インド

インドについて、よく聞かされる二つの話:一度インドへ行ったら、虜になる。もう一つは、二度と行きたくない。どちらが本当か判らないが、一度はビジネスで、もう一度はツアー旅行で行った経験では、どちらにもならなかった。また行くチャンスがあれば、間違いなく行きたいが、住めと言われたら、二の足を踏むだろう。


鶏肉が苦手の友人がいて、インドでは牛肉や豚肉が食べられないと知って、やむなく魚を食べていたが、ガンジス川でとれた魚なので、川に葬られた死体を食べて育ったかもと脅かされ、食欲を失った話を聞いた。でも、古代から文明度は高く、哲学も数学もインドに負う部分が多くあることを知ると、偉大な国だとも思う。

考えてみれば、インド亜大陸の大きさはヨーロッパとほぼ同じで(ロシアは別)、また統一された王国だったこともほとんどない。悠久と混沌、静寂と喧騒が入り混じる、つまりなんでもありの土地で、慣れるには相当の時間と覚悟が要りそうである。でも人を引き寄せる魔力がある。

1.ボンベイとバローダ

ボンベイとバローダの二つの町は、ムンバイとヴァドゥーダラと今では呼ばれているらしい。古い名前も通用しているらしい。どちらの町も西インドにあり、経済と産業で賑わっている。ビジネスで訪れた。

ボンベイ

1984.1.13 金 ホテル・アンバサダー

大阪を10:45に発ち、香港経由でボンベイには20:30に着いた。時差は3時間半。空港からホテルに向かう。何か、めちゃくちゃな感じの街並みをすり抜けてホテルに到着した。

1984.1.14 土

朝、玄関を出たら、蛇使いが待ち構えていた。しばらくコブラの踊りを眺めていた。


夕方、インドの楽器、シタール(弦楽器)とタブラー(太鼓)を演奏しているレストランを見つけた。ジャラーン、ジャラーンといい音がしている。タンドリ・チキンを食べながら、ずーっと聞いていた。確か毎晩通ったと思う。

レストランの名前は覚えていいないが、マリーン・ドライブに面した食堂だった。

ボンベイの中心地区は、本土から左手をぶら下げた格好の地形をしているが、その親指と人差し指が造る湾曲した海岸線をマリーン・ドライブと呼び、夜になるになると明かりが点々とつながり、光の輪のようになるので、女王のネックレースのあだ名がついている。

1984.1.15 日

マリーン・ドライブを散歩した。ジャイナ教寺院を見つけ、入り込む。極彩色の建物である。近くのマラバール丘の上に「沈黙の塔」がある。ゾロアスター教の鳥葬の広場である。立ち入ることは出来ないが、この風習がまだ守られているとは驚きであった。

そこからアラビア海に出るとハッジ・アリー廟に出る。海の中の一本道をいく。裸足で歩かなければいけないと云われて、靴を脱いだが、地べたは唾のあとや訳の分からないもので一杯。うっかり踏んで、病気でも移るのではないかと恐怖心が湧く。しかも、物乞いが寄ってきて、纏わりつく。彼らは先祖代々の物乞いであることを自慢するのだが、とても賛同できない。

ジャイナ教はヒンドゥー教の一派と考えればよさそうである。苦行、禁欲をモットーとするらしい。

ゾロアスター教はペルシャ発祥で、拝火教とも呼ばれる。4000年前に、預言者ゾロアスターが広めたと云われる。ゾロアスターのドイツ語読みであるツァラトゥストラの名はニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」で知られるようになった。モーツアルトの「魔笛」でもザラストロとして登場する。沈黙の塔は鳥葬のための死体置き場である。鳥についばませ、自然に返すのだが、厳しい儀式である。しかし、ゾロアスター教は少数派ではあるが、依然として健在である。裕福な信者が多いそうだ。

1984.1.16 月

風変わりなヴィクトリア・ターミナス駅近くにある代理店を訪ねる。繁華街の真ん中にあるのだが、一階は鉄格子のシャッターで閉じられている。保安上の問題? 二階に上がると普通のオフィスだったので、一安心。


