中国(中華人民共和国)

中華文明の影響が大きい日本で育ったので、漢字、漢詩、中国の古典、神話等に興味を持つのは当然だが、なかなか中国を訪れる機会は無かった。ようやく、プラント関連の仕事で、北京と上海に行く機会を得た。1980年前後である。行って分かったことは、実際の中国と、思い込んでいた国とは全く別で、実に、自分勝手だが、活力がある無数の人の集団が結果的にはものすごい力を生み出している国であることは判った。

後年桂林に行った。有名な観光名所だが、典型的な行楽地に化けていて、地方なのに、当世風の観光客受け入れ体制が出来上がっていることに驚かされた。この国の訪れた先、どこも恐ろしい速さで変化している。このままで行けば。中国は巨大な帝国になるだろう。文革のあとの経済の躍進もいずれブレーキが掛かるだろうとの観測もあっけなく覆された。


上海

上海郊外の宝山製鉄所のプラント工事の打ち合わせに上海に2回行った。業務の合間にあちこちをちらっと回った。

1979.3.13 火 上海大厦 817

成田からCA5124便で上海に飛ぶ。それにしても、成田の警備は厳しい。まるで、刑務所行の気分で空港に入った。上海虹橋国際空港に着いた我ら交渉団一行はバスでホテル「上海大厦」に向かう。ホテルは上海の目玉である外灘(ワイタン、英語名バンド)の北端にある高層ビルで、ここからの黄浦江の眺めが良い。


上海大厦は外国人用長期滞在アパートとして1935年に作られた。1951年からホテルになったとのこと。かって、周恩来お気に入りの外灘展望の場所だったらしい。日本が買収した時期もあったし、スパイと云われていた川島芳子が拠点にしたとか、孫文夫人宋慶齢が住んだところだとか聞いている。

外灘は上海の最大観光スポットで、黄浦江西側の中山東路沿いの河岸1.5kmを指す。遊歩道と100年以前に建てられた歴史的な西洋建築ビル群で構成されている。租界時代を象徴する区域だが、そのまま維持されてる。




 1979.3.16 

上海に来てから、4日立ったが、仕事の手筈が遅れ、まだ自分の相当分が始まっておらず、会議場に着いてもすることがなかった。といってもバスで会議場へ送り迎えされるので、単独行動はできない。上海は意外に寒く、特に会議場はよく冷え込む。会議場に使われた体育館はガランと大きいだけで、暖房もない。ホテルから体育館までのコースも分からないが、それでもバスから眺める光景は驚き以外の何物でもなかった。都心を突っ切って、バスが行くのだが、群衆の群れが海のように漂っているところをかき分けて走る。危ないと思っていると、バスが通過する直前に人の波が、ぱあーっと割れて道ができる。信号はわずか2,3個所位しかないが、常時赤信号のままである。バスが通過するときに急に青信号に変わる。バスは何の支障もなく、飛ばしていく。唖然とするのみ。


虹口(ホンキュー)

ホテルに帰ってから、ホテルの近くにある虹口区を散歩する。旧日本人租界だそうで、10万人の日本人が住んでいたとのことだが、今はもう日本人はいない。外灘のような英仏租界とは違い、ビルはない。大きめの長屋のような建物が並んでいる。2階、3階と上に行くほど、道路に張り出していく構造で、道を覆っている感じ。さらに奥に進むと魯迅公園に突き当たる。ここに魯迅の墓もある。この辺りは日本人作家が出入りしたところで、日中の架け橋だった内山書店の跡も残っている。町として名所が残っているわけではなく、以前日中文化人の交流の土地だったという感慨のみを抱いて帰ってきた。


租界とは、英国、フランスおよびアメリカが中国(清王朝)から土地を借りていた場所だが、治外法権を持ち、事実上外国が支配していた。日本の租界は正式ではないが、日本人が多く住んだ地域が事実上日本租界となっていた。第二次世界大戦が終わるまで続いたが、無国籍都市あるいは無法地帯といったところだったようである。この租界が上海の核になり発展していったことが、今の上海の繁栄と特異性を生み出している。

