韓国(大韓民国)

韓国は最も近い隣国である。しかし、1970年代まで、韓国(人)に接触したことはほとんど無かった。1980年にビジネス、1997年に調査、そして2004年、2005年は会議、セミナーで訪問した。町をほとんど歩いておらず、観光旅行もしていないので、しっかりとした知識を持っていないが、それなりに韓国のイメージを持っている。

蔚山(ウルサン)

蔚山は朝鮮半島の南東、海に面している工業都市である。慶長の役(豊臣秀吉の侵攻)で出てくる地名と記憶していた。

1980.11.22 土 

石油化学プラントの緊急の問題処理を依頼されて、1117日、ソウルからテグ(大邱)を経由して蔚山(ウルサン)に入る。問題解決に4日間を要した。最終日22日に一席設けてくれて、目の前で魚をさばき、刺身を作ってくれたが、何の魚を食べたのか判らず、少々怖かった。何処のホテルに泊まったか、覚えていない。

 

後で考えると、蔚山に適当なホテルがなく、大邱の韓一観光ホテルに泊まったらしい。毎日通ったのだろうが、今探してもホテルが見つからない。昔のことなので、記憶違いをしているのかもしれない。

慶州(キョンジュ)

1980.11.23 日

代理店がお礼に、慶州観光をセットしてくれた。慶州は蔚山の北にある古都で、紀元前から約1000年続いた新羅(シラギ)王国の首都であった。町に入ると、古墳だらけである。と云うより、古墳群の間に町が散らばっていると云った方が正しい。強いて言えば、京都と云うより奈良のイメージである。スエーデンのウプサラと通じるものがある。


観光バスで回ったところは、

金庾信(キムユシン)将軍墓

朝鮮半島を統一した時の新羅の名将(673年没)の墓。王墓に引けを取らないほど立派である。


武烈王陵

新羅29代国王(661年没)の墓。武烈王は容姿端麗で優秀な外交官であったらしい。日本にも来ているとのこと(647年)。貴族親衛隊「花郎」の出身(トルコのイエニチェリと似たようなシステム)。


鮑石亭(ポソクチョン)

鮑型をした水溝で、流れに沿って、杯が一回りする間に歌を詠み、出来たら酒を飲むという遊びに使った。この遊びは中国からの伝来で、わが国でも、京都の城南宮などに曲水の宴として残っている。927年に第55代の王がここで酒宴を張っているときに、後百濟の軍に襲われ、新羅は滅亡の道を辿った。


皇寺(ブンフアンサ)

27代善徳女王時代の寺で、634年に創建された。金堂や講堂もある大伽藍だったようだが、今は主要な建物として石塔が残っているのみ。華厳宗発祥の寺。


瞻星台(チョムソンデ)

はっきりした記録はないものの、東洋で最も古い天文台だったと云われている。


仏国寺

仏教文化全盛時、774年に完成した仏教寺院。市街から少し離れた郊外にある。新羅の仏教美術を今に伝える、大きな建物で、寺と神社が混合したような造りである。もともとは華厳宗の寺院だったようだが、新羅王朝の後は荒れ果てて、廃寺同様だったらしい。今はある程度修復されているとのこと。


石窟庵

仏国寺から裏山を回り込んだ山麓にある仏教寺院だが、少し足元が悪い。本尊は阿弥陀如来坐像で、美しい。755年に完成したそうだが、建物などの遺構はその後の改築等で無残な姿を晒しているが、地形・雰囲気は良い。この国は、最近の500年位は儒教が中心で、仏教は顧みられることはなかったらしい。


この外、博物館にも寄った。古墳の副葬品や仏教弾圧の跡を残す石仏などを展示しているが、記憶に残るほどのものは無かった。

この日、切符を買うために、10000ウオンを窓口に置いて脇見をした一舜の間に札が消えた。窓口の係は知らないという。当方の不注意のせいだが、色々な国を廻った中では、初めての経験だった。隣国と云うことで、気が緩んでいたのかもしれない。

慶州がかって新羅王国の都で、観光の名所だと云うことは知っていた。しかし新羅が1000年以上も前に滅んでいたことは知らなかった。そう思って慶州の佇まいを見ると、この、こじんまりとした古都が愛おしくさえ映る。朝鮮半島の歴史は動乱の歴史だ。神話時代のあと、多くの小国から百濟、高句麗、新羅の三国が立ち上がり、高句麗と百済の盛衰の後に、新羅が朝鮮半島を統一したが、そのあと高麗王朝を経て、李氏朝鮮が近代まで続き、日本に併合されたあと、現代は南北2国に分かれたままである。しかし、この程度の興亡はどこでも起きうる話だが、朝鮮半島の場合、権力闘争に必ず外国を引っ張り込むと云うところが決定的である。特に近代、欧州勢の植民地化攻勢が激しい時、日本、朝鮮両国を囲む状況に大きな違いはなかったと思われるのに、そのあと、ずいぶん違う道筋を通ったものだと思わざるを得ない。

