・ジャクソン湾(シドニー港)の中程に位置しているシドニーの町から、あちこち湾内に散らばっている数多くの島々や入り江に渡るためのフェリーボートの桟橋がサーキュラーキーである。
マンリー
サーキュラーキーから小一時間で、マンリーに着いた。見た目、静かな海岸だったが、サーファーには有名なところだそうだ。マリーンスポーツ好きなら堪えられないだろう。
マンリーはポート・ジャクソン湾の太平洋出口北にある海浜リゾート地で、太平洋に面したマンリー・オーシャンビーチは1.5kmも続き、ウォーキングにもサイクリングにも適しているとのこと。
シドニー・ハーバー・ブリッジ
マンリーから車で市内に戻る。北シドニーからシドニー・ハーバー・ブリッジを越えて、市内に入る。ハーバーブリッジはシドニーを代表する建造物の一つで、世界的に有名。橋のアーチを登るブリッジ・クライム・ツアーに人気があるそうだが、止めておく。橋の真下のピア・ワン(ホテル)のカフェでお茶をする。近くのアーガイル・プレイスを散歩した。アーガイル・プレイスには植民地時代の英国風テラス(集合住宅)が残っている。
1997.2.15 土
また、ハーバーブリッジに来た。今回は、橋の下のパイロンルックで橋を見上げる。横を見れば、独特なスタイルのオペラハウスが目に入る。ロックスに行く。
ロックス
1983.6.5. 日
ロックスはハーバーブリッジとサーキュラーキーで挟まれた地区で、初めて英国の移民船団が上陸した場所。名前の通り岩山だが、後年観光スポットとして人が集まるようになった。石だたみの細い路地が多く、観光客用の土産屋や免税店が軒を並べている。マーケットでアトラクションをやっている、若い娘がバイオリンを弾いている。賑やかである。
1997.2.14 金
ロックスのレストランに行く。帆船風にしつらえた食事処で、味はともかく、海を眺めながら食べるのは楽しい。
イタリアン・ヴィレッジというレストランだが、立地場所が売りもの。シドニーにはイタリア系レストランがやたらに多い。当然のことながら、イギリス本土を見習って英国料理店は見当たらない。
1997.2.15 土
相変わらず、ロックスにはなんでもある。マーケット、スクエア、センターなどが、狭い空間に入り乱れて軒を連ねている。ファッション、土産物、ブランド品、レストラン、カフェその他食料品店まで詰まっている。しかし、ロックも変わった。1983年には大道芸やイベントで大賑わいだったマーケットが、今では人もまばらになり、別のアーケードに盛り場が移ってしまっていた。別にロックの地形が変ったわけではなく、古いレンガ造りの建物や細い路地もそのままだが、人の集まる場所が移り変わっていた。
そういえば、東京でも、再開発された場所が10年もたつと、静かになってしまっているところが結構あるが、ここほど時代の移ろいをはっきり見せていた所はあまりなかったような気がする。
オペラハウス
1983.6.5 日
シドニー・オペラハウスは独特の構造で、世界的に知られているので、寄ってみることにした。中には入らなかったが、ずいぶん木材が使われていることがわかる。当たり前のことだが、音楽鑑賞用に建てられているのだ。全体が柔らかく、温かい感じがする。
ヨットの帆のイメージで造られた、この建物はかなり難産の上に、14年もかかって完成した。当初の建築家は途中で逃げ出したと云われている。今では、シドニーのシンボルとなっている。
シティ
1997.2.15 土
サーキュラーキーから、ピッツストリートを歩き、内陸部へ向かうとシティに入る。市庁舎やシドニー・タワーなど新旧、大小のビルディングが立ち並ぶオフィス街で、一階には英国調のパブを散見する。英国紳士の代わりに、Tシャツ、短パンの若者が群がっていた。お土産のオパークやワインなどを買う。
町の雰囲気は英国調とも米国調とも言えない。それこそオーストラリア風なのであろう。