昼ちかくになると、金属缶みたいなものを山と担ぎ、走り回る群れが出現する。初めはなんだか分からなかったのだが、聞いたら、家庭で調理した弁当箱を勤め先まで届けてくれる運び屋(ダッパーワーラーと云うのだそうだ)で、通り一面に蜘蛛の子を散らすように配達していく。弁当配達を間違えることはないそうだ。大したものだ。

ダッパーワーラーはボンベイの伝統的なビジネスで、洋食(?)を嫌うインド人のビジネスマン向けのサービス。一大産業として成立しているとのこと。

1984.1.17 火

40km位離れた仏教遺跡を案内してもらった。山道を延々と走る。着いたが、あまり変わり映えのしない風景だなと思っていたら、急に丘の中腹から黒い風が吹き出した。えっとよく見たら、コウモリの大群が洞穴から渦を巻いて流れ出しているのだった。カンヘーリー石窟群である。

3000年前から1000年かけて作られた仏教寺院で、石窟の数は100を超すと云う。保存状態が良い第3窟を覗く。入り口に彫刻が残っている。奥はガランとした広間になっていて、中央奥にストゥーパ(仏塔)が立っている。周りを一周しようとしたら止められた。裏側には魔物がいるので、やめておけと云われた。薄暗くなった山間には人気もなく、何となくゾクゾクとした。


1984.1.21 土

エレファンタ島に行く。ボンベイの最南端に有名なホテルタージマハルがあり、その隣にインド門がある、そこの船着場から船に乗って約1時間でエレファンタ島に着く。島全体がヒンドゥー教の石窟寺院である。数多くの彫刻が残されていて、ボンベイの観光となると、ここに案内される。

7世紀ごろ、戦勝記念のため、シヴァ神に奉納されたもので、シヴァ神、パールヴァティー女神、悪魔アスラなどの神々が踊っている彫刻でいっぱいである。舞踏は魔術であり、シヴァ神は最高の踊り手なのである。




 1984.1.21 日

空港に向かう。途中の大通りの道端には椰子の葉で葺いた小屋が林立している。道路に住んでいる人々の家々である。それなりの景色にはなっている。1320ボンベイ発、香港で5時間待ち、翌日1810大阪に着いた。

15年後訪ねた時には大通りの掘立小屋は綺麗に一掃され、ごく普通の自動車道路になっていた。国際会議があったとかで、市が強制的に立ち退かせたらしい。

バローダ

ボンベイから北へ約400km離れたところにある工業都市。日本では知っている人は少ないだろう。

1984.1.19 木 エキスプレスホテル

急にバローダに行くことになって、しかも、とんぼ返りしたので、写真を撮る余裕もなく、記憶しか残っていない。

夕方マハーラージャの宮殿が近くにあると聞いて、散歩がてら、出かけた。多くの人が町中に群れていて、人通りがやたらと混んでいる。突然、着飾った娘たちが駆けていく。むやみに明るい照明具を持っている。アセチレン灯かもしれない。何かお祭りでもあるのだろうか。結局判らずじまい。

気が付いたら、スラム街に入りこんでいた。壁一枚のみで出来ているような建物が並び、大勢の男女が張り付いて喚きあっている。商売の取引をやっているのか。それとも娼家なのか。その迫力と騒がしさで通りが揺れている感じ。やっと通り抜けてマハーラージャ宮殿の近くにたどり着いた。腰の高さ位の石垣が張り巡らされ、中には池が広がり、お屋敷は,はるかかなたに見えるような、見えないような。どうしようもなく、あきらめて、帰ってきた。


マハーラージャとは藩主のこと。インドが独立するまで、領主だった。イギリス植民地時代には、インド全域に600位の藩が存在し、イギリスの管理下にあったものの、各自独自に藩を統治していた。日本の江戸幕府と藩の関係に似ている。バローダ藩は名君により近代国家並みに発展したと云われる。