ソウル

調査団として、オーストラリアから韓国に回った。

1997.2.16 日 ロッテホテル ソウル、明洞

シドニーからソウルへと移動した。夏のオーストラリアから冬の韓国へ飛んだので、気候に合わせるのが大変だった。猛烈な寒気と頬が突っ張るような乾燥した空気に出迎えられた。ロッテホテル ソウルに泊まる。メンバーが高級ホテルに泊まれると喜んでいた。


ホテルの勧めで、ソウルの南、水原の郊外にある韓国民俗村に行くことになった。広い敷地に朝鮮各地の民家、農家、士族の家、役所などが点々と立っている。何となく寒々とした風景だった。あちこち覗きながら、終わりに農楽踊りを見て、引き揚げた。



ガイドが説明してくれたのだが、なかなか興味が湧かない。韓国のことを知らないからだ。そういえば、バルセロナ(スペイン)の民俗村は面白かった。多少スペインのことを知っていたせいだろう。それに引き換え、韓国については、知らなすぎると恥ずかしくなった。

夜、明洞(ミョンドン)通りを歩いた。ホテルを出るとすぐのところが、ソウルの繁華街である。大層混雑していた。日本の原宿、と云うより下北沢に似た雰囲気を持っていた。そこをぶらついて、戻る途中に焼肉店を見つけ、入り込んだ。ここも満員だった。ようやく席を見つけ、焼き肉を頼む。牛の巻肉をコンロの上に広げ、焼いてくれるのだが、弱火である。気になって、強火にする。店員が弱火に戻す。これを何回か繰り返しているうちに、はさみでチョキチョキと切って、食べろと云う。確かにうまい。日本では味わえない代物だ。

これから韓国料理を食べるようになった。もっとも気づかず、超辛い料理を食べてしまったことも多々あった。

1997.2.18 火

月曜日はソウルで人に会ったが、研究施設などは北朝鮮から離れたほうが良いと、南に分散しているとのことで、今日はソウルから水原へ往復した。知識がないため、他の地域とどう違うのかさっぱり分からなかったが、昼飯は旨かった。普通の食堂に案内されたのだが、出てきた石焼きビビンバ(だと思う)が抜群に美味しかった。

その後、水原の石焼きビビンバに勝る韓国料理にお目にかかっていない。

2004.2.26 木 パレスホテル ソウル

2回目のソウルである。日中韓セミナーに参加するために、7年振りに韓国に来た。11時にJL8831便で羽田空港を発ち、韓国の金浦空港に向かった。到着後、先方の事務所を訪問し、明日の合同セミナーの打ち合わせを行った。尹さんと云う人が通訳をしてくれる。かなり達者な日本語を使う人である。

ビジネスで行けば、必ず日本語の通訳をつけてもらえる。大助かりで、大変有り難いが、直接韓国に触れることができないような気がする。でも、通訳がいなければ動けない。もどかしい。

軍事境界線(DMZ

2004.2.28 土

前日のセミナー終了後も、尹さんが面倒を見てくれることになり、今日は非武装中立地帯(DMZDemilitarized Zone)に連れて行ってくれることになった。DMZは韓国と北朝鮮の境界線(いわゆる38度線)に設けられた中立地帯のことである。南北朝鮮は休戦しているだけで、戦争は終わっていない。DMZはそれを知覚させる。何時何が起きても不思議ではないのだ。

ソウルの中心に流れる漢江(ハンガン:河川)は海へ流れ込むが、途中で臨津江(イムジン河)と合流する。そこから川に沿って軍事境界線が引かれている。まず、車でソウルの漢江の河沿いに、河口目指して走る。市街が果てて、茫漠たる景色に移ると、すぐに堤防上に渦巻いている鉄条網が見えだす。北鮮武装ゲリラ侵入を防ぐために作られたそうで、延々と続いている。ところどころに監視塔が立っている。人影は見えないが、物々しい気配がする。川底にも何らかの仕掛けがあるらしい。さらに進むと、左手に鰲頭山(オドゥサン)統一展望台に出る。ちょっとした小山の上に立っている。漢江と臨津江(イムジン河)の合流点に立っている展望台で、イムジン河と対岸の北朝鮮を見ることができる。ごく普通の田園風景が広がっているとしか思えないが、地雷が付設されているとか、トンネルが掘られているとかで、かなり物騒な場所らしい。展望台の中には統一展示室,北鮮展示室、展望室などがある。そこから、イムジン河沿いに少し遡り、“自由の橋”が見えるところまで車で行く。この白く見える橋はイムジン河にかかるただ一つの橋だそうだ。そこから先、板門店へは専門ツアーに参加しないと行けない。ここからソウルまでわずか50kmしかない。自由の橋から引き返して、ソウルに戻る。約2時間の短い旅だった。午後金浦空港に行き、JL8832便で発ち、5時に羽田空港に着いた。





