カンボジア 

カンボジアを訪ねる機会があるとは思ってもいなかった。ビジネス機会のほとんど無かった国で、しかも文化遺産はジャングルに埋もれていると思い込んでいたし、またポル・ポト政権によるキリング・フィールドのイメージから、行くのは無理と決めていた。ところが、近年になって、ヴェトナムから簡単にカンボジアへ行けると教えられ、ヴェトナム・カンボジア旅行に参加することになり、行くことになった。実態は、他のメンバーは皆旅慣れしているので、当方はおんぶにだっこの旅に出たと云うのが本当のところである。ヴェトナムについては、“ヴェトナム2010&2013”の日誌にまとめてある。

シェム・リアップ

2013.2.26 火 Chateau d’Angkor La Residence シェム・リアップ

1530ハノイ発のヴェトナム航空VN837でカンボジア シェム・リアップに飛ぶ。1710着。小さなローカル空港で、到着後、ビザを申請する(事前にビザを取らなくても大丈夫と聞いていたが、ちょっと心配だった)。記入内容を書き間違えたが、入国審査官は全く気にせず、受け取った。要はお金で、20ドルを払えばOKとのこと。1730にホーチミンから来た別動隊グループと落ち合い、国道6号線をまっすぐ東へ、ホテルを目指す。着いたホテルがゴージャスだったので、えっと思ったらやはり間違いで、仕切り直し。でも、まずまずのホテルで安心する。カンボジアは予想していたよりはるかに開けている。ホテルの応対も良いし、治安も良い。町はきちんと整備されている。かっての東欧と雲泥の差がある。つまり、この数十年で、世界全体がレベルアップしているということ。ホテルの一つの部屋に集まり、食べ物を取り寄せ、皆で会食。


この計画を立てるまで、シェム・リアップと云う町があることを知らなかった。カンボジアの真ん中に位置し、東南アジア最大の湖トンレサップの近くにあることを、着いてから初めて知った。17世紀にシャム(タイ)に勝ったことから「タイの負けた土地」という名前の町“シエム・リアップ”が誕生したそうである。現在はアンコール・ワットの観光の拠点として、人が溢れていて、ホテルも多い。

2013.2.28 木

午前中でアンコール遺跡観光を終え、ホテルに戻り、その先の旧市場に行く。例によって、なんでもあるが、土産物屋で面白そうな雑貨を買う。この後、シエム・リアップ発1745のヴェトナム航空VN813でヴェトナムのホーチミンに向かった。


シェム・リアップは国道6号線とシェムリアップ川が交差する場所にある。川を北に行くと、アンコール・ワットとアンコール・トムに辿り着き、南に行くと旧市街になる。町の中心には洒落たホテルが立ち並び、カンボジアの田舎町という感じは全くない。

アンコール遺跡群

遺跡として、アンコール・ワットのことはよく聞いていた。しかし実際にはどうなっているのかまったく知らなかった。実情は、遺跡群であって、アンコール・ワットはその一つ、もう一つ大きいのはアンコール・トムである。近くのトンレサップ湖周辺に散在する多くの遺跡もあって、これらを含むアンコール遺跡地区は関東平野ほどの広さになるそうである。


2013.2.27 水

プノン・バケン

うっすらと朝靄が掛かっているが、さわやかな空の下、ホテルのバルコニーで朝食を取った後、ガイド付き大型タクシーをチャーターして、アンコール遺跡に出発する。シエム・リアップからアンコール・ワットまで約5km。途中の料金所で三日間有効な入場券を購入する。入場券は顔写真入りで、写真はその場で撮られる。手続きに、少し時間がかかるので、料金所はいつも人が群れていた。アンコール・ワットの西参道に突き当たり、そこを左折してプノン・パケンに向かう。プノン・バケンは小さい山で、60mほど登ると広場があり、奥にプノン・バケン遺跡がある。最初に、ここへ来たのは、アンコール遺跡全体を見渡せるからとガイドから説明された。ぐるりと周りを見るが、ほとんど樹海しか見えない。アンコール・ワットの尖塔が小さく見える。




プノン・バケンは9世紀末に作られたヒンドゥー教の寺院である。インドの神々の山、須弥山を模したと云われている。

アンコール・トム

山を下りて、アンコール・トム(大きな都)に向かう。車を降りて、象の列とすれ違いながら、南大門に行く。門を潜る手前の参道の欄干に蛇の胴を抱えて綱引きをしている神々と阿修羅の彫像が並んでいる(綱引きの結果、海が乳状になり、不老不死の妙薬が得られたと云う乳海攪拌の神話からの彫刻)。



南大門の上部には人面(仏顔)が彫られている。大門はそのまま城壁に繋がり、一辺が3kmの大きな正方形の区画を作っている。正方形の中心にはバイヨン寺院が配置され、そこから四方に参道が伸び、それぞれ、東、北、西、南大門に繋がっている。北に王宮の区画があり、高台になっているが、正面(東側)はテラスと一体化している。その他にも、パプーオンなどの遺跡が散らばっている。広いはずだが、樹海に阻まれて、視界が広がらない。とにかく昔の都の跡である。