藩主の館にはなんと、イスラム、キリスト、シーク、ヒンドゥー、4種類の寺院がある。宗教に寛容なのが、統治の秘訣らしい。もっともインドにはあらゆる宗教があると云われているが。シーク教はヒンドゥーの一派で、信者は頭にターバンを巻いている。

途中で出会った行列は、ヒンドゥーのお祭りディーワーリーだったのかもしれない。光のフェスティバルと云われるそうだから、ひょっとしたら?
注:ディーワーリーはヒンドゥー教のお正月で、歌と踊りで賑やか。ご馳走もあり、特にスイーツをたくさん食べるらしい。

 2. インド・ツアー

前回の経験から、インドにフラリと行くのは無謀と思ったので、ツアー旅行を探したが、これといったプランはなかなかない。インドは広すぎ、しかも行きたいところはバラバラに離れている。ようやく見つけたツアーはアグラー、カジュラホ、アジャンター、エローラを巡る8日間という旅である。旅程2000kmを超える。東部と南部には行けぬが、これで良しとすることにした。

デリー(ニューデリー)

1998.11.22 土 

成田1200発エア・インディアでデリーに向かう。1800デリー着。空港から約1時間でホテル・オベロイに着く。

デリーはインドの首都だが、イギリス植民地下の首都になってから100余年、それほど古いわけでもない。しかしその前800年ぐらいの間、ムガール帝国を含めた数多くの王朝の首都でもあったが、ムガール帝国時代のオールドデリー、インド独立後のニューデリーなど、支配体制によって、デリーの位置が少しずつ変わっている。言い換えれば、デリー地域には別々の首都の跡が残っているということ。以前は、現首都をニューデリーと呼んでいたこともあったが、いつの間にかデリーという名前に統一されていた。

1998.11.23 日


デリーの市内をバスで回る。最初はオールドデリー。ヤムナー川の西岸の赤い城、ラール・キラー(レッド・フォート)の周りを歩く。そこから、さらに西へ伸びているチャンドニー・チョーク大通りに足を入れようとしたら、危ないと止められた。大通りに違いはないが、人、リキシャー(人力車が発展したもの)、牛車、手押し車、自動車など動くもので道が完全に塞がれ、歩くスペースはまったくない。通りの両側は細かい商店が折り重なっている。這う這うの体で脱出、南に移動する。まずはガンジー火葬の場ラージ・ガード。女学生達が見学に来ている。



そこから、ニューデリーに入る。風景は一転、広々とした敷地に官庁、博物館などが点在している。そこを過ぎて、インド門に向かう。第一次世界大戦インド人戦没者慰霊碑である。近くに中が空っぽの天蓋がある。これも記念碑である。


「デリーで新しく町を建てようとする者は必ずそれを失う」という古くからの予言があるそうだ。デリーでは少なくとも7つか8つの征服者が首都を作ったが、すべて失っている。最後の例はイギリスである。

1911年にイギリスはデリーを首都とし、ニューデリーを作ったが、1947年にそれを失った。わずか36年支配しただけである。インドの民は独立後、インド門の脇の天蓋の中に立っていたイギリス国王の像を取り払い、空のままとして、インドの戦いと勝利の記念碑とした。そして予言が真実である証拠とした。侵略者はいずれ去るという信念と確信が予言となったのだろうと思われる。

次に、ニューデリーから南に15km移動し、クトゥブ・ミーナールの塔を見に行く。インド最初のイスラム王朝の遺産である。高さ73mの、世界で一番高いミナレットだそうである。近くにある鉄柱は、古い時代1700年ぐらい前)のものにも関わらず、純鉄製なので錆びないそうだ。もっとも人が触るところは少し錆びている。



このあと、バスでアーグラの町まで走った。230kmの旅である。ア-グラではホテル・トライデントに泊まる。ホテルはまあまあなのだが、建物の周りの悪臭に閉口する。夜、庭で人形劇があった。観客は数人だった。