休戦の時、この橋を渡って帰ってきた捕虜たちが自由、自由と叫んだのが、“自由の橋”の名前の由来である。

2005.11.16 水

3回目のソウルである。セミナーの講師としてやってきた。

仁川空港に着いたが、迎えの人が来ておらず、慌てた。行く先も聞いておらず、周りは全てハングル、電話もかけられず、動けなくなった。30分位立ち竦んでいたが、ようやく尹さんが現れ、ピックアップしてもらい、ほっとした。

実を云うと、旅人として韓国が最も手ごわい国であると感じている。いわゆるハングル酔いを起こすのである。ハングルが科学的な言語で、字体は発音に合わせて作られていることも承知しているが、連想が効かない言葉なのである。西欧州系のアルファベットなら、英語、フランス語、ドイツ語などで共通の元(ラテン語など)があるから、推定が効く。東欧系ではキリル文字であろうが、アルファベットであろうが、単語の意味は大体同じである。アラブ系、アジア系では、英語が併記されている。だが、ハングルにはヒントがない。かっては漢語由来の単語には漢字が充てられていたような気がするが、今は完全にハングル一色である。ハングルを知るには、住み着いて、耳で覚えるしかなさそうだ。ちなみに、ここでは地名などに漢字を当てているが、現地ではハングルのみである。

車でソウルに向かい、前回のパレスホテルに入る。高層ビル群と幅広い大通りが集まっている区域で、ソウルの中心街と全く異なる江南区にあるホテルである。部屋から賑やかな高速バスターミナルが見えた。

場所は漢江の左岸の江南地区で、今まで知っていたソウルとは違う場所である。1988ソウルオリンピックで開発・発展した新興地区のようだ。どうりで、高層ビルの乱立と複々線道路が目立つわけだ。


夜、講師たちの歓迎会と云うことで、ホテルから近くのシアター・レストラン(ノルブ・ミョンガ)に向かう。板の間に座っていると、料理を満載した、背の低いテーブルが目の前に置かれる。皿数が多く、一体何種類の料理が並んでいるのか判らない。「それは辛い」、「それは大丈夫」と教えてもらいながら食べる。芝居、歌、踊り、楽器演奏が始まる。華やかである。宮廷式韓定食とは、こうゆうものらしい。




舞台の背景となっている絵は、朝鮮王宮の玉座の後ろにある日月水松山図屏風から取ったものらしい。

2005.11.17 木 韓国総合貿易センター(COEX)


セミナーの会場である総合貿易センターに行く。ホテル真下の大通りを移動するだけだが、太渋滞でわずかな道のりに時間がかかった。話の始めに、アンニヨンハシムニカ、チョヌンサトイムニダと挨拶したつもりだが、通じた様子は無かった。残念。セミナー終了後、関係者が集まって、打ち上げ会が開かれたが、前日と違い飲み会になった。色々なお酒を飲んだが、百歳酒(ペクセジュ)と云うお酒が美味しかったので、うっかり褒めたら、持って帰れと、4,5本渡された。有り難かったが、結構荷物が増えてしまった。

太田(テジョン)

2005.11.18 金 ソウルから太田へ

ソウルにはいつも空路である。大阪伊丹空港から金浦空港、もしくは成田空港から仁川空港と飛ぶ。たまには、違うルートを試そうと思い、縦断南下して、釜山経由で日本に帰ることにした。新幹線にも乗れるし、途中太田(テジョン)で降りれば、研究学園都市にも寄れる。残念なことに、釜山でAPEC会議があり、ホテルが取れないことがわかったが、釜山の土地を踏むだけでよいと割り切って、行くことにした。

心配だからと、セミナー事務局の人がテジョンまでついてきてくれることになった。ソウル駅へタクシーで向かう。南大門の裏にソウル駅があったのと、今更びっくりする。南大門なら、以前にブラブラしたことあったはずだが、全く気が付かなかった。崖下にホームがあり、地上には駅舎があるという体裁なので見逃したらしい。駅の建物は超モダンで、ガラス張りの温室スタイルである。駅の構内には何もなく、だだっ広いだけで、改札は各ホームに降りる階段の所にある。出発時間が近づくまで入れてくれない。