1979.3.17 土

いよいよ仕事に掛かる。必要な施設、装備、装置を決めていくのだが、ネゴシエーションのルールが全く噛み合わない。当方から提案していくのだが、ことごとく反論される。提案理由を細かに説明するほど、最新技術であることの証明を求められる。目的に最適の技術だと云っても、最先端のものではない、使い古しは要らないとの一点張り。先端技術に拘ると、本来の目的を達成できなくなると説いても、構わないとのこと。やむを得ず、目新しいものを並べる。翌日、昨日の提案は最新鋭のものか疑問であるとの質問から始まり、前日の議論が繰り返される。結局時間切れまで、押し問答であった。要は粘れるだけ、粘って相手の本音を引き出すのが中国商法かと納得した。何が本当に必要かは別の話のようで、相手への気遣いは無用らしい。

帰り道、上海市北西の宝山地区に回った。宝山製鉄所建設予定地だが、長江(揚子江)に面している。何もない荒れ地だった。目の前の長江の対岸は見えず、海と勘違いしてしまう。一緒に眺めていた商社の人が、日本の技術を売れば、いずれライバルになるだけなのだが、今の売り上げのためにはしょうがないと嘆いていた。


現在の宝山製鉄所は従業員4万人の大工場となっている。

1979.3.18 日

一日空いた。上海と蘇州の町を見て回ることにした。

  上海県城

上海といっても、外灘を散歩する以外には、上海県城を見て回る程度であった。知らなかったが、上海には1000年続く旧市街があり、城壁で囲まれていたらしい。今は新しい上海に取り囲まれて、目立たないが、城壁の跡は残っていて、城壁の内側を上海県城と云うらしい。上海県城での名所といえば豫園である。名前だけは日本でもよく聞く、そして豫園という名前の中華料理店は東京にいくつもある。話は飛ぶが、本場の上海料理はおいしい。太りそうである。


  豫園

豫園は庭園である。規模の大きい箱庭といった感じで、自然と調和している日本の庭園とか人工美を誇る欧州の庭園などとは違い、奇岩奇石、凝った東屋や折曲がる橋などが売りものである。商人の会所としての東屋(亭)が多いうえに、あちこちの壁が邪魔で、せせこましい感じさえした。大勢の人が曲がりくねる橋を漫然と渡り歩いている。のどかと云えば、長閑である。引き続いて蘇州へ行く。


  蘇州

蘇州は上海の西どなりの町である。蘇州は、蘇州夜曲とか、漢詩「楓橋夜泊」などいろいろ聞き及んでいたので、期待はしていたのだが、見事に裏切られた。楓橋夜泊と実際を対比してみる。月落ち烏啼き霜天に満つ → この町中で? 江楓漁火愁眠に対す→ 掘割運河での釣り船か? 故蘇城外寒山寺 → 確かに街外れだが、趣はあるの? 夜半鐘声客船に到る → すぐ隣の運河に届く鐘の音だが? 寒山寺にはしょぼくれた鐘撞堂が、そして黒ずんだ運河には運送船が浮かんでいるのみ。詩人張継の詩才を称えるべきか、それとも歳月か、受け取る方が鈍いのか。何しろ「白髪三千丈」と詠い上げる国である。


蘇州は戦国時代(紀元前34世紀)から存在した町で、今でも商業・産業が盛んである。また、世界遺産に指定されている拙政園、留園、獅子林、滄浪園などの著名な庭園がいくつもある。町の西側に太湖があり、太湖石と呼ばれる奇岩を産出し、多くの庭園に使われている。

 拙政園

中国四大名園の一つだそうである。敷地4万平方メートルの中に凝った楼閣、回廊、池などがある。


 滄浪亭

蘇州で最も古い庭園で、唐時代末期に作られた。回廊の漏窓(透かし窓)がそれぞれ凝った造りになっている。


 留園、獅子林

どちらの庭園も太湖から運ばれた穴だらけの奇岩奇石で飾られている。留園では高さ6メートルの太湖石「冠雲峰」が売りものである。


杭州  

二度目の上海行の時、杭州を訪れることができた。

1979.9.9

上海から観光バスを仕立てて、杭州に行く。約150km。杭州は六大古都の一つで、蘇州と共に、中国江南地方の代表的な観光名所である。町の中心に西湖があり、西側は山、東側は市街である。