アーグラ

1998.11.24 月

タージ・マハル

5,6歳の頃、家で「子供の科学」という雑誌に載っていたタージ・マハルの模型の写真を見たという微かな記憶がある。80年近く前のことだが、それからずーっと実際に見に行きたいと思っていたが、ようやく実現できることになった。想像通りだった。しかし予想よりはるかにスケールが大きい。まず北壁に沿って正面に向かう。砂岩造りの城壁と大楼門が赤いので、色に違和感を抱いた。ふと見渡すと、はるか遠くに白亜のドームが見え、やはりタージ・マハルに来たと納得した。


正門に入り、奥を覗くと、タージ・マハルが、それこそ模型のように浮かんでいる。前庭を通り庭園に入り込む。庭園は十字型に交差する噴水付き水路で四等分され、中央に池と台座がある。ここに登って、ドームを眺める。依然として絵の中の建物という感じ。




ここからまた歩いて、ようやく白い大理石の基壇に辿り着く。結構距離がある。基壇の高さはかなり高い。基壇の中心に立っている白いドームが、近づけば、近づくほど巨大になっていく。時間・場所で、白い色が微妙に、ピンクに、乳白色に、薄紫に変化する。4本の尖塔が立っているが、本来墓所であるから、寺院ではない。中央アジアやイラン・イスラムの寺院に似た形式で建てられているということ。


ドームの壁に手を重ねると、吸い込まれるような感触がある。美しさに目を奪われ、周りが見えなくなる。親近感さえ湧く。実在する、巨大で優しい空間だと云うことを実感する。この感覚は、このドームの白い大理石を撫ぜないと生じないと思った。これを作った王の、王妃に対する愛情と情熱に脱帽する。

 

全体としては、ヤムナー河岸の東西300m、南北600mの長方形の敷地で、真ん中に300m四方の庭園が占め、南端の150mに巨大な正門(大楼門)と補助建物、そして河岸の北側150mが墓所(霊廟)で、赤色砂岩造りの土台の上に白色大理石の基壇、そして壮麗な白色ドームが聳え立っている。基壇左右には赤砂岩の建物があり、左はイスラム寺院、右は迎賓用だそうだ。庭園の東西南北に水路が走り、交点は池とになっている。

本来は王妃一人ための墓だが、莫大な国費と22年の時間をかけて作られたのは、ムガール帝国の威信を表すためでもあったようだ。


タージ・マハルはマウソレウム(霊廟)だが、ここではドームと記した。墓所というより芸術品と云ったほうが相応しいと思ったからである。

アーグラ城

タージ・マハルからヤムナー川に沿って西へ2km離れたところにあるアーグラ城へ行く。アマル・シング門から入るが、門は赤砂岩の塊で、無骨な構えそのものが要塞として造られたものであることを語っている。中に入る。中は広い。いくつもの建物が散在する。ジャハーンギル宮殿、シャージャハーン寝殿(カース・ハマル)、囚われの塔(ムサンマン・ブルジェ)などを見る。

囚われの塔はシャージャハーン王が息子に幽閉された場所で、亡くなるまで正面に見えるタージ・マハルを見て過ごしたと伝えられる。どこにも調度品はなく、大広間が空虚のまま残されている。白い大理石の建物はシャージャハーンが作り、赤砂岩の建物はアクバル帝が作ったとされている。





アーグラ城はムガール王朝最盛期の王城で、16世紀から17世紀にかけてアクバル、ジャハーンギル、シャージャハーンなどの王の居城だった。タージ・マハルを作ったのはシャージャハーンだが、息子アウラングゼーブによってアーグラ城に閉じ込められた。アウラングゼーブは都をデリーに移し、イスラム教国の拡大を目指して戦ったが、宗教的不寛容さと戦費の増大から成功を収めず、以後帝国は衰微した。