改札が始まり、慌てて降り、手近に見える列車に飛び乗ろうとして、寸前で違う列車と分かる。時間ぎりぎりに改札が始まるわけがない、何を周章ててと、顔を見合わせ、思わず苦笑する。やがて反対車線に韓国高速鉄道(KTXKorea Train eXpress)の車両が入線する。フランスの高速鉄道TGVの技術で作られたKTXは日本の新幹線とは異なり、先頭の動力車が後ろの客車を引っ張る形式で、先頭車両は鉄のかたまりといったイメージを与える(実際は違うのだろうが、少なくとも日本の新幹線の軽快さは感じられなかった)。客車は狭く、ファーストクラスは横に3席(1席と連席)、普通車は4席(2連席)だが、だからといって通路が広いわけでない。フランスのTGVと同じ構造で、客車と客車の連結部に車輪台座が潜り込んでいるのが、何となく違和感がある。


定刻9時にKTX0007号が動き出した。出来て1年半足らずのせいか、車両は美しく、キラキラしている。車内のテレビ等、あちこちを見ている内にどんどん加速し、車内の速度計の表示が一瞬時速300kmになった。外を見ても、それほどの速さとも思えない。そんなものかなあと云っている内に次の停車駅に着いた(950分着)。テジョン(太田)駅である。


ここで、途中下車し、町の北にある研究学園団地に向かう。研究所に着いて、送ってくれた人にお礼を言って、別れた。旧知の安部長に所内を案内してもらう。ずいぶん広い敷地である。安さんがお昼をご馳走してくれた。アヒル料理だったようだが、判っていなかったので、何となく食べてしまった。ゆっくり食べればよかったのに、勿体ないことをした。安さんにお礼を云って、近くの儒城(ユソン)温泉の儒城ホテルに向かう。まだ明るいので、周りを散歩する。どうも温泉町と云う感じはしない。入り口はビル群、奥に入ると映画の書き割りセットのような街並みで、人一人いない道筋を歩いていると、他の星に来ているような気がした。看板はすべてハングルで書かれていて、手も足も出ない。ホテルに戻る。部屋に入るときは靴を脱ぐ。座布団に座る。床はオンドルらしい。ベッドはある。和式と洋式の混合スタイルかと感心した。


釜山(プサン)

2005.11.19 土 太田から釜山へ

朝早々に、といっても8時、テジョン駅に着き、KTXを待つ。向かいの車線から反対方向にKTXが出て行く。その線路に従来線の車両が入ってくる。ここで従来線と高速線の線路を共用していることを改めて確認した。これでは、300km/hrの速度を出せると云っても、平均時速は150kmを上回るのは難しいだろう。858分発のKTX0005号 に乗る。釜山1047分着の予定である。今度は少し時間の余裕がある。外を見ることにした。晩秋の黄金色の田園風景が後ろへ後ろへと流れていく。日本より遙かに乾いた土地のようだ。


中間のテグ(大邸)を過ぎ、トンネルが続きだした。やがてビルや建物が見えるようになり、連なっている小山の間を抜けると釜山駅である。全長410kmの鉄道の旅でした。庶民の足である日本の新幹線に慣れた目からみると、座席数がすくなく、大量輸送には向かないKTXは、どちらかといえば国の威信を表すために作った鉄道だと感じる。しかしこれは韓国だけの話ではない。他国の高速鉄道の状況も同様である。今のところ、日本の新幹線方式を活用できそうなのは米国ワシントンーニューヨーク間の通勤列車ぐらいだろうと思った。


釜山駅に降り立ち、駅前広場を眺める。パラパラと人がいる。もう少し賑やかだと思っていた。少し歩こうかと思ったが、残念ながら市内観光の時間がない。そのまま釜山港の国際旅客ターミナルへ向かうことにして、観光案内所で「釜山港へ」とメモを作ってもらって、タクシーに渡す。すぐ着く、こんなに近いのなら、タクシーで町を廻ってもらったのにと、ちょっと残念だった。


ターミナルの食堂でお昼を食べる、通訳なしの会話で、ごく普通の定食を注文する。なんと旨い。これが旅の醍醐味なのだと思う。13時発の水中翼船ビートルに乗る。JR九州の経営である。これでも国際線かと思うほどの小振りのフェリーである。瀬戸内海クルーズの船のほうが遙かに大きい。出港後、かなりのスピードで、海峡を突っ切る。しばらくして、右手に対馬の影が見える。釜山―対馬間より対馬―福岡間の距離の方が長い、つまり対馬は韓国領に近いわけだ。途中、塊になって雨が降っていた海域をくぐり抜け、16時に福岡港に着いた。通関など無いに等しく、気が付いたら日本国内に戻っていた。福岡からは、その日のうちに飛行機で帰京した。



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