ダーリング・ハーバー
1997.2.10 月
今回はダーリング・ハーバーにある日航ホテルに泊まった。ホテルの窓からシドニー水族館が見える。ダーリング・ハーバーはシティの西側の地区で、もともと港で倉庫や工場が多かったが、再開発によりレクリエーションやコンベンションセンターなどで賑やかな繁華街に模様替えをしたらしい。
日航ホテルはハイアットリージェンシーシドニーと名前が変っている。
夕方、近くの中華街にあるリーガル・レストランに行く。日本を出るとき、食べてこいと勧められたアワビのしゃぶしゃぶを食べる。あまり美味とは思わなかったが、高価だった。珍味であることには間違ない。
タロンガ動物園
1983.6.6 月
数多くの動物もさることながら、オーストリア固有の生物を見ることができる動物園である。また対岸のシドニー市街の眺めもよい。カンガルーが闊歩している。コアラは隔離されていて、見ることはできるが、抱けなかった。第一臭い。あと、カモノハシ、インコ、黒鳥など他の動物園ではあまりいない生物がいっぱいいた。
ブルーマウンテンズ
シドニーの西80kmに位置する高原地帯で、ユーカリが群生し、谷や滝がある景勝地。1959年に国立公園、2000年に世界遺産になった。
1997.2.15 土
シドニーから西へウエスタン・モーターウエイ4号線でブルーマウンテン地区入り口まで走り、グレート・ウエスタン・ハイウエイ32号線に乗り継ぎカトゥーンバの町へ行く。約1時間半。52度の傾斜を持つトロッコ列車「シーニック・レールウエイ」で森の中を急降下し、降り立つとブルーマウンテン高原が一望できる展望台に出る。目の下の崖が緩やかに這い上がり、遠方に至って高台となって広がっているのが見える。空気に青い色が付き、至るところ緑のベルベットで覆われているように見える。すべてユーカリの原生森だそうで、ユーカリの葉から発散する蒸気により山が青く見えるので,ブルーマウンテンと呼ばれるようになったとのこと。気のせいかユーカリの匂いがする。
遊歩道を少し歩き、三つの尖った岩山「スリーシスターズ」が見える位置に移動する。アポリジニの伝説によると、スリーシスターズは3人の娘の変身した姿と伝えられている。通路の外には餌皿が置いてあり、野生のインコが啄んでいる。ブルーマウンテン国立公園はとてつもなく大きく広がっているが、カトゥーンバの町から踏み込む旅人は多くなく、展望台から眺めて帰るのが普通で、我々も例外ではなかった。
結局オーストラリアの魅力は自然なのであろう。孤立したオーストラリア大陸には他の大陸にないものがふんだんにある。旅行ではなく、まだ冒険に適した土地柄で、人の営みを味わう旅をするには1000年は早いという感触である。現代との関わり合いから云うと、地形的に東南アジアに近接しているにもかかわらず、オーストラリアはアジアに目を向けず、英国との繋がりばかり考えてきた歴史がある(英国の植民地だったのだから当然だった)。18世紀に、先住民を一掃し、欧州の移民を受け入れ、白人種の植民地になった。以来、白豪主義と称して白人優先・有色人種排除を貫いてきたが、ヴェトナム戦争後、アジア人を受け入れざるをえなくなったことと、一方英国が欧州だけで手一杯になり、かつアジア勢が力をつけてきたことなどから、表向き白豪主義は姿を消した。政策的にアジアとの交流を進めており、現地で差別を感じることはないが、独善的な気配は時々感じる。国としてはミドル・パワー国家を目指しているようだ。国土は広いが、人口が少ないため、アメリカのような覇権国家になるのは無理だが、発言権は確保したいとかなり奮闘している。他の大国が顧みない隙間を狙って、APEC(アジア太平洋経済協力会議)や国際試験所認定制度などを提案し、実際に立ち上げたのもオーストラリアである。
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