西湖

古今東西で有名な湖だが、取り立ててこれはという印象はなかった。でも詩人蘇東坡が愛した湖とあれば、彼が発明した東坡肉(トンポーロー)と同じように尊重したほうがよさそうである。湖の周りを廻る。蘇東坡が作ったとされる蘇堤や白堤をうろつく。湖中の田の字型の島、三譚印月で湖面を眺める。まあ穏やかな景色で、ぼーっと一日を過ごすことができれば最高だろう。


 

ここの景色をまとめて西湖十景というらしい。雪が解けて橋が切れて見える「断橋残雪」、月見の名所「平湖秋月」、「三譚印月」、牡丹と鯉の「花港観魚」、「南屏晩鐘」、「雷峰夕照」、蓮の花の「曲院風荷」、「柳浪聞鶯」、「蘇提春暁」、「双峰挿雲」と、いかにも中国らしい名付け方である。



  六和塔

西湖から南に行くと、銭塘江という大河にでる。この川岸に六和塔という古い建物を見に行ったのだが、河が気になった。「呉越同舟」の舞台なのではないだろうか。孫子では河の名前は記されていないのだが、銭塘江が呉と越の国境であったことは間違いない。大袈裟だが、2500年前の現場を見ている心境になった。今は鉄橋ができていて、列車が渡っていく。


三度目の上海

桂林の会議に参加するために途中上海に寄った。27年ぶり。あまりにも変わっていたので、項目を別にした。

2006.2.28

ANA1919便で成田を945に離陸、上海浦東国際空港に1205に着く。乗り継ぐために、上海虹橋空港に移動する。昔と違って、車の群れの中をバスが走る。たちまち渋滞の渦に巻き込まれる。27年間の変化をはっきりと見せてくれる。16:45に上海航空FM9331便で桂林へ向かう。1905桂林着。


西の上海虹橋空港は昔からの空港だが、東の浦東空港は長江の河口に面した新しい空港で1999年に開港した。乗り継ぎには4時間ほどを見ておく必要がある。

2006.3.4 中油陽光大酒店

桂林1020発中華航空CA4323で上海に向かう。12:25上海虹橋空港に1225着。高度が低いせいか、飛行機が揺れ、気分が悪くなる。この日、日本への便の都合がつかず、一泊する。午後3時、ホテルのチェックインを済ませ、早速外灘へ行く。黄浦江の西岸の遊歩道、列をなして並び立つビル群などに変わりはない。ただ、以前は泥で描いた白黒絵だった町に色が塗られたようだ。そこに、色とりどりの服装の観光客がそぞろ歩いている。立派な公衆トイレまで出来ている。




外灘を降りて西へ、中山東一路を横切り、南京東路に入る。歩行者天国(歩行街)になっている。賑やかなこと。建物はカラフルな看板だらけ。変われば変わるものだ。昔の上海は何処へ行ったのだろうか。でも昔のように、焼き栗売り少女は残っていた。




人民公園まで、あちこち覗きながら、ぶらつく。夕方になり、南京東路に並行する福州路を戻る。福州路は昔、夢の四馬路(スマロ)と呼ばれた歓楽街で、小説、漫画や歌の舞台であった。今は普通の街。この通りにある杏花楼(広東料理)で食事を取る。残念ながら、疲れていたせいか、味が判らなかった。くたびれ果てて浦東地区にあるホテルに帰る。浦東地区は、黄浦江東岸の何もなかった空き地に高層ビルをニョキニョキ建てた新開地だが、どうにも関心が向かない。


考えてみれば、新しく開発された地区なのに、浦東を歩いてみようとは、まったく思わなかった。外灘から黄浦江越しに見える、けばけばしい浦東にげんなりして、見たいとは思わなかったわけだ。若かったら、最新開発地区だとして、興味が湧いたかもしれない。

 2006.3.5

全日空920便で1325上海浦東空港を立ち、1650成田に着いた。

北京と山東省 

黄河河口周辺の勝利油田を利用した石油化学工業集団が作られることになり、その打ち合わせに北京及び現地(山東省)に出張した。

 北京から淄博市へ

1980.3.7(金)北京、新橋飯店 570号室 

JL781便で成田を835に出発し、定刻に北京についた。今日からボーイングDC-10が飛ぶという最初の日で、機内は幾分ゆったりしていた。北京空港も、昨年カイロに行くときに寄った空港ではなく、新しく、立派になっていた。北京の町は中国の首都であり、気品のある良い町で、天安門付近を散歩したが、壮大なスケールを持っている。天気も上々、日本より暖かい。もっともまた、寒くなるらしい。