アンコール・トムを一望することはできない。密林を歩いていると、遺跡がフッと現れると云った感じであった。気持ちを整理できないまま、ガイドに引っ張られて、大いなる都城をうろついた。

アンコール・トムを作ったのは、ジャヤヴァルマン七世(1181-1218)、アンコール(クメール)朝最盛期の王で、仏教徒だった。アンコール朝は9世紀から15世紀にかけて、今のタイ、カンボジア、ラオス、ヴェトナムにまたがる大王国だったそうである。

バイヨン

バイヨンに匹敵する遺跡を世界で見かけたことはない。半ば崩れた建物群の中を歩くと足元の石畳が歪んでいて、転びそうになる。目の前に石の壁が立ち塞がり、どこにいるのか分からなくなる。ひょっと上を見ると微かに笑っている人面(菩薩の顔)が覗いている。はっと横上を見ると同じような人面が、振りむけば別の仏顔がほほ笑んでいる。暑さは30℃をはるかに越えているが、急に汗が引く奇妙なロケーション。すべて塔という塔から大きな顔がこちらを見ている。現世ではない、幻想の世界にいるのだという思い込みが生じる。アンコール遺跡の中で最も印象に残る場所だった。




バイヨンは第一回廊、第二回廊、中央祠堂から成り立っているというけれども、混み入った造りになっていて、配置が判らない。闇雲に歩く。回廊に彫られた浮き彫りもしっかり見たいが、落ち着いてみるほどの余裕がない。女神像も素晴らしい。納得するまで鑑賞したいが、少なくとも一週間は欲しい。



バイヨンの迫力は格別である。何が何だかわからないが、でも何かあるという奇妙な感覚が残った。これだけの存在感を持つ遺跡は世界にも、そうざらにはない。仏顔四面塔はアンコール・ワットにはなく、ジャヤヴァルマン七世時代の遺跡に限られるようだ。ガイドブックには観世音菩薩とあるが、日本の観音様の顔ではない。インド風でもなく、独特の顔つきで、不思議な雰囲気を醸し出している。

   王宮

アンコール・トムの北西の一角に周壁に囲まれた王宮の跡がある。王宮は木造だったそうで、土台しか残っていない。東正面に、象のテラスとライ王のテラスが残っている。王達が閲兵を行った時のお立ち台である。広すぎて、前を通り抜けるだけで精一杯。


二つのテラスの間から東へ出る参道である勝利の門を辿って、王宮を抜け、アンコール・トムからアンコール・ワットに戻り、外のカフェでランチを取る。

象のテラスの正面の階段には、砂岩に刻まれた6頭の象が左右に控えている。周壁にも象の浮彫が犇めいている。ライ王のテラスの由来には諸説あり、はっきりしない。壁には色々な彫刻が彫られている。

アンコール・ワット

午後、いよいよアンコール・ワットに向かう。西参道正面から入る。


左右の環濠の間を延々と歩く。やたら暑く、汗をかくが、シャツは濡れない。すぐ汗は蒸発してしまうらしい。最初の周壁を潜り抜けると、やっと中央の塔(祠堂)が見える。そこからさらに延々と歩く。一旦立ち止まり、手前の聖池から全体を眺める。


600mで第一回廊に辿り着く。第一回廊の浮彫が有名と聞いていたが、一辺80mの回廊の浮彫を丁寧には見ていられない。わずかにインドの叙事詩神話、マハーバーラタとラーマーヤナの物語が描かれていると分かった程度(マハーバーラタは5人の王子と100人の兄弟の戦い、ラーマーヤナでは猿の将軍が活躍)、他にクメール軍の戦いなどが描かれている。これらのことから、この寺院は元来ヒンドゥー教だと分かる(アンコール王都が放棄された後は仏教に変わったが)。


第一回廊から高台の第二回廊に入る。中は結構狭く、第三回廊が中央の場所を占めている。第三回廊まで行けば中央祠堂が聳え立っている筈だが、第三回廊に行くためにはかなり急峻な階段を上がらなければならない。とても無理と諦めて、他のメンバーが上がっていくのを眺めていた。上はもっと狭かったそうだ。結局、第一、第二、第三回廊と入れ子になっていて、それぞれ高くなっていくので、ピラミッド形式にはなっている。


中央祠堂の尖塔の高さは65mだそうだが、全体の敷地が広いため、高いと感じない。アンコール・ワットそれ自体はずいぶん平面的な広がりをもつ空間だと思う。思想的には、ピラミッドとまったく違う寺院で、広大な大海原(環濠)に囲まれたヒマラヤ連峰(第一、第二回廊)の中の神々の住まいである須弥山(中央祠堂)を配置した構図になっていると言われている。

ガイドブックには、祠堂、環濠、周壁とか、普段使わない用語がでてくる。適当な用語がないのでしようがないが、写真で確認するしかない。祠堂は本殿と考えたらよさそうである。