アーグラからジャンシーまで列車で移動する(3時間半ぐらい)。ジャンシー駅からはバスでカジュラホに向かった(160km、4時間)。ジャンシー駅で、ツアーの一人が、昼飯の弁当を、要らないからと、周りにいた物乞いに渡した。途端に乞食たちが群がり集まり、弁当の争奪戦で一騒動起きた。慌てて、ガイドが飛んできて、制止しようとしたが、しばらく騒ぎが続いた。後で、食べ物を渡さないようにと厳重なお触れが回った。

カジュラホのホテルはジャス・オベロイ、かなりモダンなリゾートホテルだったが、バスタブが水漏れ、残念。


ジャンシーはカジュラホに近い駅というだけで、単なる通過点。何処も見ていない。

カジュラホ

1989.11.25 火

抜けるような青い空、開けた空間に点々と屹立する寺院群、遊園地という感覚さえ漂うカジュラホだった。寺院の壁という壁全体に彫刻が施され、尖っていく上段は幾何学模様で埋め尽くされ、中段からは人の生き様そのものを描いた彫像が乱舞している。苦行僧、音楽家、戦士、儀式、庶民の生活など何でもある。


エロチックなレリーフで有名な男女の交合彫刻(ミトゥナ)もいくらでもあるが、淫らな感じはまったくない。すべての像はすべてを肯定し、人の世を謳歌している。


神々や、無知と知識の争いを象徴する神獣などもいる。アイラインを引いたり、足首に鈴をつけようとしている天女(アプサラ)たちもいる。



見ていて飽きない。つい浮かれて、前庭のライオン像を飛び越そうとして制止された。まだまだ寺院があるのだが、見て回るどころか、一つの寺だけでも、見る時間が足りない。満足した気分と見足りない不満とを抱えながら、カジュラホを後にした。ブーゲンビリアと百日紅が綺麗だった。

カジュラホという名は、古代の城門が二本のナツメヤシ(カジュラ)の金の彫刻で飾られたことからきたと云われている。1000年ほど前に、この地を支配したチャンデーラ王国の庇護のもと、200年の間に85の寺院群が建立されたが、その後忘れられ、再発見されたのは19世紀で、現存するのは25の寺院である。どうしてこれだけ大らかに人の生業を歌う寺院ができたのかは不明のままらしい。カジュラホは観光用に整備されているので、インドとは思えない、こざっぱりした公園になっている。

寺院群は西郡,東郡、南群に分かれているので、廻ろうとすると時間がかかる。西郡では寺院が密集していて、カンダリア・マハデーヴァ(1050年頃)、ヴァラハ(925年頃)、デヴィ・ジャグダンベ寺院(1000年頃)と並び、向かいにマタンゲシュヴァ(925年頃)、ラクシュマナ(950年頃)、ヴィシュヴァナタ(1000年頃)、ナンディ寺院などが集まっている。東郡には遺跡とヴァマナ(1075年頃)、ブラーフマ寺院(900年頃)などがあり、南群にはドゥラデオ寺院(1150年頃)などがある。

ほとんどがヒンドゥー教寺院だが、ジャイナ教寺院もいくつかある。群同士は離れているので、皆見て回ることはできないが、西郡のみでも無理、カンダリア・マハデーヴァ、デヴィ・ジャグダンベ寺院だけですら、納得できるほど見ることはできなかった(もっともっと時間が必要)。




 またジャンシーまでバスで戻る(4時間)。ジャンシーから寝台列車(2等寝台)でジャルガオンまで行く。列車に乗り込むときに、また大騒動があった。指定席がすでに占領されていたのだ。妊婦が座っているので、退かせないという。彼女はちょっとは気にしたようだが、堂々と居座っている。ガイドは、どこをどうしたのか判らぬが、別の寝台を都合して、我々を押し込んだ。皆ばらばらの席になり、私は一人インド人に交じって寝ることになった。寝台列車は日本と似たような仕組みだが、通路側にも縦のベッドがあるのが違う。そこに横になると、窓側の3段ベッドから裸足の足が6本にゅっと、こっちに突き出ているのが目に入った。一晩その足達と付き合った。やれやれ。