新橋飯店は町の中心にあり、天安門広場に近い。天安門は紫禁城(故宮)の正門で、よく知られているように、馬鹿でかい赤色の城壁のような建物である。その前の広大な空間が天安門広場だが、面白みは全くない。観光客がパラパラと散っているだけ。しかし一旦、事が生じると、天安門事件のように、国と人民の対決の場として巨大なエネルギーが渦巻くことになる。群衆の群れ、空間の大きさも桁外れの国であることをいやと云うほど知らされる。


天安門広場から戻り、王府井(ワンフーチン)大街に出る。故宮の東側に、故宮と並行する大通りで、北京一の繁華街と聞いて行ったが、通りの両側に、それぞれ間隔をあけながら店が並んでいるところが多く、店に入ろうとすると、神社仏閣に参詣するような気分になる。多くの店は古書、書画、骨とう品の類を扱っていた。今でも賑やかな通りだそうだが、すっかり変わってしまい、昔の雰囲気を偲べそうもない。ネットで写真を探したが、記憶に合うものはなかった。多少古い映像を参考までに載せる。


1980.3.8(土)山東省淄博市(現 東営市)勝利石油化工総省第三招待所 

北京発1400の寝台急行に乗る。天津(テンシン)、済南(サイナン)を通り、淄博(シハク)駅で乗り換え、終点の辛店という駅で降りた。途中、黄河を渡るので、デッキに出てみた。月明かりに黒々と見える黄河は思ったより幅狭く、拍子抜けした。終着駅に着いたのは、夜の1時半。寝台列車そのものは青島(チンタオ)行きで、青島には朝着くのだそうだ。先遣隊18名と合流して、合計23名となり、予定としては2週間、会議を続け、26日には北京に戻り、29日帰国の予定、今のところ、この予定通りに進んでいるが、会議の内容がかなりあるので、心配である。一応、中国方も日本方もこの時間表で進めるつもりでいる。この招待所はまあまあのホテルだが、周りには何もなく、一歩も外に出ない日が続くことになる。付近には広々とした畑があるだけ。


招待所という名前の設備だったが、正確な住所は不明、とりあえず、淄博市のどこかだったとしておこう現在の東営市のどこかでもある)。招待所には宿泊施設も会議場もあり、この中で24時間暮らすことになった。学校のような建物だったが、畑の中に一軒ぽつんと立っている。外出が禁止されているわけではないが、出てみても人家が数軒遠くに見えるだけで、あとは何もなく、どうしようもない。民家も地面から生えているように作られていて、土台がない。入り口に高低差がないから外の路地がそのまま室内に繋がる。これが中国の農村の実体かと思った。もっとも世界的には日本の高床式建屋の方が少数派なのかもしれない。辛店は、現代の寒村だったかもしれないが、3000年前、春秋時代の斉の国の都で、交通の要所だったとのことである。勿論何も残っていない。新興石油都市として、1983年に東営市という地方都市となった。


1980.3.22 (日) 中華人民共和国山東省淄博137信箱気付

日本を出てから、2週間以上になる。ようやく仕事も峠を越し、来週で終わりになる。しかし、連日会議、夜はその準備と追われ、悲鳴を上げている。最初、腹をこわし、それから食事に気をつけるようになり、大丈夫になった。なにしろ区切られた区画から一歩も外へ出ないので、いい加減飽きてきた。それでも、昼はソフトボールで時間を紛らわしている。322日の朝、雪が降った。しかし地面に青い色が見えるようになった。もうすぐ春がくる。

とても3月の気候とは思えない。コートを着ないで、表で遊んだため、危うく凍傷になりかかった。あまり感じなかったのだが、かなり寒かったらしい。そう云えば、相手方は皆綿入れの分厚い上着を室内でも着ていた。

食べ物は合わない。味が濃く、辛い。上海の方がずっと旨い。

 北京

3月28日に辛店を出発、329日に北京に戻った。本部の都合で、二日待たされることになったので、万里の長城と明の十三陵を見に行った。

1980.3.30(日)

