トルコ

21世紀初頭に病気をしたので、しばらく動けなかった。そのあとに、健康チェックも兼ねて、旅に出ることにした。考えたあげく、西洋と東洋の交差点であるトルコのイスタンブールに行くことにした。一応アジアとヨーロッパはすでに見ているから、接点はどうなっているのかという好奇心からである。

イスタンブール紀行

2004.7.21 水

13:25、成田を離陸する。イスタンブールまでは直行便で12時間かかる。エコノミー症候群になったら大変と、機中を歩き回ったが、23分歩いただけで、息が切れる。以前なら、こんなことは起きなかったのにとつい思う。飛行機は成田離陸後北上してシベリアの上空を飛ぶ。行き先を間違えているのかと思ったぐらいだった。しかも窓を閉めさせ、地上を見せまいとする。相変わらずロシアは覗かれたくないらしい。モスクワの上まで来ると一挙に南下する。ルートは正しかったのだ。やがて黒海沿岸を通過し、イスタンブールに着陸した。


到着したのは午後8時半だが、まだ日は高い。車で30分、旧市街のホテル エルボイに着く。エルボイはホテルと云うより、宿屋に近い感覚。庶民的でくつろげる。

エルボイは中流のホテルだが、場所が良い。イスタンブールの観光の中心は、ボスポラス海峡に面している、トプカプ宮殿、アヤ・ソフィア、ブルーモスクなどが乗っている第一の丘だが、隣接した坂下にホテルはある(イスタンブールには7つの丘があると云われている)。路面電車のギュルハネ駅に近く、どこへ行くにも便利である。


2004.7.22 木 

トプカプ宮殿

ゆっくり朝食を取る。ドライフルーツ、シロップ漬けグレープ、ヨーグルト等が並んでいる。トルコ茶(チャイ)が美味しい。グラスを買って帰ろうか。



ガイドのイボさんが迎えに来る。9時半に出かける。トラムヴァイ(路面電車)に乗る。ギュルハネ駅から坂を上って1駅目のスルタンアフメット駅で降りる。いきなり観光の中心、スルタンアフメット広場に出る。ブルーモスクやアヤソフィアを眺めながら、トプカビ宮殿に向かう。


宮殿は金角湾、マルマラ海、ボスポラス海峡を見渡す丘の上に広がっている。城壁で囲まれた中の四つの中庭が、帝王の門、表敬の門、幸福の門などで仕切られている。帝王の門から入り、第一の中庭を通り、アヤ・イリニ教会の脇を通って、第二の中庭に進む。


アヤ・イリニは東ローマ帝国時代の教会である。オスマントルコ時代には武器庫だったらしい。今は博物館。東ローマ帝国のアクロポリス(要塞)の上にトプカプ宮殿が作られたから、宮殿内でローマ時代を偲ぶものはアヤ・イリニ教会だけである。

 

ハーレム

2の中庭の奥にある入り口からハーレムに入る。


ハーレムは厳重に隔離された女人居住区画である。つまり大奥である。入り口を入ると黒人宦官の部屋がある。宦官を黒人に限った理由は、間違って(?)生まれてくる子供を見れば一目瞭然ということ。ハーレムの中は増築、改築の連続で、どこがどこだかよく分からない。薄暗い部屋の並びの中に、皇后の間や豪華な帝王の間が入り込む。突然明るく、華やかな部屋が現れる。王子たちの部屋である。しかし、ここに入ったら最後だったらしい。何しろ、一人が王になると残りの王子は全員殺される慣習なのだ。悪評の高い「兄弟殺し」だが、これによって内紛を防ぎ、オスマントルコ帝国が長続きしたと云われている。

  

陰惨なイメージが強いハーレムを出て、気を取り直し、宮殿のはずれにあるレストラン・コンヤルに行く。食べ物はともかく、景色が良い。有名なドネル・ケバブ(串に刺した肉を回転させながら炙り焼きし、ナイフで焼けた表面をそぎ落とす料理)も食べたが、それほど美味しくはない。


海峡を眺めながら、宮殿に戻り、第4の中庭に行く。バグダット・キョシュク(亭)のイフタリエ(あずまや)から金角湾を眺め、第三の中庭に戻り、宝物館に行く。トプカプの短剣を見る。世界最大級のエメラルドが3つ付いている。映画では盗むのに苦労することになっているが、実物はいとも無造作に飾ってある。大きなダイヤもいくつか飾ってあるが、ガラスにしか見えない。世界最大と称するエメラルドの深い緑色が美しい。