夜食をガイドが運んできた。これがべらぼーに旨かった。金属のお盆にカレー汁が注がれ、鶏肉の塊が鎮座しているだけの食事だが、薄暗い照明のせいか、よく見えない。見えないながら、食べたが、なんとこれが、インド滞在中の最高の美食だった。走っている満員列車の中でどうやって造り、どうやって運んできたのか、不明のままだが、まあいいとしよう。

後になり、無限大を発見したのがインド人と云われるのが本当であると信じるようになった。寝台列車は満員だったのだが、我々が乗り込んでも何の問題もなく、満員のままである。つまり無限大に足し算をしても無限大のままである。インド人は常日頃無限大を実感しているのではなかろうかと思った。

アジャンター

1998.11.26 水

早朝、ジャルガオンに着き、バスに乗り換え、アジャンターに向かった。駐車場で車を降り、坂道を降りていく。ある程度下ると、少し前面が広がり、辺りの様子が目に入るようになる。アジャンター石窟群の地形がいっぺんに分かった。



川がデカン高原を削ってできた馬蹄型の渓谷の断崖の中腹に洞窟を拵え、それが連なって石窟群になっているのだ。見上げると台地がぐるりと囲み、その下に人工の構造物が帯状に並び、更に下がると谷底になる。ワグハー川というのだそうだが、ほとんど涸れている。28の石窟が見つかっているそうだが、石窟をつないでいる通路を辿って、幾つか見て回る。谷底のせいか、他の場所より暑い。11月末なのだが。


まずは第1窟、かなり大きいが、柱が妨げになり、フラッシュも焚けないので、写真を撮るのは断念し、現地で写真集を購入した。アジャンタの顔と云われるほど有名な、法隆寺金堂壁画の元と云われる菩薩図が、この石窟にある。しかし、1500年前の絵で、変色している。当然のことながら、元の絵を想像してみるしかない。あと第2窟、第16窟。第17窟などには釈迦の前世の物語の絵がある。


 


26窟まで行く。ここには横臥した涅槃像がある。これだけ石窟があると、印象が重なって、どこに何があったか、判別できなくなってしまった。疲れた。


アジャンターのことは、教科書にも載っていたので、昔から知っている。でも実物がどんなものか知らなかった。確かに絵画は多いが、断崖に掘られた石窟群と云うだけでは、特に珍しくもない。仏教の遺跡そして絵画がこれだけきちんと残っているのが、貴重と云うことなのだろうか。インドで仏教が盛んであったことを思い出させるという意味はある。

アショカ王が仏教を国教と定めた2200年前に第一期の石窟が作られ、そのあと700年後仏教が衰退に向かう時期に第二期の石窟造りが行われた。第一期では、仏像はなく、ストゥーパ(仏塔)だけの石窟、次の第二期では華麗な絵物語と釈迦・菩薩の彫刻像を主体とする石窟などから、インドにおける仏教の流れが分かる。それから1500年立ち、この国はヒンドゥー教とイスラム教の国となった。19世紀に再発見されたが、宗教とは無縁の観光の名所となった。

午後バスに乗り、南へ走り、オーランガバードへ行く。ラマ・インターナショナル ホテルに投宿する。オーランガバードは、ムガール朝のアウラングゼーブ王がデカン高原攻略の拠点とした町で、彼の名前が付いている。ちょっとした町だった。

エローラ

エローラのことはあまり知らなかった。行きたがっていたのは娘だったが。行ってみると、他の石窟とは違う世界だった。

1998.11.27 木

オーランガバードから、バスで北西へ約30km。途中は灌木の林だが、遠くから見ると密林のイメージである。


バスから降りてみると、目の前に一段と高い断崖の壁が続いている。その断崖の一部を削り取り、そこに立っている大きな建築物に案内された。カイラーサナータ寺院である。断崖を掘り抜いて、その跡地に建物を作ったと思ったが、そんな単純な話ではなかった。断崖を削りに削り、彫り残った岩石がカイラーサナータ寺院そのものになり、大地から生えた建物となっているのである。言い換えれば、もはや石窟ではなく、岩山を上から彫り込んで作った一枚岩の彫刻寺院である。他では聞いたこともない。切り開かれた空間の大きさは奥行き80メートル、幅50メートル、高さ2535メートルぐらい、その空間を満たすように、塔門、ナンディー堂,前殿、本殿が並び、中庭にはスタンバ(神の塔)、神象などの像がある。