第一と第二回廊の間の十字回廊の柱に、江戸時代の1632年に訪れた日本の森本右近太夫一房の落書きがあるが、このことは、アンコール・ワットが1860年にフランス人アンリ・ムオによって発見されたのではなく、以前から知られていた、つまり、知る人ぞ知るという状況だったのだ。


もう一つ、アンコール・ワットの壁は浮彫で埋め尽くされているが、特に女神像が人の目を引く。インドのように肉感的な像ではなく、慎ましく、優しそうな、スラットとした女神像である。


アンコールワットを作ったのはクメール朝のスールヤヴァルマン二世で、即位した1113年から30年かけて建立したヒンドゥー教の寺院で、彼のお墓でもある。人の出入りするところではなく、儀式を執り行う神聖な場所だった。周囲5.4km、高さは65mの空間である。ただし建物はすべて石の積み上げで、内部に部屋はない。

アンコール・ワットから戻り、夕方にクーレン・レストランに行く。食べ物はバイキング方式で大したことは無かったが、民族音楽やアプサラ・ダンス・ショーが楽しかった。


アプサラ(ス)はインド神話の水の精(天女)だが、似たような存在としてデヴァター(女神)がある。ここでは、どちらも女神として扱っている。

2013.2.28 木

前日同様、大型タクシーでアンコールに向かう。アンコール・ワット西参道からアンコール・トムへ入り、象のテラスで右折して、勝利の門、シエムリアップ川を抜けて、タ・プロームへ行く。

タ・プローム

アンコール遺跡のもう一つのハイライトである。熱帯雨林が遺跡を侵食していく様をこれほどはっきりと目に見せてくれるとは! 自然の力に畏怖の念を抱いた。風化、劣化あるいは人が遺跡を破壊していく例はよく見るが、植物が遺跡に覆いかぶさり、内部へ侵入していくのは初めて見た。破壊された建物の石材が散乱していて、落ち着いて歩けない。寺として認識できず、蛇のように這いまわっているガジュマルの気根(地上に出ている根)を見るだけになってしまった。




タ・プロームは12世紀に作られた仏教寺院で、後になってヒンドゥー寺院になったそうだが、ほぼ丸ごと潰され、破壊されていて、寺院の体裁をしていない。敷地には石材がごろごろ転がり、建物にはガジュマルの木が纏わりついている。他の遺跡は整理、修復、復旧されているが、ここだけは自然と共存させるという意味で、放置されている。息をのむような光景で、観光客を引き寄せるには間違いない。修復した方がよいと思うが、遺跡の有りのままを見せる見本として貴重だと思えるし、結論は出せそうもない。

バンテアイ・クディ

タ・プロームに繋がっている小振りの寺院で、ガジュマルが繁茂しているものの、タ・プロームほどひどくない。寺院の配置も何となくわかる。日本の上智大学が教育研修と調査研究をしている遺跡だそうである。



東メボン

さらに東に移動する。乾いた場所に出る。東バライの跡地である。バライは貯水池のことだが、その中心地に東メボン寺院がある。東バライそのものは涸れていて、水はない。造られたのは10世紀で、東西7km、南北1.8kmの灌漑用貯水池で、後から中央にメボン寺院を作ったとのこと。


アンコール・トムを挟んで、西バライ、東バライと大きな灌漑用貯水池が造られていて、クメールが農業王国であったことを物語っている。東バライは涸れ果てているが、西バライの方が大きく、水が残っていてシェム・リアップを発着する飛行機から見ることができる。

バルーン

彫刻が素晴らしいと云われるバンテアイ・スレイがアンコールから40km離れていることから、行くのを見合わせたため(残念)、少し時間ができたため、空からの見るバルーンに乗ることになった。ドイツ製のヘリウムガス気球で、上空120mまで上がる。360度見回すことができるが、湿度が高いせいか、あまり視界は良くなかった。アンコールワットや西バライを確認するのが精一杯だった。



カンボジアに行ったことになるが、実質は一日半でアンコール遺跡を見ただけである。それも駆け足コースである。駆け回った後に言うのは手遅れだが、かってインドシナ半島全域を手中に収めたクメール王国の首都跡と割り切って、アンコール・トム(バイヨン)とタ・プロームに限定したほうが良かったのかもしれない。もっと言えば、一日中バイヨンの人面四面塔を眺めていたかった。観世音菩薩の仏顔だそうだが、微妙にそれぞれの尊顔が違い、それぞれの哲学を語っていると思った。そんな瞑想に耽れたのが、カンボジア観光の醍醐味だったのだろう。それにしても似たような建物や彫刻が多く、記憶が混乱している部分があるため、写真中の建物名が不正確なところがあるかもしれないが、ご勘弁願いたい。

これで、1967年から2013年、47年間の海外旅日誌を終了することになった。終わってみると、あっけないものである。それにしても、場所の違いもさることながら、時間のずれに驚く。初期のころには、まだ海外旅行は珍しかったが、最近になると普通のことになってしまった。日誌の内容も平凡になってきたので、この辺が辞め時なのかも知れない。

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