  


5時ごろトプカプ宮殿を出て、城壁沿いに坂道を降り、ギュルハネ駅を通って、ホテルに戻る。7時にホテルの屋上のレストランに行って、平凡な夕食を取る。眺めは良い。カモメが頭の上をすれすれに飛んでいく。鳥も燕も。8時過ぎに日が沈むと涼しくなる。金角湾の向こう側、ガラタ地区の明かりがやっと点き始める。三日月がきれいにかかっている。8時半に部屋に戻ってシャワーを浴びて9時半に寝る。


2004.7.23 金  

新市街

金角湾を挟んで旧市街と相対する新市街は、東ローマ帝国時代にはイタリアのジェノヴァ人の居留地だった。その後も西洋風の雰囲気を持っている町として、モスクは少なく,教会が多い。今やイスタンブールの中心の町である。地区のシンボルはガラタ塔で、ジェノヴァ人が物見塔として建てた。今でも残っている。


トラムヴァイ(路面電車)で丘を降り、2駅目のガラタ橋で降りる。スレイマン・モスクを横目で見ながら、金角湾にかかっているガラタ橋を渡る。橋では釣り人が多い。釣った魚は橋の下のレストランに売る。新鮮であることには間違いない。 渡り終わり、新市街に入ったところがカラキョイ広場、そこから地下鉄に乗る。


たった2駅しかなく、カラキョイ駅からテュネル(トンネル)駅まで、3分で地下の坂を登る。駅を出るとメインストリートに出る。繁華街イスティクラール通りである。人がすごく多い。通りの真ん中をトラムヴァイ(路面電車)が走っているが、お構いなしに人が横切っていく。通りには体重計を置いてあり、はかり屋が客を待っている。少し歩いたところで、左側の小さいビルに案内される。エレベータで最上階に上がり、テラスでソーダ水を飲む。ここからの眺めがよいのだそうである。向こう岸のトプカプ宮殿、アヤソフィヤそして海がよく見える。


大通りに戻って歩く。日陰は右側。そこばかり人が通る。大通りが右に曲がるところで、左手に入り、魚市場に入り、ぐるぐる回る。野菜、果物、乾物、荒物まで売っている。お菓子の店で買い物。奥の建物は英国総領事館、つい最近テロにあったそうで、修理中。ブランド店VAKKOで財布を買う。通りの終点、タクスィム広場に出る。広場から歩いて、左側の店、ハジュババで昼食。テラスで食べる。トマト,茄子の肉詰め,ラムの煮込み等が出る。トルココーヒーが美味しい。

     

トルコ料理は世界3大料理の一つと聞いたことがある。でもあっさり認めるわけにはいかない。素材は豊富、レシピも多彩。しかし、これは旨いと手放しで言える料理が見つからない。理由を考えてみた。味はいいのだが、盛り付けに関心がないみたいだ。バルカン料理に似て、一つの皿の上に複数の料理が重なって置かれ、美味しそうには見えない。焼肉料理でケバブが有名だが、似たようなロシアのシャシュリクの方が美味しい。詰め物のドルマもジョージア(グルジア)の方が旨かった。中央アジアから南下してきたトルコ族が、通りかかった地域の料理を吸収してきたので、多種多様な料理があることは誇れるが、見た目を重視しなかったのは、残念な気がする。どうだろうか。トマト、ナスなどの素材は輝くように素晴らしいので、それらが引き立つような料理に発展してほしいと思う。

軍楽隊

次のお目当ては軍楽隊である。タクスィム広場からタクシーで軍事博物館に行く。博物館を見ながら、500人ぐらい入るホールに入る。一通りの説明を聞いていると、いきなり正面の壁が動き、噴水とお花畑が出現する。その中を軍楽隊が行進してくる。日本でおなじみの曲が演奏される。いい感じ。1時間ほどだったが、なかなかの演出であった。


終わって、トラムヴァイでメインストリートの途中まで移動する。ガイドのイボさんが預けて置いたジャム、お菓子を取ってきてくれて、タクシーでホテルに戻る。夕食はホテルの裏の通りの先の方のトルコ料理店エティ・シュで取る。猫が多い。靴磨きも。