すべての建造物が一つの岩山からに彫り出されているのだ。しかも建物には無数の彫刻が彫り込まれている。作るのに100年以上かかったとのこと。事情が判ってくると、言葉を失う。美しいとか、荘厳とか、巨大とかいう範疇ではない。呆然とするしかない。どれだけの情熱と執念がつぎ込まれたのか、想像するのさえ難しい。この後、他の石窟にも案内されたが、関心が無くなってしまっていた。カイラーサナータ寺院を先に見てはダメと後から聞いたが、後の祭りだった。

実はエローラには34の石窟がある。しかし16番目のカイラーサナータ寺院が圧倒的な魅力を持つので、他の石窟は影が薄くなってしまう。第1窟から第12窟までは仏教石窟群である。1500年前の仏教の衰退期に掘られた石窟群で、主に修行用に作られている。第13窟から第39窟までの17の石窟はヒンドゥー教石窟群である。16番目がカイラーサナータ寺院だが、空間に寺院そのものが浮かび上がっている形は、他の石窟にはない。北のはずれには5つのジャイナ教石窟群がある。400年位後に建てられたらしい。3つの宗派の石窟が集まっているわけで、宗教には寛容な時代だったとも思えるし、根は同じ宗教なのだからとも言えるかもしれない。実際には16番以外の石窟はチラッと見ただけで終わった。

 

これで、アジャンター、エローラ、カンヘーリー、エレファンタ島の石窟群を見て回ったが、石窟はインド中西部に集中しているように思える。洞窟を掘るのに適したデカン高原の存在が大きかったのではないか。ヒンドゥー、仏教、ジャイナ教等の石窟が共存できていたのは、もともと古代のバラモン教から発しているからだと思ったが、イスラム教の石窟はない。それどころか他の宗教の施設を破壊する傾向がある。仏教が衰退する時期にイスラム教が西から勢力を伸ばしてきたが、かなり抵抗があったのではないだろうか。今のインドとパキスタンの抗争がそれを物語っていると思う。現在の信者の割合は、ヒンドゥー教徒80%、イスラム教徒14%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.7%、佛教徒0.7%、ジャイナ教徒0.4 だそうだが、歴史的に圧倒的にヒンドゥ―信者が多い。

歴史をざっと乱暴に辿ると、今から3500年前にインダス文明(今のパキスタンの地)が滅び、3000年前に中央アジアから来たアーリア人が亜大陸を支配し、バラモン教(古代ヒンドゥー教)を広めることにより、インドのイメージが出来上がった。2500年前には仏教とジャイナ教が派生したが,1000年後衰退し、ヒンドゥー教が残った。1000年前頃、西からイスラム教が進出するようになり、19世紀に入りイギリスによるムガール帝国の滅亡まで、イスラム教国家が続いた。ただしアラブ系ではなく、中央アジアのモンゴル系のイスラムである。インド独立後、イスラム系は概ねパキスタンに移り、インドは再びヒンドゥーの国になった。イスラムは一神教であり、他宗派を認めないが、インドでは他派と共存できる寛容の国であり、わが国と通じるところがある。もっともカースト(身分)制はバラモン教に根差していて、簡単には解決できないらしい。

エローラからバスでオーランガバードに戻り、飛行機でボンベイに向かった。

ボンベイ(2回目)

1998.11.28 金 ホテル オベロイ タワーズ

ボンベイは、以前来た時に比べ、少し整理整頓された感じがあった。国際会議のお陰か。

再度、エレファンタ島に行く。結構観光客が来ている。

午後、空港に向かう。夕方ボンベイを発って、翌1129日朝8時に成田に着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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