 万里の長城

中国と云えば、万里の長城というほど、有名である。その中で、北京から北西へ60km離れたところにある八達嶺長城が観光地として特に人気がある。そこへ、バスを仕立てて一行で乗り込んだ。ちょっとした駐車場があって、そこを降りると目の前に石とレンガの壁が立っている。長城である。上に登ると、左右に延々と石壁が伸びている。はるか彼方まで、山々が重なって続いていて、その稜線上に白い糸を置いたように長城が繋がっていく光景は絵空事のように思える(実在しているのだが)。長城の上は、確かに馬がすれ違えるほどの幅がある通路になっているが、山の尾根に沿っている石壁道路なので、上り下りの勾配もかなり急で、転げ落ちそうになる。この上を騎馬で駆け巡るなど、本当にできたのだろうか。帰り道、明の十三陵に寄る。


   

長城の中に立って、辺りを見回した時は、「なんというものを作ったのか」という慨嘆だけだった。東は黄海の山海関から、西はシルクロードの嘉峪関まで、総計2万キロの長さがあると云われている。しかし目の前の石の壁が2万キロ続いていると思うと、その防衛努力に呆れるとともに、元朝や清朝など北方民族に支配されていた時期があったことを考えると有事に有効だったのかなとも思う。もっとも明王朝のような漢民族の王朝にとっては必死の防衛線だったのだが。

明の13

明王朝の13代の皇帝の墓があると聞いて寄った、ちょうど長城からの帰り道になる。バスを降りて、長い参道を歩いていくと、山間に陵墓が現れる。三代目の永楽帝の長陵から最後の皇帝の思陵まで、1400年頃から1640年頃までの、約200年間にわたる陵墓群である。まず長陵を眺め、その規模を味わってから、公開されている定陵(万歴帝の墓)に行く。門、祭殿を過ぎて、円形の地下宮殿に入る。かなり深い。しんとして、冷やかな空気が漂う。玄室の中殿に帝と皇后のための石の玉座が置かれている。玉座の前の、人の丈をはるかに越すような、大きな藍染付の陶磁器の容器が目を引く。容器には、永遠に明かりが灯るように、油が満たしてあったらしい。しかし永久に灯ることはなく、密閉された空間だったため、酸欠で燈心の火は消えてしまったらしい。全体として、煌びやかなイメージは無かった。盗掘は無かったみたい。


一つの谷あいに13人の墓が並んでいる明の十三陵は、エジプトの王家の谷と同じ発想である。人のやることは、時代、場所が変わっても、変わらないのである。ちょっと異なるのは、こちらに復活・再生の思想があまり強くないこと、そして、初代永楽帝の長陵を凌ぐ大きい陵墓がないことから、先帝の陵より大きくしてはならないという、先祖崇拝の観念が認められることである。いかにも東洋らしいと思う。

1980.3.31(月)

 故宮博物館(紫禁城)

いよいよ紫禁城を見に行く。一日、時間をかけるつもりで出かけた。紫禁城は北京の中心に位置している。四方を堀(筒子河)、城壁で囲まれた、縦に長い長方形の石造りの区画である。この縦長の長方形の中心線に主要な建物が並んでいて、南半分(外朝)はほとんど石の庭、北半分(内廷)には建物が密集している。まず、南の入り口である午門から入る。午門自体が一つの城塞である。相対的に小さな通路を潜って中に入る。キラキラ光る石畳みが視野一杯に広がる。人工的な川が流れていて、5筋の白い橋(金水橋)が架かっている。正面に太和門が立っている。そこを通り抜けると、さらに広い空間が広がっている。


突き当りの基壇の上に太和殿が重々しく立ち塞がっている。あとは、ただ石畳みだけが広がっているだけ。そこを歩いてみるが、がらんとした広場を感じるだけ。ここで、儀式等で数万人が皇帝に一斉に叩頭している光景を想像してみるが、ピンとこない。しかし、ここで下手をすれば生命の危険もあったろうから、張り詰めた、ものすごい緊張感があったのだろうと身震いがする。イスラム教のモスクで礼拝する人々を想い起こせば、少しは見当がつくか? 太和殿を覗いてみる。中央奥に玉座が見える。形式的には寺院の内陣と似ているが、わが国では、鎮座しているのは仏像であって、生身の人間ではない。当方日本人だから、仏像に違和感はないが、本来は権力者の座であるはずだと、なんとなく納得する。 太和殿の後ろには、中和殿、保和殿と宮殿が続く。故宮の三大宮殿である。