エティ・シュは無くなったと聞いた。

2004.7.24 旧市街

ボスポラス海峡、金角湾、大城壁で囲まれた地区が旧市街で、ここが本来のイスタンブール、いや東ローマ帝国の首都、コンスタンチノープルであった。

 地下宮殿

ギュルハネ駅からスルタンアフメット駅までトラムで1駅動く。ちょっとアヤ・ソフィアの方向に戻ると、小さな建物がある。


中に入り地下に降りると、巨大な地下貯水池が出現する。奥行きが分らないほど広く、天井も高い。水深はあまりないが、弱い照明の中で、水面がきらめいている。魚も泳いでいる。300本以上の石柱が天井を支えている。柱は古代の建物から集められたもので、柱頭はコリント様式やドーリア様式の装飾が施されている。継ぎ足されて立っている柱もある。特に、2本の柱がそれぞれメデューサの頭の上に立っているので有名である。しかも一つの頭は逆さまに、もう一つは横向きに置かれている。結構大きい。

 

ギリシャ神話によればメデューサの髪は無数の毒蛇で、見たものを石に変えてしまう怪物である。ここでは魔除けとして置かれていると云われている。他にも変わった柱がある。つまりあちこちから寄せ集めた石柱を使って作ったことが分る。映画「007ロシアより愛をこめて」のロケ地にもなった。


都市の生活を支えるのに水の供給は不可欠である。しかしイスタンブールに水源地はない。遠くから水を運んでくることになるが、東ローマ帝国時代、攻防戦の絶えなかったコンスタンチノープル(イスタンブール)では何時水道を止められてもおかしくなかった。それに対応する策として、数多くの教会の地下室を防水構造にすることにより貯水槽に仕立てた。合計百万立方メートルの水を貯えることができたと云われる。その貯水槽の中で最も大きく、素晴らしかったのがこの地下宮殿だった。

アヤ・ソフィア

地下宮殿から上がり、表に出ると日差しが強く、目が眩む。すぐ近くに無骨な要塞のような石造りの建物がある。


1000年の間、キリスト教会で、その後500年モスクだったアヤ・ソフィアである。今は博物館。分厚い壁に囲まれている狭い入り口から入る。中はとにかく広い。天井も高いが、大理石の床や、石柱の輪郭がはっきりしない。ぼーっと煙っているように感じられる。近寄ってみると、内壁の大理石の表面が曇ったガラスのように不透明になっている。床の大理石はすり減っていて、窪みが浮き上がっている。このせいで、なんとなく滲んで見えるのだ。西暦537年に再建されたあと、1500年経過した今までの長い年月を示しているのだ。


この町には古いものはいくらでもあるが、アヤ・ソフィアほど歴史を実感させてくれるものはない。黙って石の柱を撫でた。歴史の証人である。モザイク画やフレスコ画も多くあったようだが、イスラム時代に塗り消されていた。一部は復元されている。マリヤとキリストのモザイクが美しい。


2階のモザイク画が有名なのだが、疲れていたので、登らなかった。惜しいことをした。

アヤソフィアはキリスト教の大寺院としてローマ帝国時代(西暦360年)に作られたが、何度か焼失し、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の537年に現存のアヤソフィアとして再建された。そして1453年のコンスタンティノーブルの陥落とともに、イスラム寺院になった。キリスト教からイスラム教に変わっても、アヤソフィアはあまり変わったようには見受けられない。大ドームの中にアラビア文字を書いた巨大な4枚の円板(直径8m)が掲げられているが、これでイスラムの寺と分かるという程度である。ちなみに正面の円板、右はアラー、左はマホメットと書いてあるそうだ。

 グランド・バザール

グランド・バザールは屋根付きの市場のことで、中近東の国々なら必ずある。その中でも、ここのグランド・バザールは大きくて有名なのだそうだ。オスマントルコがイスタンブールを入手したときからあるそうで、500年の歴史があることになる。


タクシーでグランド・バザールに行く。中に入る。店員が日本語で「お入りください」と誘う。日本語の単語をあるったけ並べて、関心を引く。隣で、何語とも判らぬ会話が交わされている。賑やかである。まずはチャイ(お茶)を勧める。気が付いたら、指輪を2個も買っていた。宝石、貴金属、金銀細工、絨毯、敷物、生地、織物、履物、刀剣、両替、古書籍、細密画等々なんでもある。日常物資は、屋外に売り場がある。途中抜け出して、レストランに入る。イワシの揚げたもの、トマトのサラダ、ほうれん草のとろとろスープ、牛肉角切り煮、ジャガイモのピュレー、果物のデザートと盛り沢山。

レストランの名前はアルスランだったと記憶しているが、今は見つからない。

ヴァレンス水道橋

食後、またグランドバザールに戻り、中を通り抜けて、タクシーでヴァレンス水道橋に行く。ローマ時代の水道橋の残骸である。


かっては1kmの長さの橋だったそうだが、今は800m位残っている。遠くの森から旧市街の地下宮殿まで引いていた水道の一部である。下をアタチュルク大通りが通っている。大きいことは大きいが、町も大きいので、あまり目立たない。スペインのセゴビアの水道橋ほどの威圧感はない。イスタンブールの規模が大きすぎて、橋自体が目立たないせいもある。オスマントルコ時代にも使われていたとのこと。 

この水道は、ヴァレンス帝の命により、町の中心から19km離れたベルグラードの森から水を引くために作られたもので、368年に完成した。ローマ帝国が作った水道としては、かなり後の方になる。

スレイマン大聖堂

水道橋から歩いてスレイマン大聖堂へ向かう。ごみごみした狭い通りを抜けるのに疲れて、近くの公園で休む。歩き続けるが、坂が多くて大変。突然大きな建物が目のまえに現れる。スレイマン大聖堂(スレイマニエ・ジャーミー)である。


オスマントルコ最盛期の王、スレイマン大帝が作ったモスクである。巨大なドームだけではなく、霊廟、学校群、病院、救貧院、隊商宿などで一つの総合施設になっている。もっとも当方にはただ大きいモスクとしか感じなかった。モスクは有料だった。


金角湾を見下ろす高台に立っているので、眺めは良い。急に便意を催し、トイレに駆け込む。日本式便所であるが、幸い扉付きトイレだった。ただしトイレットペーパーはない。その代わり、小さなバケツがおいてある。水道の蛇口もある。これを使って手動で処理しろということらしい。衛生的であると考えることにした。4時過ぎタクシーでホテルに戻る。

オスマントルコきっての建築家ミマル・シナンが作ったモスクで、イスタンブール最大の規模を持ち、ステンドグラスの美しさが有名。どうゆう訳か、アヤ・ソフィアやブルーモスクなどとは異なり、下町の真ん中にある。

べリーダンス

8時過ぎタクシーを呼んで、新市街に入り、ヒルトンホテルの近くのショーレストラン「ケルバンサライ」にいく。なかなかショーは始まらない。まずは食事。その後、民族舞踊からスタート。


悪い席ではないけれど、照明が暗い。ここのベリーダンサーはトップクラスと聞いていたが、流石に素晴らしい。エジプトでのベリーダンスと雲泥の差がある。夜11時過ぎまで居た。ガイドとその友達も一緒にタクシーを拾ってホテルに帰る。夜遅くなり、公共の交通手段がなくなったので、そこから家に戻るガイドに別途タクシー代を渡した。


中近東ではベリーダンスはどこでも見られるが、イスタンブールのダンスは、気のせいか、技術的にレベルが高いと感じた。男性の民族舞踊はどちらかと云うと、バルカン半島の舞踏と共通しているのではないだろうか。

 2004.7.25

今日はボスポラス海峡を渡って、アジア側に行った。

オリエント急行終着

10時に出て、坂下のシルケジ駅に行く。オリエント急行の終着駅である。マルマラ海側を走ってきた列車はトプカプ宮殿の坂下を回り込み、金角湾に面したシルケジ駅で止まる。もっとも今は使われていない。豪華だった待合室が残っている。



ウスキュダル

そこから湾沿いに歩いてエミノニュ桟橋に行く。ウスキュダル行の水上バスに乗る。


相変わらず岸壁には釣り人がいる。対岸にガラタ塔が見える。振り返ればスレイマン・ジャーミーが目に入る。ボスポラス海峡に入ると海流がすごい。かなりの速さで流れている。黒海からマルマラ海への一方通行である。


ウスキュダル桟橋に着く。海沿いを歩き、乙女の塔を眺めてから、引き返しクズグンジュックまでタクシーで行く。古い市街が残っている。今風の建物はない。坂道が多く、家屋の2階が道側にせり出している。緑も多く、ゆったりした雰囲気。老人たちが屋内でゲームをしている。優雅ですらある。