さらに、そのうしろに後三宮と称する三つの小宮殿が同じ直線上に並んでいる。北の居住区(内廷)である。左右に、大きいのやら、小さいのやら、いろいろな建物が数多く散らばっている。その間をうろつく。東の端に、九龍壁を見つける。九匹の龍の陶磁器レリーフが嵌め込まれた、長さ30メートルの壁である。見ごたえはある。


さらに、あちこち歩いているうちに、一つの建物の回廊に収蔵品が陳列されているのを見つけ、行ってみる。陶磁器の皿や瓶などが、ガラス棚に中に無造作に置かれている。安物の骨董屋じゃないかと思った。その時、紫禁城そのものが博物館であって、大した財宝は残っていない筈だと思い出した。ここから持ち出せる宝物はほとんど台湾の故宮博物館に持っていかれたと聞いている。なんだか、急に疲れて、座り込みたくなった。見て回ろうという意欲も沈んでしまい、見物を止めた。遠くに、北海公園の白い塔がかすかに見えた。まだ、見るべきところはあるのだろうが、広すぎる。これで戻ることにした。


紫禁城は500年の間、明と清の二つの王朝の宮城だった。1912年、清の最後の皇帝溥儀が退位した後は、紫禁城は博物館になり、故宮と呼ばれるようになった。敷地は縦1km、幅750mの長方形で、南半分は外朝と呼ばれ、行事や式典用の区域で、南北の中心線に並んだ巨大な建物である太和門、太和殿、中和殿、保和殿等以外は石を敷き詰めた庭である。いかにも人工的で無機質な広場である。式典の時など、官吏が広場一杯に立ち並んだという。北半分は内廷と呼ばれ、皇帝の事務兼居住区で、数多くの建物が迷路のように立ち並んでいた。あまり手入れがされていないようだった。今は観光用に整備されているらしい。故宮全体として、基本色は白、瓦は金色、壁は朱色、ところどころ黄色と緑色と、派手といえば、派手である。重厚で、重々しく、沈んだ雰囲気を持つ北京市内と対照的である。北海公園は故宮の西北にある。

北京ダックを食べに行った。有名な全聚徳烤鴨店を予約できなかったので、2番目と聞いたお店で我慢した。店の中は人で一杯、もうもうと煙が上がっている。本物の北京ダックにあり付けると固唾をのんだ。焼きたてパリパリの皮とネギ、キュウリを薄餅に乗せ、味噌だれをつけて、巻いて食べる。そこそこ美味しかったが、若干アヒルの肉が付いていた。皮だけのほうが旨いのではと思った。あまり綺麗そうではない皿を放り出すように配るところは、少し気に入らないが、あっという間に食べてお終いになった。どうした訳か、店名を覚えていない。残念。

1980.4.1

 北京発、成田へ。成田に一泊。42日に京都に帰り着いた。

 桂林

たまたま桂林で開かれる会議に参加できる機会を得た。予期していなかったので、桂林を訪ねるのが楽しみだった。結論から言うと、今まで行った町々とどこか異なる空気があった。やはり中国というのは異次元の空間である。

2006.2.28 火 桂林賓館

全日空919便で成田を945に発ち、上海浦東空港に1205に着いた。時差1時間。バスで国内線の上海虹橋空港に2.45に着く。上海航空FM9331便で1645発、1905に桂林に着いた。ホテルは桂林賓館。


桂林は広西チワン族自治区の東北に位置していて、上海からは南西へ約1300km離れている。チワン族自治区はヴェトナムと国境を接している。チワン族は少数民族だが(それでも1400万人)、実際には漢人が7割を占めている。桂林は観光地として有名である。桂林の歴史は古く、秦の始皇帝時代から中国の郡になっている

2006.3.1 水 

夕方7時ごろから町を歩く。露店がある、賑やか。



桂林の町は、漓江(りこう)と桃花江の二つの河と杉湖,榕湖など4つの湖に囲まれた中洲で、中心を南北に通る中山中路がメインストリートである。全て舗装された整った市街である。榕湖の端に立っている桂林賓館から東に行くと中山中路と交差する。この辺辺に露店が出ていた。煌々と輝いているわけではないが、昔ながらの露店風景だった。