また船でエミノニュ桟橋に戻る。

乙女の塔には悲しい伝説がある。占い師の予言で事故を予言された王様の娘がこの島に隔離されたが、やはり死んでしまったというお話である。

クズグンジュックはウスキュダルの少し北にある。ボスポラス海峡の真珠とか言われたそうだが、古きよきイスタンブールを想像させる。

スルタンアフメット地区

見残したスルタンアフメット・モスクや東ローマ帝国時代の痕跡を見て回ることにした。

旧市街に戻って、ホテルの裏の通りにあるレストランで昼食を取る。レンズ豆のスープ、ピラフ、水の簡単な食事。ホテルで3時半まで休憩。トラムヴァイで一駅、スルタンアフメット駅で降りて、旧市街の歴史地区のスルタンアフメットに入る。この辺には東ローマ帝国時代の遺跡が残っている。まずはヒッポドローム、ローマの大競技場跡。500150メートルのU字型競技場で、よく知られている戦車競技が行われたそうである。競技に熱狂しすぎて、暴動さえ起きた歴史がある(ニカの大乱)。もっとも今は中途半端な空き地が残っていると言う程度である。



競技場の中にはエジプトのカルナックから持ってきたオベリスクが一本立っている。他に蛇の柱やドイツの泉などもある。少し戻り、ブルーモスクに行く。正式名はスルタン・アフメット・ジャーミーである。場所も良く、大きく、尖塔も6本あり、目立つので、旧市街観光の中心になっているとのこと。壁面の青いタイルが綺麗なので、この名が付いたとの触れ込みだったが、言われるほど素晴らしいとも思えなかった。モスクの内部は少し臭おう。靴を脱ぐせいか。



モスクの内外で、今夜割礼を受ける子供たちが盛装して、かけずり回っている。気分をそらせておくのだそうだ。何か痛ましい感じがして、いい気持ちはしなかった。お茶をして、ホテルに帰る。


スルタンアフメット地区にはトプカプ宮殿、アヤ・ソフィア、ブルーモスクとあり、旧市街歴史地区として圧倒的なのだが、実はそれらの建築物の間の空間が素晴らしい。

緑の公園になっていて、大勢の人が散策している。この雰囲気は大事にしたいと思った。

2004.7.26

11時半にチェックアウト。動く気もせず、ロビーにボーッと座っていた。昼になり、ホテルの裏のロカンタ・ハタイに行って、トマトソースのケバブ、ブドウの葉巻肉詰め(ドルマ)4本、レンズ豆のスープを食べ、トルココーヒーを飲む。またホテルに戻り、周りを見ている。暑いせいか、表の道端の放水にボーイが頭を突っ込み、飛沫を撒き散らしている。のどかな風景。


満足した気分。3時半ごろガイドが迎えに来て、空港に行く。帰国便が遅れて、夕方離陸する。翌日無事成田に帰り着いた。

確かにイスタンブールは西洋ではない、しかしアラブでもなかった。

イスタンブールにはイスラムの異質さも欧州の雰囲気も感じられない。政教分離に成功しているせいか、宗教の原理主義的な厳しさは窺えない。考えてみれば、もともと出自が中央アジアであるトルコ族はアラブの民の筈がない。地域的にイスラム教になったものの、方便として利用したと思える。確かにヨーロッパとアジアの接点ではあるが、どちらにも属さない独自の国家であることが分ったような気がする。不安定な周辺の国々の騒動に巻き込まれることは多いが、それに引きずられて潰れることはなさそうに思う。それにしても穏やかで、親切で、安心して観光できる良いところだったなと思ったが、帰国して1週間たって、滞在したホテルの近くで爆発があったと報道があった。列車事故もあった。ニュースと実感との大きな差をどう考えたら良いか迷ったままである。遠方には、現実の一部分が拡大されて伝わるのか、現地では情報が入らないのか、どちらだろうか。

 

注:

・イスタンブール(西暦1453以降の名称)は、ローマ初期にはビザンティン(紀元前660年)、東ローマ時代はコンスタンチノープル(西暦332以降)と呼ばれた。

・オスマントルコはトルコ族の一つのグループ、初代首領の名前からオスマントルコと呼ばれる。モンゴルに追われて、今のトルコ(アナトリア又は小アジアとも呼ぶ)に落ち着いた。

 

 

 

 

 

 

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