2006.3.2 木

午後、前日の散歩道を辿り、中山中路から杉湖のほとりに立つ日月塔へと歩く。そこから漓江と桃花江の合流点に出て、象山公園に向かう。桂林市内には目立つカルスト地形はないが、象が漓江に鼻を突っ込んでいる形の象鼻山でチラッとそれらしい地形がある。夕方は参加者が集まり会食となる。食べるどころか、飲み会になってしまい、折角のご馳走の味が判らなくなってしまった。



日月塔の金色が日塔、銀色が月塔、日塔は銅製、月塔はガラス製とのこと。

桂林は、石灰岩の地層が雨水などによって溶食された、奇岩が立ち並ぶカルスト地形で、タワーカルストと呼ばれる。

2006.3.3 金 桂林観光

今日は漓江下りで1日過ごした。桂林から陽朔までの船旅である。ホテルから南の竹江埠頭までバスで移動する。結構遠い。10時ごろに遊覧船が出航した。天気は上々。ほとんど波のない水面を滑るように走る。両岸に竹の子のように小山が生えている。



名前の付いている岩が多いらしいが、ほとんどわからない。「百里の漓江は百里の画廊」と云われていて、40個所位の景色に名前が付いているらしい。あれだ、これだ、と騒いでいるうちに船は通り過ぎてしまった。写真を撮り、いくつか名前を書き留めたが、自信はまったくない。

 柳堤風光

 もっとも桂林らしい景色と云われる。河岸の竹藪も風景の内。天女が住み着いたという伝説がある。


 九馬画山

 岩肌に9頭の馬が隠れていると云われるが、まったくわからない。


黄布倒影

水中の黄色い石が透けて見えることから付いた名前というが、水面の反射加減で影が見えると云った方がよさそう。


昼食を船上で取った。4,5時間立っただろうか、陽朔の町に着いた(陽朔は桂林の下流70kmのところにある小さな町)。船着き場で鵜の写真を撮ろうとしたら、絡まれた。金を払えということのようだが、振り切る。実は写真も取れていなかった。船着き場から陽朔の、土産物屋が立ち並んでいる大通りをバス駐車場まで歩く。



そこからバスで移動、山腹に丸い穴が開いている月亮山を眺め、ガジュマルの巨木などを見物しながら、鍾乳洞(銀子岩)へ行く。中は蒸し暑い。



夕食後、野外劇場に行く。会場の暗闇の中の下り坂を降りながら、手探りで席を探す。よく見えないが、カルスト地形に囲まれた円形劇場で、漓江が前面にあるらしい。その水面が舞台で、色々な群舞が繰り広げられる。「印象・劉三姐ショー」と云うらしいが、特に物語があるようには思えなかった。ショーが終わって、バスで桂林まで戻る。宿舎に戻ったら夜11時を過ぎていた。


月亮山は、中腹に開いた穴が月のように見えることからその名がついたそうで、このような山は珍しいらしい。ガジュマルは1500年の樹齢を経た巨木で、森のような木陰を作っている。大榕樹景区と呼ばれ、伝説の場所だそうだ。この辺には、多くの鍾乳洞があるそうだが、訪れたのは銀子岩という鍾乳洞だった。

劉三姐は広西チワン族の伝説上の歌姫だと聞いた。劉三姐といえば、1962年に東京労音で「劉三姐」ミュージカルを上演して、人気があったということを聞いた。ずいぶん以前の話である。

2006.3.4 土

中国国際航空4323便で桂林を1020に発ち、1225に上海虹橋空港に着いた。高度が低いせいか、よく揺れる。飛行機に酔ってしまった。翌35日上海浦東空港13:15発の全日空920便で帰国、1650に成田に着いた。

桂林がこれほど整備された街だとは思いも寄らなかったので、かなり驚いた。桂林が観光にいかに力を注いでいるか、よくわかった。観光客はほとんど中国人で、ずいぶん豊かな国になったものだ。陽朔は普通の田舎街だったが、いずれ桂林並みになるのだろう。

 中国には、シルクロード、チベット、東北地方(旧満洲)など、行ってみたいところが多かったが、回れなかった。結局、東側の北京、上海、桂林に行っただけだが、それでも他の国とは異質な文明を持っていることが明らかである。漢字による思考方法が独特なのかもしれないが、欧米の単純な力と策略の戦略とは相容れない複雑な発想をする人々と思ってしまった。

 

 

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